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相変わらず進んだままの時計の針が零時五分を指す。そうしてやっぱり、幽人はあたかもずっとそこにいたかのように、部屋の空気を変えずに気づけば雪音の目の前にいるんだ。
「こんばんは」
「……こんばん、わ」
おどおどと視線が彷徨う。小さく華奢な男の子だ。小学校の中学年くらいだろうか。白い肌と大きな目が女の子のようにかわいらしい。
雪音のことが不審だが気にはなっているようで、ちらちらと目が合う。なるべく怖がらせないよう、雪音は目線の高さを合わせてにっこり笑った。
「初めまして。私は君島雪音といいます」
「きみじまゆきね……綺麗な名前……」
「ありがとう。あなたの名前を聞いてもいい?」
「……沖本冬樹、です」
「冬樹くんかー、かっこいい名前だね。誕生日は冬?」
「う、うん。二月の寒い日に生まれたんだって、お母さんが言ってた」
小さくぼそぼそとしていた声は、段々とはっきりとした音になってきた。最初に人見知りをするだけで、慣れれば存外人懐っこい子なのかもしれない。大きな瞳は好奇心の塊のようにきらきらと輝いている。
「私もね、冬に生まれたの。十二月で、雪が静かに降ってたんだって」
「あ、だから雪……」
「うん、そうなの。冬樹くんと少し似てるね」
「うん!」
冬樹は嬉しそうに笑うと、今の状況に気づいたようできょときょとと雪音の部屋を見回した。そして不思議そうに首をかしげ、膝立ちで視線を合わせている雪音を見る。
「お姉ちゃん……雪音ちゃん?」
「どっちでもいいよ、冬樹くんの呼びやすいほうで」
「えっと、じゃあ雪音ちゃん……。あの、僕はどうしてここにいるの? ずっとずっとあそこから動けなかったのに、どうして?」
ずっとずっと、動けなかった。それはつまり、地に縛られていたということだろうか。
「それはね、私のこれがそうしたの」
幽人が現れるのに備えてパジャマの上に出していたドリームキャッチャーを手で示す。蜘蛛の巣上の網目と、あしらわれた羽根のモチーフ。銀色のそれらが部屋の明かりを受けてきらりと光る。
「冬樹くん、もう私と世界が違っているのは分かる?」
冬樹に手のひらを向けると、おずおずと彼も手を伸ばして手を合わせようとする。しかし互いの手は互いに触れず、何も感触を与えずすうっと通り抜けた。冬樹が小さくこぶしを握る。
「……うん。僕は死んじゃった。でもね、天国にもどこに行けなくて、ただずっと、立ってたの」
「私はね、冬樹くんみたいな人たちをちゃんとさよならできるようにしてるの。だから、冬樹くんのことも教えてほしい」
ストレートに言葉を吐く。
「冬樹くんはいつ、どこで、何で亡くなったの」
身を固くして俯いた冬樹に座るように促して、雪音もローテーブルを挟んで向かいに腰を下ろす。
「……お母さんのね、誕生日だったの。僕、学校から帰ってお母さんには友達と遊んでくるって嘘ついて出かけた。本当は誰とも遊ぶ約束なんてしてなくて、駅に行ったんだ」
「そこの潮崎駅?」
「うん、たぶんそこ」
駅に行ってどうしたの、と話の続きを促す。
「お母さんの誕生日プレゼントが買いたくて。駅の近くに、ブタの置きものがあるお店があるでしょ? お母さんがそこのお店が大好きだったから、そこでプレゼントを買いたかったの」
でもね、
「駅には行けなかった」
「……どうして?」
「殺されちゃった」
その響きにぞっとする。幾人もの幽人と出会ってきたが、殺人で死んだという人はそうそういなかった。
「駅への近道を歩いてたの。家がいっぱいあって静かで、そこを抜けたらもうすぐ駅ってところで、前から悲鳴が聞こえてきたんだ。きゃーって、高くて怖がってるみたいな声。何かなって思ってたらね、男の人がすごい勢いで走ってきて、僕に気づいて、目が合って、その血走った目は赤く染まって見えたんだけど、にっと笑ったと思ったらぼろぼろ泣きだしたんだ。ごめんね、ごめんね、って僕の肩に手を置いて泣いて、ああそう、その時その人の後ろからお腹を抑えた男の人が『君っ、その男から逃げなさい早く!』って叫んでた。お腹の人から泣いてる人に目を向けると、間近で目が合って、その人はやっぱり泣いてたんだけど、やっぱり笑ってて……赤いのが飛び散るのを見て、僕は気づいたら地面に倒れてた。あったかいのがいっぱいこぼれて、熱くて、寒くて、あの人はそれでも泣いてて、あの人はそれでも笑ってて、あの人はそれでも、僕を切りつけ続けた。痛くて痛くて、すごく痛くて、何でこんなことをするんだって言おうとしたけど言えなかったのかなあ。誰かがやって来て、誰かがその人を抑えて、その人は誰かを振り払って自分の首にナイフを刺した。血がいっぱい噴きだして、その人は地面に倒れて、僕のほうに顔が向いてたんだけど、その顔はやっぱり泣いてて、やっぱり笑っていたよ」
そこで僕の記憶は一度終わった、と冬樹が話を締める。
意識的に息を吐いて、意識的に息を吸う。努めて、冷静に、声音が震えないように抑えつける。雪音が感情を傾けるのはここではないはずだと彼の話を聞きながら思った。
「……ありがとう。それは、一年前のできごとだね?」
「うん、そうだよ。この前、カメラがあそこに来て『一年が経ちました』って言ってた」
やっぱり、と確信をする。彼は、このあいだテレビで報道されていた松海市通り魔事件の被害者で、その中で唯一の死者となった小学生だ。
「さっきあそこから動けなかったって言ってたのは、あの電柱のところ?」
「そう、あそこ。気がついてから、僕はずっとあの電柱のそばに立ってた。通りすがりの幽霊のおじさんは、僕のことを地縛霊だって言ってたよ」
「そっか」
地縛霊にもいくつか種類があるらしい。そこから一定以上離れられないもの、そこから全く離れられないけど身振り手振り動けるもの、そして針山に刺さった針のようにそこからぴくりとも動けないもの。冬樹は最初以外のどれかだったのだろう。
「聞かせてくれてありがとう。あともう一ついいかな?」
「? うん、いいよ」
「冬樹くんが、一番強く思ってることって何だろう?」
質問の意味が分からなかったのか、冬樹はきょとんと小首をかしげる。
「話を聞いてるとね、冬樹くんにとって事件はもう終わったものなんだなって思ったから。もっと別に、心配ごとというか気になることがあるのかなって思ったんだけど、どう?」
冬樹の目が揺らいだ。
「……」
――おかあ、さん。
うん、と雪音は頷いた。そうだろうなと思っていた。事件や殺された時のことは淡々と話していたが、最初にお母さんと出てきた時は、冬樹はひどく痛そうに顔を歪めていた。
「僕、地縛霊だったでしょ? だからずっとずっとあそこにいて、お母さんやお父さん、お兄ちゃんお姉ちゃんがどうしているのか、見に行きたくても行けなかったの。でもね、この前死んでから初めてお母さんを見た。テレビが取材に来て、それから少し経った時だったと思う。僕のところに来たんだ、お母さん」
「電柱のところに?」
「うん。でもね、すごくやつれてた。お母さんはいつも笑ってて、その笑顔が大好きだったのに、僕が生きてたころとは違う、とてもしんどうそうな顔をしてた。でもそんななのにね、それからお母さんは何度も何度も僕のところに来るの。自転車を停めて、僕の前で手を合わせて、帰っていく」
一年が経って、冬樹の母は息子の死を現実として乗り越えようとしていたのだろうか。どれほどの葛藤がその胸にあるのか、雪音には想像もできない。
「僕はね、雪音ちゃん。お母さんの笑顔が大好きだったの。お母さんにはずっと笑っててほしい。だから、僕のことが、僕のところに来ることがそれを邪魔してるなら、僕のことなんか忘れてもらっていいと思ってる。だって、僕はもう死んじゃってるもん」
冬樹は必死にしゃべる。痛々しいほどに、求めるものを無意識に放出する。カチカチと時計の針の進む小さな音は、焦燥に駆られた冬樹の耳には聞こえていないのだろう。
背を正す。まっすぐに冬樹を見る。
「冬樹くん、問います」
時計の音は、一歩一歩確実に前に歩いていく音だ。忘れてもらっていい、そんな全てをすっ飛ばした悲しいことは言わないでほしい。雪音はまだ高校生の子供だけれど、実の子にそんなことを言われてそうできる、そうする親はいないだろうと思う。彼が心底求めているのは、それじゃない。
「あなたの最期の最後の願いは、何ですか?」
「ねが、い……」
部屋がしんと静かになる。雪音の衣擦れの音、時計の音、そして窓の向こうで夜鳴き鴉が一声鳴いた。冬樹がぽろぽろと泣いた。
「お母さんに、笑ってほしい」
「うん」
「あの日は、僕が死んだ悲しい日じゃなくて、本当がお母さんが生まれた嬉しい日だよって。僕は、死んじゃったけど、大丈夫だって」
どうか。どうか。
「お母さんの笑顔を、もう一度見たい」
空気に溶けるように消えていく涙をこぼしながら、しかし冬樹は雪音から視線を外さない。強く凛々しい、はっきりとした意志が目に閃く。
その眼勢をまっすぐに受け止めて、雪音は首肯する。
「うん、分かった。私にできうる限り、冬樹くんの未練を解決できるようにお手伝いします。よろしくお願いします」
「よ、よろしくお願いします……!」
お互い、ぺこりと頭を下げあった。




