1、現世
「…ポーン、ポーン」
階下で鳴っている振り子時計の音が鳴り響く中で梨々香は目を覚ました。
「ふわぁぁ」
あくびをしながら、階段を下り、一階の母の書斎の扉をそっと開ける。
重いドアは軋んだ音を立てた。
朝の風でカーテンが揺れている部屋は明るくて、梨々香は目を細めた。
古い本のかび臭いにおいが、つんと鼻をつく。
そこには梨々香の母が机に突っ伏して眠っていた。
その隣には、書きかけだと思われる原稿が重ねて置かれている。
梨々香は、そよ風を受けて飛んでいってしまいそうなそれの上に重石を置いた。
大学で民俗学を学び、グリム童話にすっかりはまってしまったらしい母は、昔から毎晩遅くまで童話を書いていた。
童話と言っても、ヨーロッパなどの地域の既存の物語に少しのアレンジを加えただけ。
そして、ついこの間、いろいろなツテを駆使して出版したデビュー作の童話集は全く売れなかった。
『棚橋先生はすごい賞をとりましたよ。
ええ。我が出版社で"1番売れなかったで賞"をね』
その出版社の担当者から、嫌味を言われてしまうほど。
それを聞き、自分の作品が売れていないことを知った母は電話口で泣いていた。
そんなに悲しむのなら書くのなんてやめてしまえばいいのに、と梨々香は思う。
つらそうな母を見ているこっちも悲しくなるのに。
今時そう珍しい話ではないのだろうが、梨々香がまだ幼い頃に母は父と離婚した。
父親の顔を知らない梨々香に、いつも母は申し訳なさそうに謝る。
なんで謝るの?
いつも感じることだ。
自分は父がいなくても何も不自由したことはない。
それは、母がたくさんの愛を注いでくれたから。
小さいころから、いつも欠かさずに会話をする時間を作ってくれた。
仕事が忙しくてもいつも授業参観には来てくれた。
梨々香にはとても嬉しいことだった。
「いつもありがとう、お母さん」
梨々香は寝ている母の肩に毛布をかけて、そっと呟いた。
「…ポーン」
時計の音が家に響く。
そろそろ学校へ行かなくてはならない時間だ。
梨々香は部屋のドアに手をかけた。
「…ボーン、ボーン……」
いつもよりも大きく振り子が音を立てた。
どこかから美味しそうなにおいが漂ってくる。
瞬間、梨々香の視界は歪んだ。