貫かれた巨大水槽
海夕館「太平洋」大水槽の新米飼育係員、大島佳奈は、その破裂音に恐怖した。
海上自衛隊による「ルシファー撃墜」が失敗した事、そしてその球体の進路・速度に全く変化が無かった事により、海夕館がルシファーの直撃を受けることは、ほぼ確実となった。
しかも事前の予測は、よりによってこの館の目玉である「太平洋」大水槽の下部を貫通する、という最悪のものだった。
事前にある程度覚悟はしていたものの、あまりに現実離れしたその内容に、佳奈は何か夢でも見ているような、自分たちには関係のない世界の話のようにとらえていた。
彼女に限らず、同年代の職員のほとんどが、同様の認識だったという。
しかし、上層部から矢継ぎ早に来る緊急指令が、今、とんでもない事態に直面しているんだという危機感を、彼女達の中に芽生えさせていた。
海夕館の中で最大の生物は、言わずとしれたジンベイザメ「ジン君」だ。そしてそのジン君も、「太平洋」大水槽にて飼育されている。
ルシファーの推進速度は時速約2.5キロメートル。
万一、ルシファーが水槽に侵入したとして、それがジン君の体に接触したとしても、おそらく自分で回避するのではないか、と、職員達は楽観的に推測していた。むしろ、急激に水かさが減ることの影響の方が大きいはずで、その対策に苦慮していた。
ルシファーが通過するポイントは、大水槽設置箇所の底面から一メートルほどの高さと予測されている。
五千四百トンというその水量は底部に膨大な圧力を生んでおり、穴が開いたならばそこから一気にその水が吹き出す事になる。
急激な水量の低下は、飼育されている生物たちに大きなダメージを与える。もし最悪の事態として、水が貫通部分の高さまで抜けきってしまったならば、ほどんどの魚たちは助からない。
海上自衛隊で止められなかったルシファーを、海夕館スタッフだけで止めることは不可能である。ならば、少しでも被害を抑えることを考えなければならない。
特に太平洋大水槽、およびジン君の保護については、ルシファーが淡路島を抜ける頃から全員でアイデアを出し合い、緊急会議を重ねていた。
数々の候補の中で採用されたものが、佳奈の発案である「穴が開いた直後に鉄板を沈めて、水圧で自然に蓋をする」という、いたってシンプルなものだった。
もちろん、それは一時的な対策に過ぎず、後々大規模な補修を必要とするだろう。
しかし何よりもまず、水漏れを防ぎ、ジン君をはじめとする、展示されている魚たちを守る事を考えなければならない。
ジン君を別の施設に移送する事も考えられた。
だが、高知県に存在する海洋生物研究センタ―への移送の段取りは、少ない期日でまとめられるものではなかった。
もう、大水槽がルシファーに貫かれることは防ぎようがない。ならば「鉄板で蓋をする」作戦の、具体的な実行方法を検討するしかない。
作業員達の身の安全も確保しなければならない。むしろ、優先度で言えばこちらの方が重要だ。
「私は、残ります!」
ルシファー突入まで二時間を切り、もう最終調整段階に入ったミーティングルーム内で、佳奈は大きく声を張り上げた。
だが、そこにいる他のメンバー八人の視線は冷ややかだった。
「まあ、その気持ちは買うが、今回は俺たちに任せてくれ。鉄板を引きずり回すんだ、力もいる。ジン君の副担当っていうおまえの気持ちは分かるが、残って何ができるんだ?」
「力仕事は確かに無理かもしれないですが、私だってこのピンチに何かの役に立ちたいんです!」
「そう言われてもなあ……」
今回のミーティングに参加している中で、女性は佳奈ただ一人だ。
もちろん、他にも女性スタッフは存在する。だが、今回の作戦については危険を伴うこともあり、女性は志願制とした結果、彼女しか手を上げなかったのだ。
「それなら大島さん、君は見張りをやってくれないか」
今回の作戦において、「水槽班」リーダーの戸崎が、思いついたようにそう口にした。
「見張り? ……何のですか?」
「水槽の中の、魚たちの様子をだよ。さっきも言ったように、男性スタッフは力仕事にかかりっきりになるだろうし、俺は他の班との連絡に追われるだろうから。特にジン君に異常が無いか、上から見ていて欲しいんだ」
君にちょうどぴったりな仕事だ――そんな思いがこもっているように、彼女は感じた。
「はい、じゃ、私それやります! ジン君に少しでも異常があったら大声で知らせます!」
彼女の明るいその返事に、他の男性スタッフはほっと胸をなで下ろした。
佳奈は、戸崎の方を向いて軽く頭を下げた。
彼の、部下を気遣うこういう所に、彼女は憧れていた。一回りも年齢が離れているため、恋愛感情があった訳ではないのだが。
佳奈は、小学生の頃に母親と共に海夕館を訪れ、優雅に泳ぐジンベイザメやマンタ、色とりどりの熱帯魚に魅せられて以来、水族館のスタッフになることが夢だった。
高校を卒業してすぐに、地元の小さな町立水族館に就職することができたものの、自治体の財政が苦しいという理由でわずか一年で閉館。
無職となり途方に暮れていた矢先、たまたま海夕館が契約社員を募集しており、一年とはいえ実際に水族館に勤務していた実績と、ダイビングのライセンスを持っていたこと、何より面接時の彼女の積極性もあって、採用となっていた。
最長三年間の期間限定ではあるが、あこがれの海夕館で働ける事に、毎日が夢の様だった。
あっという間に三ヶ月の研修期間が過ぎ、その仕事ぶりが評価され、戸崎の監視のもとながら「ジン君」への餌やりすらさせてもらえるようになっていた。
そんな中、降って湧いたような今回のルシファー騒動。彼女が対策スタッフとして名乗りを上げるのも無理はなかった。
そんな彼女の気持ちを理解し、かつ適切な任務を与えてくれた戸崎に、佳奈は改めて感謝した。そしてその後は、他のメンバーの作業割り当てをじっと聞くだけに徹した。
ルシファー対策として、いくつかの班に分かれて互いに連携するように指示が出されていた。
水が水槽から噴き出した後の対策を行うフロア班、広報や映像の記録を行うメディア班、万一に備え、人間の医師・および獣医を待機させた救護班、水槽以外の機械装置等のメンテナンスを行う内部班、そして最も重要な、水槽の上部から鉄板で穴に蓋をする、その名もずばり「水槽班」だ。佳奈はここに所属している。
彼女を含め、水槽班のメンバーは全部で九人。内、佳奈はジン君や魚の様子を上から観察すると決まった。班長の戸崎は、水槽上部全体を見渡しての総指揮、および他班、上層部への連絡係だ。
となると、実際に行動を行えるのは他、七人。
ルシファーは水槽二カ所に穴を開けることになるので、とりあえず北側担当、南側担当に三人ずつ割り振った。残り一人はサポート役だ。
鉄板の大きさは、縦三メートル、横二メートルの長方形。厚さは2cmで、これでも百kg近い重量がある。
海水の浮力で多少軽くなるものの、無理な体勢で動かせば、逆に水中に引きずり込まれない。かといって、滑車などを付けるには時間的に厳しく、また、どのような穴の開き方、割れ方となるのかがはっきりしていないため、臨機応変に対応せざるを得ない。
今回、鉄板の右上部、左上部、真ん中上部に小さな穴を開け、そこに長いワイヤーを通し、そして水上にまで伸ばしてきている。
この三本のワイヤーを、担当する三人でエイヤと引きずり回す。
なんとも原始的な手法であったが、結局こうするしかないとの結論になった。
鉄板は、あらかじめ水中に沈めておく。「穴が開く」と思われる直ぐ脇に置いておき、最小の移動範囲で蓋ができるようにしておくのだ。
当初、ルシファーが貫通した後で鉄板を投げ入れる案も考えられていたが、安全面を考慮し、横にずらす方法が採用された。
突入まで、あと三十分。
スタッフは全員、一旦屋外へと待避した。
本来ならば、半径一キロ以内からは避難しないといけないが、そうすると太平洋水槽の生き物たちが全滅するおそれがある。
かといって、爆発の懸念があるルシファーの突入時に、建物の中にいるのは危険だ。
彼等は、百メートル程離れた海夕館第二駐車場に、それぞれの班ごとに分かれ、マイクロバスに乗って待機していた。
なお、メディア班のみ二組に分かれ、北側と南側……つまり、ルシファーの突入と離脱の予測時点を監視しており、その様子をインカムを通じて全員に連絡する段取りになっている。
そしてその時が訪れた。
ガコン、という大きな音と共に、壁面にバレーボールほどの大きさの穴が開いた。
むき出しになった鉄骨も見えている。
しかし、爆発するような事態にはなっていない。
この様子は水槽班の待機位置からも確認でき、「あっ……」とか、「本当に空いた……」とか、小さな悲鳴が上がった。
全員、次に何が起こるのか、緊張しながら見守っている。
そして、それが起こった。
外壁突入時よりも遙かに大きい、ポォォンと辺り一帯に響き渡る、強烈な破裂音。
佳奈は一瞬、目をつぶり、肩をすくめた。そしてすぐまた大きく目を見開いた。
同じような表情の、若い男性スタッフと顔を見合わせる。
数秒後、もう一度同様の音が響き、また同じようにビクッと体を縮めた。
ルシファーが大水槽のアクリルガラスを突き破って進入し、そして同様に離脱したときの破裂音に間違いなかった。
これほど強烈な突入のショックに、果たしてジン君やマンタ、他の魚たちは無事なのか……。
佳奈の頬に、冷や汗が流れる。
その後も、ガガン、ゴンという不気味な音が数回続いた。ルシファーが施設内部を破壊しているようだ。
そして一旦静かになり、広報班からのインカムが入る。
「ルシファーが海夕館から出て行きました。繰り返します、ルシファー離脱確認!」
「……よし、全員、行動開始だ!」
あらかじめエンジンをかけていたマイクロバスが、大急ぎで海夕館の正面入り口へと向かう。
全員、既にシートベルトは外しており、到着と同時に建物に駆け込んでいく。
順序は事前の打ち合わせ通り、戸崎が先頭、佳奈は最後方だった。
安全のため、エレベーターやエスカレーターは停止している。
もどかしさを覚えつつ、止まったエスカレーターを駆け上がり、職員専用通路を走り抜け、そして今度は狭く急な非常階段を一段飛ばしで昇っていく。
それでも、佳奈は男性スタッフについて行くことができない。自分の体力の無さをはがゆく思う。とにかく一秒でも早くたどり着こうと必死だった。
そして目の前が明るくなる。ようやく、太平洋大水槽の真上に出たのだ。
しかし、自分が状況を確認する前にインカムから悲痛な声が響いた。
「こちらフロア班の清水、水の流出を確認……あと、ジン君の様子が変です!」
鉄板をずらそうとしゃがみ込んでいた男性スタッフが、ぎょっとして顔を上げた。
佳奈は、一瞬血の気が引くのを感じた。
「変って、どういう事ですか!?」
叫びながら、彼女は上から水槽をのぞき込んだ。そして自分の目でも、その異様さを確認した。
「頭を上にして、尾をだらんと下にして、全く泳いでいない……なんていうか……たぶん、気を失っています!」
佳奈はもう一度、青くなった。確かに、彼等の言う通りの状況だった。
おそらく、ルシファー貫通時の、あの大きな破裂音が響いたときの衝撃により、意識を失ったのだと想像できた。
ジン君だけでなく、他にも力なく漂っているマンタやナポレオンフィッシュの姿も見て取れた。
フロア班は、大水槽を横から見ている。
上からのぞき込む格好の佳奈よりは、その姿勢ははっきり見えているだろう。
しかし、数ヶ月とはいえ毎日ジン君の世話をしていた彼女には、それがどれほど異常な事態なのか、誰よりも直感的に把握していた。
「泳いでないなんて……このままじゃ呼吸ができなくて死んじゃいます!」
さらに大きく、佳奈が叫ぶ。
「ちっ……まずい、ジン君が少しずつ穴の方に近づいている……ジン君の体が邪魔で、うまく蓋がずらせない!」
今度は南側の金属蓋担当が大声を上げた。
予定では、金属の蓋は、七メートルほど横にずらすだけで自然に水漏れを防げる、と考えていた。しかし、位置的にちょうと蓋と穴の間の空間にジン君の体が入り込んでいたのだ。
「だめだ……このままじゃ、ジン君自身が蓋になってしまう!」
今度は、フロア班からの悲痛な叫びが届いた。
佳奈の位置からではよく見えないが、少しずつジン君の体が穴に近づいている様子が、緊迫した空気から伝わってくる。
最悪の状況の、一歩手前だった。なんとしても、ジン君の意識を取り戻させ、そして自身で泳ぐように仕向けなければならなかった。
不意に、佳奈は走り出した。
こぼれ落ちた涙が、彼女の後方に流れる。もちろん、それを気にしている余裕はない。
「大島、何をする気だ!」
戸崎の声が響く。
「ジン君にエサをやるんです!」
「なっ……この非常時に……いや、そうか、それでいい! やれっ!」
他のメンバーは、この二人のやりとりの意味がわからず、一瞬ぽかんとした。
しかし、佳奈がひしゃくでエサを蒔いて、
「ジン君、気づいて!」
と叫んだとき、ようやくその行動の真意を理解した。
ジンベイザメに限らず、魚類は嗅覚が鋭い。
エサのにおいで、ジン君を気づかせようとする作戦だった。
「お願い、気づいて!」
二回、三回とエサを蒔くが、ジン君の様子は変わらない。
佳奈は、ひしゃくで水面を激しく叩いた。
何度も、何度も。
いつもジン君にエサをやるとき、こうやって水面を叩いているのだ。それだけで、ジン君はいつも佳奈の近くまで来てくれていたのだ。
必死に叩き、そしてエサを蒔く。それでも、それでも、ジン君は気づかない。
「お願い、帰ってきてえぇ!」
一際大声で叫び、両手を使いヒシャクを思いっきり水面にたたきつけた。
しかし次の瞬間、佳奈の体はバランスを失い、スタッフ全員が「あっ!」と叫んだ直後、スローモーションの様に水面へと落下した。
一メートルも無いほどの落差だが、彼女の体がほぼ水面と平行に落下したため、派手な水柱が上がり、そして滴がまた音をたてて細かく落ちていく。
「大島っ!」
戸崎が叫ぶ。
直後、彼女の体は浮かび上がった。
「……大丈夫です、それより、ジン君は?」
首から上だけを水面に出し、自慢の黒髪を水とエサのオキアミで台無しにしながら、それでも佳奈は、ジン君を心配した。
「あ……ああっ!」
何人かのスタッフが、同時に叫ぶ。
佳奈が水中に目をやると、直ぐそこに、ジンベイザメが迫っていたのだ……彼女を、一飲みにできるほどの大口を開いて。
佳奈以外のスタッフは、一瞬、硬直した。彼女が、飲み込まれるのではないかと。
しかし、佳奈は笑顔だった。
「ジン君……よかった……気づいたんだね……」
そのジンベイザメは、大口を佳奈から器用に逸らせ、エサだけを丸呑みにしていった。
スタッフ全員、知識だけはあった。ジンベイザメが、決して人間を襲わないと。
しかしそれでも、彼女の直ぐ側にまで口を開いたまま近づいた時には、全員肝を冷やした。
「よし、俺たちの番だ。鉄板をずらすぞ!」
男性スタッフの一人が声を出す。
「おおっ、行くぞ!」
彼のパートナーも応える。
反対側の穴は、もう塞がれていた。
あとは、彼等の担当する南側だけ。
「せーのっ!」
三人で声を合わせて、ワイヤーを引っ張った。
ガッと言う鈍い音と共に、急に鉄板が重くなり、三人とも尻餅をついた。
「……穴の半分に蓋ができましたが、まだ水が漏れています!」
フロア班からの無線が届く。
どうやら、水圧によって鉄板の動きが悪くなったらしい。
「よし、もう一回だ、せーのっ!」
いつの間にか近寄っていた北側担当の一人も含め、計四人の男性スタッフが力一杯ワイヤーを引っ張った。
「……塞がりました……漏水はほとんど止まりました!」
フロア班からの明るい声に、彼等はふう、と安堵のため息をつき、腰を落とした。
その頃には、佳奈は戸崎や残りの男性スタッフによって、水面へと引き上げられていた。
「まったく、無茶しやがって……」
そう文句を言う戸崎の表情は、しかし、明るかった。
水中では、ジン君が何度も何度も、佳奈が蒔いたエサを丸呑みしていた。
「ジン君……よかったね……」
佳奈はそうつぶやきながら、愛おしげにジン君のそのつぶらな瞳を、ずっと見つめ続けていた。




