CASE1:歌う少女と飴玉青年 2
隅っこに立てられた時計の短針が数字一つ分の働きをした頃になって、ようやく待ち人である少女が姿を現した。
つばの広い帽子に護られた首元にも届かない短髪はそれだけならば健康的に見えるのだが、その肌は日焼けなど無縁であるかのように白く、彼女を深窓の令嬢と例えるものもあれば病院住まいの入院患者と例えるものもあるだろうほどに線が細い。だというのに渡良瀬青年を視界に捉えた表情ときたら、飼い主の帰宅を喜ぶ愛犬の如く嬉々に満ち満ちていて、不健康な見た目と相反するように輝いて見える。
「こんにちは、わっさん」
「だからそれはやめろというに」
眉根を寄せる青年などお構い無しに、少女――木浦翠はその隣に腰を下ろす。まあ、青年もお約束程度に言っただけなので表情ほど機嫌を悪くした訳でもないのだが。
「わっさん、今日はなにか売れました?」
鞄をのぞき込む少女に鼻で笑って答える。
「繁盛してるように見えるか?」
「はい、見えません」
「素直でよろしい。今すぐ帽子を取って頭を垂れろ」
手刀を作って素振りをしてみせると、少女は「いやー」と帽子を押さえた。無論青年に手刀を叩き込むつもりは毛頭なく、頭を庇う少女を見てまた鼻で笑った。
「ま、実際暇だしな」
「あれやらないんですか?布敷いて寄ってらっしゃい見てらっしゃいってやつ」
身振り手振り混じえて説明しようとするが、少女の中のそれの印象がどうにも古臭い。
「……もしかして露店のことか?だとしたら無理だ。今のご時世、無許可でやると即警察のご厄介になる」
商売の許可や土地を借りる許可、色々なところに話を通さないと露店というものは開く事が出来ない。それに伴う出費など手間を考えると、電子の世界で売買している方が遥かに気楽でいいというのが青年の弁。
「あれ、でも、前やってましたよね。なんでしたっけ、飲みの市場?」
「その発音だと酒場みたいだな」
正解は蚤の市である。主催者が土地を用意し、希望者は参加費を支払って与えられた区画で好きなものを売ることが出来るという欧州ゆかりの市場だ。近年では至る所でそれを真似たイベントが開催されている。場所によっては無料で参加も可能らしい。
「フリーマーケットなんてそう頻繁にやってないからな。次は来週か再来週の末日だったか。参加するなら品数を用意しないとならないから、しばらくここには来れなくなるな」
「えー、駄目ですよそんなのー!構ってくれないと嫌ですー!」
「……うるさい」
身を乗り出して大声を出す少女の肩を押して宥め、鞄から取り出した飴玉をその口に押し込む。
「まったく、そんなに興奮するな。また吐いても知らんぞ」
「あ、それ忘れるって言ったのにー、うそつきー」
もごもごと飴玉を転がしつつ木浦少女はそう言うが、青年にそのような約束をした覚えは無い。何が切っ掛けだったか興奮した少女が吐き気を催し、介抱している最中にうわ言のようなものを口にしていたので適当に相槌を打っていた記憶はあるのだが。
「お前、あの状態でそんなこと言ってたのか」
呆れる渡良瀬青年に、木浦少女は青年の膝をべしべしと叩いて抗議の意を示す。
「人前で吐くなんて女の子の名誉に関わる一大事なんですよー。わっさんには思いやりが足りていません。女の子には優しくしないとダメなんですよー」
「飴玉やってるだろ」
「そういう餌付けみたいな事じゃなくてー」
頬を膨らませる少女をまた鼻で笑い、青年は取り出した飴玉を自分の口に放り込んだ。