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しかし翌日の土曜日、夕方からあの道を見張っていたが暗くなっても冬樹の母は現れなかった。
日曜日は少し早めに行き、細い路地に身を隠すようにして待っていた。人が通りかかっては辺りを無意味にうろついてみたり、携帯で電話をしているふりをしてみたり、我ながら怪しいだろうとは思うがそんな小細工を施してみる。冬樹は緊張しているのか、あまり話さなかった。
段々と西日が差してきて、空間をオレンジ色に染め上げる。空も、雲も、道も、全部があったかな橙色になる。
「――あ、」
そんな時に、彼の母はここへやって来た。
「お母さん?」
「うん」
彼女は自転車を停めて、電柱の前にじっと佇む。簡素な格好は家からふらりと出てきたように見えた。
「分かった」
深呼吸をする、スイッチを切り替える。笑顔を浮かべる練習をして、路地から出た。
スニーカーの音を立てないように、かかとをゆっくり落としてそろりそろりと冬樹の母に近づく。
「あのう……」
困ったように眉を下げて、下から覗き込むように声をかけた。シンプルな白のカットソーとジーンズ、厚めのカーディガンを羽織った姿は怪しくは見られないだろうが、しかしもうあとには引けない。
「すみません」
「……わたし?」
雪音に気づいた彼女は自分を指差した。
「はい。間違ってたらごめんない。もしかして沖本冬樹くんのお母さん、だったりしますか……?」
自信なさげにおどおどとする。驚いたように目を開き、きちんと雪音と向かい合った彼女は確かにやつれているような疲れた顔をしていた。長い髪は無造作に一つにまとめられ、化粧が施されていないからか目の下のクマが目立つ。ベージュとグレーの地味な服装は近くで見ても、やはり部屋着で家を出てきたような印象を受ける。
「そう、ですけど……」
値踏みをするように上から下まで見られる。雪音は下ろしたままの髪を耳にかけ、ほっと安堵するように息を吐いた。
冬樹はまだ路地にいるようで、横目で探しても見当たらなかった。
「よかった。あ、突然すみません。私、君島といいます。高校生です」
「はあ」
女子高生が何だと不審そうで不思議そうで不可解そうな表情をされる。警戒をされてはいけない。人に好まれそうな、害がなく不快感を与えないような笑顔を作る。
「私、中学生の時の職場体験で冬樹くんと仲よくなって、それから登下校の途中で会ったら話をしたりしてたんです。家が近所みたいだったので会う機会も結構よくあって、いつも楽しそうに話を聞かせてくれる冬樹くんと会うのが私もすごく楽しかったんです」
「まあ、そうだったの……」
「はい。冬樹くんかわいくて、いつも癒されてました」
「そう、冬樹にこんな大きな友達がいたなんて……」
息子から一切聞いたことのない話だろうに、彼女は純粋に感嘆しているように見える。我ながらよく流れるように嘘が出てくるなと毎度思うけれど、穴だらけの作り話に疑問を持たれる前に決着をつけたい。
「それで、あの……」
目を伏せる。核心に入る。冬樹が隣に並んだ。
「私、事件の前日に冬樹くんと会ったんです。私は学校帰りで、夕方でした。冬樹くんは制服じゃなくて私服だったから、どこかに行った帰りだったんだと思います。冬樹くんはいつもと違うそわそわしたような、すごく嬉しいことがあったみたいな、何だかとても浮足立っているように見えました。どうしたのって聞いたら、お姉ちゃんにお願いがあるんだって秘密を打ち明けるようにあるお願いをされました」
「……あの子に、冬樹に、何をお願いされたんですか?」
冬樹の母の声が震える。怯えるように身を引いたが、その双眸には強く強く意志が宿る。ひるんではいけない。地面を踏みしめる足の裏に力を入れて立つ。
「明日はお母さんの誕生日なんだって。プレゼントを買ったんだけど、お家に持って帰るとお母さんにばれてしまいそうだから、私に預かっててほしいって、言われました」
涙が流れる。彼女は両手で顔を覆い、弱々しくくぐもった声で「続けてください……」と呟いた。
「はい……。私は二つ返事で冬樹くんからそれを預かりました。でも次の日は学校でしないといけないことがあって帰るのが少し遅くなりそうだったので、十七時に小学校の正門で待ち合わせの約束をしてその日は別れました。翌日は待っても待っても冬樹くんはそこに来なくて、辺りを探してみたりしたけど見当たらなくて、日が暮れて暗くなるまで待ったけど来なかったので家に帰りました。次の日の朝に会えるように、少し早めに家を出て通学路で待ってようと思ってたんです。でも家に帰ったら、ニュースで速報をやってて……」
嘘なのに言葉が詰まる。母親を呻くように慟哭する。身を引き裂かれたかのように痛く、つらく、悲しい泣き声が道に満ちる。
「預かったプレゼント、ずっと渡しに行かなきゃって思ってました。でも何だがすごく怖くて、近所なのは分かってたから頑張れば家も見つけられたかもしれないのに、知らないからって探そうともしなくて……すみませんでした」
「あ、謝らないで……あなたが悪いわけじゃないから……」
涙でぐちゃぐちゃになった顔と目が合う。
「でも、それがどうして今……」
「このあいだ、地方のニュースで一年経つっていうのを見て、このままじゃよくないって思いました。冬樹くんとよく会ってたところに行ってみたり、その近辺を自転車で周ってみたり、ここにも何度か来てました。でもそんなことをしてもどうにもならないことは分かってて、どうしようかなって思ってたところで、今電柱の前に佇むあなたを見てもしかしたらって思いました。声をかけてよかったです」
わずかに笑んで、肩にかけたトートバッグを探る。良心はもうずっと痛いけれど、そんな心は見なかったことにする。
「近くで見ると、目元がよく似ていますね。冬樹くんのまっすぐな目を思い出します」
「……目と、おしゃべりなところが似たの。あとはお父さん似なのよ」
先日買ったプレゼントを取り出す。綺麗にしてもらった包装は、申し訳ないが少し崩させてもらった。わずかでも年月が経って見えるように。これは、冬樹が一年前に用意したものなんだと万が一でも疑いを持たせないように。
「遅くなってしまってすみませんでした。冬樹くんから預かっていた、お母さんへの誕生日プレゼントです」
差し出したそれをじっと見つめ、おずおずと触れる。雪音が手を放すと、彼女は噛み締めるようにプレゼントを抱き締めた。大事に大事に、雪音には想像もできないほどの激情を綯い交ぜにして、もう二度と離すまいかと聞こえてきそうなほど、ぎゅうっと力強く。
「ありがとう。本当にありがとう」
穏やかな声、やわらかな笑み。春の花が笑うような、ぽかぽかとぬくもりのある笑顔は確かに眩しくて、とても素敵だった。
全ては達成された。
「いえ、今になってしまってごめんなさい。……あ、肩にごみが」
手を伸ばして彼女のグレーのカーディガンに触れる。ちらりと視線で合図を送る。
「――お母さん」
「っ、冬樹……?」
触れた瞬間に呼びかけた冬樹の声に、母は反応して辺りを見回す。雪音は白々しくとぼける。
「? どうかしました?」
「今、声が……ううん、空耳ねきっと。ごめんなさいね、気にしないで」
「あ、はい……。糸くず、取れました」
「ありがとう」
プレゼントを大事に抱える手をすくい上げるように取り、両手できゅっと優しく包み込む。水仕事でかさついて荒れた手は、雪音の母と同じ手だ。
「どうか、お元気で」
「お母さんありがとう、ばいばい」
「冬樹!?」
いきなり雪音に手を握られて不思議そうにしていた冬樹の母だが、再び聞こえてきた彼の声に弾かれたように声を上げる。
「え、どうしました!?」
「今、さっきもなんだけど、冬樹の声が聞こえて……」
「……もしかしたら、お母さんのことを見守っているのかもしれませんね」
ぱっと手を放し、ぴょんと跳ねるように後ろへ下がる。
「それでは私はこれで。急にすみませんでした」
「え、ええ」
まだどこか呆然としている彼女を一人残して、雪音は夕日に背を向けて足早に立ち去った。
「お母さん、いっぱい泣いてたね」
ペダルを踏んで自転車を進める。眩しかったオレンジは段々と日が傾いてきて薄紫へと変貌した。
冬樹の母親の前から離脱して家へ帰る、帰り道。
「そうだね。でも、綺麗な笑顔だったね」
「うん! 僕の好きなお母さんの笑顔だった。プレゼントも、喜んでもらえたらいいな」
下ろしたままの髪が後ろになびく。
雪音ちゃん、とやけに大人びた声が耳元ではしゃいだ。
「いっぱい、ありがとう」
冬樹の息は感じられないはずなのに何だかとてもくすぐったくて、雪音は首をすくめた。




