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学校が終わり家に帰ると、見覚えはあるが普段はここにない靴が玄関に揃えられていた。
まっすぐリビングに行くと、兄の漣がライを抱っこしてソファーでだらけていた。
「おかえりー」
「ただいま。漣くん帰ってたんだ」
「まあな」
「おかえり」
「おー、ただいま」
ひらと片手を振る兄はライをホールドして離さない。ライは一瞬助けてほしそうに雪音を見たが、背後の流の姿を見つけたのか何事もなかったかのようにすっと視線を外した。幽人がいるあいだは頑なに近寄ってこないので、散歩を任された時は骨を折る。
「今日平日だけど、大学は?」
「休校だから帰ってきた」
「あーそうなんだ」
「そうだ、ユキさ」
よっと起き上がると、漣はライを膝に乗せて頭の頂点を掻くように撫で始めた。気持ちがいいのか、ライの目がうっとりと細められる。
「ナルちゃんに彼氏ができたって聞いた?」
「昨日お母さんから聞いたけど、何で漣くんが知ってるの?」
「ヒデから聞いたから」
雪音より四つ上の漣と二つ上の英巳は、今松海市の中心にある同じ大学に通っている。特別連絡を取り合うことはないようだが、構内でばったり会った時なんかには少し話をするそうだ。
思い出したように漣が苦笑を漏らし、耳に息がかかったのかライがぶるぶると勢いよく頭を振った。
「学校歩いてたらさ、いきなり『漣くーん!』って盛大に泣きつかれた」
「わあ、想像したくない」
「そこから大学のカフェで三時間ほどことの顛末を説明されたよ。『ナルにまた彼氏ができた、どうしよう』って、ひたすら泣いてた」
「ヒデくん相変わらずのシスコンぶりだね……」
兄の英巳は、妹の鳴花に対する愛がすごい。すごすぎる。それはシスコン、兄バカと称されるレベルで、鳴花のことが大好きすぎるのだ。
「ナルのことが絡まなかったら普通にかっこいい人なんだけどね……生徒会長やってる時とか、そんなの微塵も感じなかったもん」
中学三年の時、雪音も受けるということで鳴花も津科高校を受験する予定だったのだが、英巳が通っているという点を親戚一同で考慮して会議が行われた。結果彼女は猛勉強をしてこちらよりもランクが高い霞ヶ丘高校を受け、合格。そちらに入学した。鳴花が同じ学校にいると彼が残念になるがまあそれは置いといて、鳴花の高校生活に彼が卒業するまでの一年だが間違いなく支障が出るということで親戚一同一致の決定となった。
雪音と英巳が噂されたらしい発端は、間違いなく鳴花に関することを話している時じゃないかと思っている。一年ほど前にも鳴花には彼氏がいて、今の漣と同じように雪音もよく捕まっていた。
「あいつ、ナルちゃんが結婚でもしたらどうなるんだろうな」
「それ冗談でもヒデくんに言ったらだめだよ」
「言わねーよ恐ろしい」
それでも不思議なことに、東雲家の兄妹仲はそれでうまくいっているらしい。絡んでくる兄を邪険に扱う妹という構図だし、「あれはね、兄だと思っちゃいけないの」とは鳴花自身の言葉ではあるけれど。
「っていうか、荷物置いてきたら?」
「あ、そうだね」
兄に言われて、まだリュックを背負い学生鞄を持っていたことに気づく。そして気がついてしまうと、それはずんと一気に重みを増した気がした。
二階にある自分の部屋に行き、荷物を置いて一息つく。
と、
「……兄がいたんだな」
今日初めて、流の声を聞いた。このタイミングで話すのかと一瞬びっくりして呆けてしまったが、すぐに「ああ、そう」と平静を装って言葉を返す。
「うん、お兄ちゃん。四つ上です。流さんは兄弟いましたか?」
流れで問うてみると、意外にもちゃんと返事があった。
「いない。一人っ子だった」
「そうなんですね」
「兄のこと好きか?」
「そりゃあ、家族なので好きですよ。ちっちゃいころには喧嘩もしましたけど」
「そうか……」
そこで興味を失ったように、流は再び話さなくなった。つかの間の会話は、やはり夢じゃないかと思うほど静かに始まり静かに終わった。
それから数日、他愛ないことで頻繁に雪音が話しかけるも、流は完全にスルーという日々が続いた。淡々と、流は毎日雪音のあとをついて歩くだけ。それもたぶん、離れられないという制約がなければついてなど来ないだろう。
その日の放課後は、部活が休みの翠夏と一緒に近所のパン屋へ寄り道した。こぢんまりとした、けれど古臭くはないオシャレなお店は地元の人に人気で、学校帰りなど夕方に来ると商品がないこともざらにある。
「あ、今日いつもよりあるね」
「ほんと、やったー」
カランコロン、と軽やかなドアベルに迎えられる店内にはふくよかなパンの香りが体に染みていくほどいい匂いが充満し、深呼吸をすると日向ぼっこをしたように心がぽかぽかとあたたかくなる。客は一人もおらず、奥の厨房から「いらっしゃいませー」と店員が出てきた。
入り口のそばにあるトレイとトングを取って、商品棚を順々に見ていく。バケット、カンパーニュなどのハード系から、デニッシュやフォカッチャなどのさくさくな菓子パンからやわらかい調理パンまでずらりと並んでいる。種類とりどりの商品に視線がうろうろと彷徨い、たくさんのおいしい選択肢に惑わされる。
「どれにしようー悩む!」
「あ、メロンパン最後の一個だ」
まず一つ、とトレイに乗せ、再びパンたちを眺めて熟考する。棚に並んだ食パンまでおいしそうに見えてくるから困ったものだ。パン屋に来るたび、見慣れない切られていない棒状の食パンを見ては何だか楽しくなってくる。
カランコロン、いらっしゃいませー。軽快なドアベルと店員の挨拶に振り向くと、幼稚園くらいの女の子と若いお母さんがお店に入ってきた。女の子は「パン!」と目を輝かせて店内をちょろちょろと動き回り、お母さんは「触っちゃだめよ、走らないで! ごめんねえ」と先客である雪音たちにぺこりと頭を下げた。
小さな店内は、四人(とあと幽人である流)でもう身動きが取りづらいほどだ。早く出たほうがいいと商品棚に意識を注ぐが、やはりどれもおいしそうで目移りする。
「あたしこれで決ーまり」
三つほどトレイに乗せた翠夏がレジで精算を始める。雪音はまだメロンパンしか取ってなくて、焦りつつ隣に並んだクリームパンとクロワッサンを見てどちらにしようか悩む。クリームパンは優しい薄茶色の表面が艶やかに光り、中には自家製のカスタードクリームがたっぷりと詰まっているんだろう。クロワッサンは香ばしい色に焼き上がったそれに歯を立てれば、何とも言えぬ音と香りが口の中で炸裂するんだろう。どちらにも視線を誘われる。
「ママー、メロンパンは?」
「んっとね……あらら残念、今日はメロンパンもうないみたい」
「え、やだー! あたしメロンパンがいいー!」
「でももうないから」
「絶対絶対メロンパンじゃなきゃ嫌!」
雪音は自分のトレイに目を落とす。淡い色のクッキー生地に縦横と線が走るメロンパン。銀のトングで持ち上げて「あの……」と若いお母さんの視界に入る。
「メロンパン、もしよかったら……」
「えっ? いやいや大丈夫で――」
「おねーちゃんメロンパンくれるのー!?」
お母さんの言葉を遮って、半べそをかいていた女の子がきらきらと大きなどんぐり眼で見上げてくる。
「メロンパン好き?」
「うん、だいすき!」
「そっか、じゃあどうぞー。……大丈夫、ですか?」
メロンパンをそのままトレイに乗せ、伺うように母親を見る。彼女は呆けたように雪音を眺めていたが、はっと気がつきぶんぶんと首を縦に振った。
「だ、大丈夫です! けど、本当にいいの……?」
「はい」
「あたしメロンパン食べれる? 食べれる?」
服の裾を引っ張る幼子を、母親は慈愛に満ちたやわらかな笑みを向けてふわふわの子供の髪を撫ぜる。
「うん、お姉さんがどうぞだって」
「わあ、やったー!」
「ほら、こういう時は何て言うの?」
お母さんに背を押された女の子が、雪音を見上げてしゃんと立つ。そしてにっこり、この世界の純粋で愛しいものを全部詰め込んだような笑顔を浮かべた。
「おねーちゃん、ありがとう!」
「……いいえ」
対して雪音の張りつけたような笑みは引きつって苦笑となった。幽人に礼を言われた時もだが相変わらずどうしていいか分からないし、さらに小さな子の扱い方も分からない。
何だか居たたまれなくなってきて、二択だったクリームパンとクロワッサンをさっさと取って店員に渡す。その店員にもわけ知り顔で会釈をされて、再度の苦笑いで視線を伏せる。お会計が終わりお店を出ようとすると、母親にはぺこぺこ何度も頭を下げられ女の子には「おねーちゃんばいばい!」と手を振られた。
小さく手を振り返し外に出ると、大きなため息がこぼれた。自分の会計が終わって先に外に出ていた翠夏に「どした?」と問われ、ふるりと首を振る。
「ううん、何でもない」
「そ? 今日天気よくてぬくいし、公園でも行って食べようか」
「そうだね」
「結局どっちにしたの?」
翠夏と会話をしながら、ちらりと流のことを盗み見る。彼は言葉もなく、じっとパン屋の扉を見つめていた。
「流さん」
パン屋に行った日の夜、ご飯も風呂もすませて自室に戻った雪音は流に声をかけるが、彼は視線を寄越すだけで相変わらず返事もしてくれない。けれど数日でそれにも慣れてしまったので、構わず本題に入った。
「流さんは、家族に思い入れがあるんですか?」
仮面のようにある種の冷たさを感じさせる彼の端正な顔に、微かな動揺が滲んだ。
「……どうしてだ」
「私に兄のことを聞いたり、あと今日パン屋さんでずっとあの親子のことを見ていましたよね。それで、何となく」
ほかにも、雪音が家族といる時や学校で翠夏と家族の話をした時も、それまでとは違う視線の温度を感じた。凍った炎のような、激しい感情の中にひやりと鋭いものが含まれた無言の訴えは、知らぬ存ぜぬで流すにはあまりにも主張していた。
合わさった双眸が揺らぐ。そしてそれは拒むように外される。
「話すことは何もない」
冷ややかな声は、外界を遮断し寄せつけない。入る隙がない。
「そう、ですか……」
雪音にできることが何もないなら、それはそれでいいのだ。そう思う、そう思い込ませる。けれど表面の作った感情はすぐにぐらついて、本心がちらりちらりと泳ぐように顔を見せる。
「何かあったら、言ってくださいね」
小さな時は、友達とどう接していたんだろう。もう雪音はそのころのコミュニケーションの取り方は忘れてしまった。
幽人と出会うようになって、徐々に、分からないように、けれど確実に同級生たちと一定の距離を取るようになった。最初は、同い年の友達の退屈な話を聞くよりも老若男女様々な幽人といるほうが楽しかったから。それは次第に、自分の身に起こっていることを知られてはならないという危機感に変わった。積極的に関わりはしないが、けれど寄って来れば拒みはしない。つかず離れず、目立たず教室に埋没するように。中学生の時は今よりもやり方が分からなかった分、なおさら息を潜めて学校に行っていた。
だから、たぶん。雪音は幽人という存在にしがみついているところがあるのだろう。高校に入ったのに部活もバイトも何もしていないのがその最たる例だ。幽人のことを感づかれないためにも、最低限以上学校に関わりたくない。放課後と休日は幽人がいたらそのために動きたい。だから、部活もバイトもしない。
雪音は幽人の声を聞ける。彼ら彼女らの力になりたい。
最初は純粋だった「役に立ちたい」が、時折「役に立たなければいけない」とある種の強迫観念に変わることがある。自分のそういう部分――未熟で身勝手で独りよがりな点は分かっていたのに、どうしてああしてしまったんだろうと、雪音はそのあとの行動を強く後悔することとなる。




