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幽けき人は天明にとける  作者: めろん
第三章 寄せない渚
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4


 翌日の金曜日は、とても寒かった。コートの着用を許してくれない学校は理不尽だろうとクラスメイトたちが朝から熱く議論をしていた。一応教室は冷暖房完備(ただし許可がないと使えない)だが、登下校はそんなこと関係ない。ブレザーの下にセーターを何枚も重ね、そしてワイシャツの下にも薄手の防寒着を着込み、さらに手袋やマフラーの防寒具も身に着けるが、それでも冬将軍の暴れまくる外は寒い。そこに加え女子はタイツが許されず、膝下までの靴下が生足を覆うのみ。女子の怒りはものすごかった。確かに冬の登下校の時、特に自転車通学は顔と足がちぎれそうになるほど痛くなる。

 放課後、自転車に乗って走る雪音は休み時間のたびに行われていたその議論を思い出していた。びゅうびゅうと吹きつけてくる風は暴力的で首をすくめる。学校ではきっちり二つに結んでいる髪の毛をほどいたのはあまりの寒さのためで、下ろした髪の上からマフラーを巻くと気持ちあったかい気がした。

 覆われず外部に晒された皮膚が悲鳴を上げるが何とか我慢し、雪音は学校からは少し遠い、市が運営する小さな図書館へやって来た。古ぼけた建物の見た目に侮るなかれ、学校の図書館や大きな本屋にも置いていないような珍しい本がここにはさも同然と言わんばかりに置いてあるのだ。館長の趣味がいいのよ、とは母の言だ。

 知る人ぞ知る、といった図書館だ。小さな駐輪場にも大きくない駐車場にも数台利用者の乗ってきたものが停まっている。駐輪場に自転車を停めて寒さでかじかむ手で何とか鍵をかけ、雪音は足早に重厚な扉を押し開けて転がり込むように館内に入る。外とは違いすぎるあたたかな空気が満ちていて、体の緊張がほっとゆるんだ。寒暖差にくしゅんとくしゃみが一つ。

 入ってすぐ左に簡素な喫茶室があり、小学生の男の子とそのお母さんが借りてきたのか絵本を広げて楽しそうにしゃべっていた。ちらりと後ろに視線をやると、やはり流はじっとその親子を見ていた。

 そのまま歩を進めると、ずらりと並ぶ書架が現れる。厚い絨毯に足音が吸い込まれた。衣擦れ、本をめくる紙のこすれる音、誰かが鼻水をすすり、時折小さな話し声。人がいる限り静寂にはなり得ないが、けれど本に囲まれる空間には静謐という言葉がよく似合う。

 書架のあいだをうろうろとし、やがて探していた長編ファンタジーの小説が見つかった。好きな作家の初期の作品なのだが、絶版となり今では手に入らないものだ。一冊腕に抱いて、何かほかに面白そうな本はないかなと再びうろうろ。タイトルで興味を惹かれては手に取ってみて、ぱらぱらと冒頭に没頭する。それを幾度も繰り返し抱えた本が三冊に増えたところで、雪音は背後の空気が変わったのを感じ取った。

 振り返る。流が何かを見て固まっている。目が丸く見開かれ、一点から動かない。視線を辿ると、背の低い女の人が本を見ていた。

「なぎさ……」

 震える声には寂しさと甘やかな響きが不協和音のように同居していた。

「お知り合いですか?」

「い、いや……」

 瞬間的に、スイッチが入った。

 腕に抱えた本をぎゅっと抱き締め、すたすたと大股で彼女のもとに行く。流が「おい、やめろ!」と叫んだが、足は止めなかった。これを逃すと、もう二度と次はないだろうと本能的に察知した。雪音が彼に何かできるのは、これがラストチャンス。

 雪音の威圧感が伝わったのか。女性は声をかける前に雪音に気づいた。雪音より頭一個分ほど背が低い、華奢で小柄な女性だった。どこかの令嬢のような品のよさがあり、佇まいが何となく優雅だ。肩より上で揃えられた艶やかな黒髪は、彼女が首をかしげたことによりさらりと揺れる。くるりと大きな瞳は、雪音を映して不思議そうに瞬いていた。

「あの」

「はい?」

 短い音でも分かる、蒼穹に凛と響く鈴のように美しい声。

「すみません、持田流さんってご存知ですか?」

 彼女ははっと目を見開き、間を置いてこくんと首肯した。

「……はい、知ってます」

「以前お二人が一緒に歩いているのを見たことがあって。私のいとこが持田流さんと同じ大学だったんですけど、彼が亡くなってからあなたはどうしてるんだろうって心配してたので、つい声をかけてしまいました。いきなりごめんなさい。それであの、いとこは聞いても教えてくれなくて。持田流さんには何があったんですか? 初恋だったんです。もういないって分かってるけど、でも知らなきゃ前に進めない気がして。ずっとずっとうじうじ考えて悩んでたんです。ずっと苦しいの」

 設定を練る時間はなく、頭に浮かぶことをひたすら吐き出す。整合性なんて気にしてられない、ただただ矛盾がないように、彼女に考える隙を与えずに言葉を重ねた。

 圧倒されたように彼女は押し黙っていたが、やがて「彼が死んだのは脳卒中だったのよ、そこにドラマティックな展開なんて何もなかった」とぽつり答えた。けれど雪音が聞きたいのはそこじゃない。

「それは知ってます。そうじゃなくて、生前の流さんのことが聞きたいんです。例えば、お姉さんとの関係とか」

「……」

「全部を踏まえて、私は過去を想うことに決着をつけたい。前に進みたい」

 前に進む。先ほどその言葉を出した時に彼女の表情が揺れたのを見た。ダメ押しで重ねると、眉を下げて困った顔をしていた彼女はふうと諦めたように息を吐いた。

「分かったよ、女子高生さん」

「! ありがとうござ」

 げほんげほんとどこかからわざとらしい咳払いが聞こえてきて、彼女と目を合わせた。ここは静謐な空間だ、話をするには向かない。

「喫茶室に移動しましょうか」

 彼女の提案にこくりと頷く。先を歩く彼女の背を見てから雪音から少し離れたところにいる流に視線を転じると、雪音にはとても言い表せない複雑な表情を浮かべて彼は彼女を見ていた。


 喫茶室で絵本を見ていた親子はいなくなっていた。喫茶室とは名ばかり自動販売機と簡素な机と椅子が設置されたのみのここにいるのは、都合よく雪音と彼女の二人きりだ。流は恐らく離れられないから室内にはいるが、見たくないのか聞きたくないのかこちらに背を向けて隅に佇んでいる。

 彼女は浦部うらべ凪早なぎさと名乗った。二十三歳。流が死んだのは二十一の時、今から二年前のことだったらしい。雪音は名字だけを伝えた。

 携帯を触っていた凪早はそれをバッグにしまい、雪音をまっすぐに見る。

「君島さんの夢を壊したら悪いけど、私と流ちゃんは当時付き合ってたの」

「ですよね」

「驚かない?」

「そうだろうと思ってました」

 事実、そうなんだろうと疑う余地もなく思っていた。彼女は自販機で買った缶コーヒーを手持無沙汰なのか手先で弄んでいる。

「私と流ちゃんは高校が一緒で、二年生の時に初めて同じクラスになって『この人私と似てるな』って漠然と思った。一年の時も彼はあの容姿ですごく目立ってたから顔も名前も知ってたんだけど、近くで見ることはなかったから遠い芸能人のように思ってたのよね」

「モデルさんみたいですよね」

「ね。雑誌から抜け出た王子様ってみんな言ってたもん」

 凪早の声は鈴の音を転がしたように美しく、笑うと雰囲気がやわらかく幼くなってとてもかわいらしい。この人はこの人で芸能人のようだ。

「でも似てるなって感情は、彼も同時に持ったらしくって。その似てるっていうのは、まあざっくり説明すると家庭環境なんだけどね。私も流ちゃんもそこそこ裕福というか、地元ではちょっと有名だったの。議員とか病院とかそんな感じで。でもね、私たちは二人ともそんな家が大嫌いだった」

 流の家も凪早の家も、家庭はほぼほぼ崩壊状態だったという。父も母もよそに相手を作り、不倫が暗黙の了解で子供のことなどこれっぽっちも構いはしなかったらしい。

 裕福だから表面的な生活に不自由はなかった。けれど幼い子供たちは、ひたすらに愛情に飢えていた。

「学校で明るく振る舞っていても、心の深いところは寂しくて寂しくてしょうがなかった。流ちゃんもそれは一緒だったみたいで、だから互いにそんな隙間を埋めるために、気づいたら寄り添ってた」

 ひとりぼっちの子供じみた寂しさから始まったそれはやがて恋愛感情に変わり、そして最終的には執着となった。病的なほど互いに干渉し、過剰に心に踏み込んで、その煩わしさが「愛」だと信じて疑わなかった。

 私たちはかけがえのない恋人だ、片時も離れずずっとそばにいたい、いなければいけない、いるべきだ。

「私たちは狂っていたわ。私も彼も、依存しすぎてるって分かってたけど、引き返せなかった。このままじゃよくないって頭のどこかでは分かってたけど、離れられなかった。だから彼が死んだ時、私も死ぬしかないって思ってた」

「……でも、凪早さんは生きてる」

 淡く笑む。切なくて儚くて、今にも消えてしまいそうな曖昧な笑み。

「私は臆病だったのよ。彼がいない世界に生きる価値も意味もないと思っていたけど、でも、単純に死ぬのが怖かった。そんな自分が心底嫌だったわ。流ちゃんはいない、私も死にたい、でも死ぬのは怖い。死にたい死にたい、それを口癖のように繰り返しながら、それでも私は命も絶てず無為に生きていた」

 凪早の笑顔が変わった。ふわり花が綻ぶように、やわくゆるく破顔する。

「でもね、そんな時にたまたま路上ライブってものを初めて聴いたの。その人は素人だったけど、でもその歌にすごく惹かれて、私は救われた。ずっと抱えてきたものがすっと溶けていくみたいに心が軽くなって、やっと前を向けた。……今はね、その人と付き合っているの」

「そうなんですか」

 全身から「幸せです」と伝わってくる笑顔に、何だか雪音もほっと安堵した。

 買ったまま放置していたレモンティーのペットボトルを開け、喉を潤す。ベルガモットの爽やかな芳香が腹の底へ駆け抜けていく。

「って、話がだいぶ逸れちゃったわね。ごめんね、今の私の話なんかして。……大丈夫そう?」

 一瞬、どう言い包めて話を聞き始めたのか忘れてしまって反応が遅れた。機械的に口角を少し上げる。

「はい、ありがとうございます。ちょっとずつ前を向いていこうと思います」

「うん、私もゆっくりだったから。今でも流ちゃんのことを思い出しては、歪な関係だったかもしれないけど大好きだったし、彼といられた時間はすごく大事だったなと思うの」

 でも。

「今だからこそ思うのは、付き合ってた時、傷の舐め合いじゃなくてお互いを支えて前を向かないといけなかったんだなって。そうすれば世界はもっと広がって、生きやすかったんだろうなって思うの」

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