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彼女はそれを運命と呼ぶ

作者: 橘アカシ

 彼女は私を『運命の人』と呼んだ。


 栗色の髪と茶色の瞳。可愛らしい顔立ちではあるが、特筆する容姿ではなく、美人と評するには平凡が過ぎる。政略結婚でなければ歯牙にもかけないような相手だ。



 我がアルフォード家は金はあるが平民。彼女のギュスターブ家は金策に喘ぐ名門貴族。地位と金。双方が欲する物が噛み合った家同士の結婚だ。そこには私の意思も彼女の意思も介在しない。


 彼女と顔を合わせたのも結婚式の前に一度だけだ。


 二人きりで話すこともなく、それどころか直接口を聞くこともなかった。彼女は始終うつむき、この結婚が不服であると態度で訴えていた。


 けれど、私は特に不満はなかった。

 もともと結婚自体に興味はなく、結婚しろと言われれば面倒だとは思うものの、それほどの忌避感を持っているわけでもない。

 多少の自由はなくなるが、結婚したからと言って、これまでの行動を改めるつもりはなかった。



 そんな私に結婚式の夜、彼女は言った。


「私たちを繋いでくださった縁に感謝を。旦那さまが私の運命の人だったのですね。どうか末永くよろしくお願いいたします」


 顔合わせでは俯き、表情の分からなかった顔におっとりした笑みを浮かべて、幸せそうに。

 彼女はこの結婚に不服があったのではなかったのか。

 だから私と顔を合わせず、口を噤んでいたのではなかったのか。


「この人が私の運命の人だと思うと緊張してしまい、顔を上げられなかったのです。あの時は本当に失礼いたしました。この結婚に不服などあるはずがありません。とても幸せですわ」


 問いただせば、幸せだと、彼女は頰を緩める。それは心から言っているようにも見えるが違和感を覚えた。


 そんな私に今度は彼女が問いかけてくる。


「旦那さまは、私との結婚は受け入れられませんか?私では不服でしょうか?ギュスターブ家で未婚の女は私だけでしたので、他の者と変わる事は出来ませんが、精一杯御身にお仕えしますわ」


 私とて、不服ではない。有り体に言えば結婚相手など誰でも良かった。貴族や上流階級の人間にとって、愛人を複数人囲うことは珍しい話ではない。幸い容姿には恵まれており、女に困った事は一度もなく、妻が気に入らなければ、そういう道もあるのだ。

 逆に、妻には貞淑さが求められるのが貴族社会だ。彼女はこの先、夫である私を立て、私を敬って生きていかねばならない。貴族であっても女性の立場は低く、愛や好意がなければ、辛い思いをするのは女性ばかりだ。


 私と彼女は一回り以上歳が離れており、しかも私は平民だ。貴族の女性にとっては最悪の部類に入る結婚相手だろう。


 もちろん、手酷く扱うつもりはないが、夫婦として最低限の接触となる事は目に見えている。それが彼女にとっての幸せと言えるか、首を傾げざるを得ない。


 彼女もそうなると分かっているはずだ。これは政略結婚で、私の中に彼女への愛情がないという事も。


 そこで違和感の正体に気づく。


 彼女は私を『運命の人』と呼び、この結婚が幸せだと言いながら、彼女もまた私の事を愛していないのだ。


『運命の人』というのは愛する唯一の人を指す言葉ではないのか。



 恋する少女のような熱量もなければ、私が見てきた女のように、情欲の炎が燻ってもいない。彼女の瞳の奥は風のない海のように凪いでいた。


 不服ではないと答えたきり黙った私に彼女は問いを重ねた。


「旦那さまに好きだった方はいらっしゃいますか?」


 その問いにもいない、とだけ答えると彼女は続けて一つ一つ丁寧に問いを重ねていった。


 私は生理的に受け付けませんか?

 私の事がお嫌いですか?

 私に欲情しませんか?

 私はあなたの妻として相応しくありませんか?


 私はすべての質問に『いいや』と答えた。


 すると彼女は嬉しそうに笑い、最後にもう一つだけ質問した。


「私の事を愛せない理由がありますか?」


 私は思わず、目を見開いた。彼女の口から愛という言葉が出てきたというのもあるが自分が何と答えるのか分かってしまったからだ。


 言葉にならず、首を横に振ると、彼女は尚一層、嬉しそうに顔を綻ばせた。


「私たちは確かに政略結婚で結ばれました。けれど、人と人を結ぶ縁に正解などないと私は思うのです。もしかしたら、街中で一目惚れした人と駆け落ちしたかもしれません。私に幼馴染がいたらその人と愛を育んだのかもしれません。政略結婚の相手はあなたではなく別の人だったかもしれません。もしもを考えたら、それこそ無限の可能性があったでしょう。選択肢はたくさんあって、それでも選ばれるのはひとりだけ。年齢がもっと離れていたら?性別が違っていたら?たくさんの偶然とたくさんのもしもの上に私たちは結ばれました。今はまだ、心が繋がっていなくとも、この縁を運命と言わずして何と言いましょう」

 私の心臓は小さな音を刻み始めた。







 結婚してから結構な時間が過ぎたが、私たちの関係はうまくいっていると思う。

 他の冷めきった政略結婚と比べれば円満と言ってもいいだろう。互いを尊重し、親愛を持って接している。時間が合えば、茶を飲みながら他愛ない話をしたり、庭を散歩したり。彼女はいつも幸せそうに微笑み、穏やかな時間が流れる。


 彼女との間に愛が育まれているのかは分からない。


 けれど彼女との生活は思いの外心地よく、彼女が待つ家に帰るのがいつからか待ち遠しくなっていった。




 そんなおり、彼女が可愛がっていた青い小鳥が、野生の狐に食い殺された。

 庭で瀕死だった小鳥を彼女が保護し、元気になったところで野に返そうという矢先の出来事だった。

 私は彼女を連れて、近くの森へ行き、そこで小鳥を離す手筈だった。彼女は始終ニコニコ笑っていた。小鳥が元気になったのがよほど嬉しかったのだろう。小鳥は飛び方を忘れたのか、羽ばたいて幾ばくも行かずに地面に降りた。彼女は微笑ましげに声援を送る。小鳥がもう一度、空へ舞い上がろうと翼をはためかせた瞬間に狐が襲いかかった。

 私はとっさに狐を追い払ったが、間に合わず、小鳥は事切れていた。

 血に染まった小鳥を彼女は汚れるのも構わずに手のひらに乗せると、木の下に穴を掘り、そこに小鳥を寝かせるて土を被せた。

 彼女はしばらくの間、声も出さずにはらはらと涙を流した。


 私は突然の事とは言え、小鳥を助けられなかった事を申し訳なく思い、彼女に謝った。

 彼女がどれほど小鳥を慈しみ、元気になって喜んでいたのか知っていたから、その悲しみがどれほどのものか想像がつく。

 謝った私に彼女は顔を上げ、ゆるゆると首を振った。


「旦那さまが謝る必要はありません。……この子はそういう運命の元に生まれてきたのでしょう。私がやった事はこの子の命をほんの少し伸ばしてあげたられただけ。その間、この子が少しでも幸福を感じてくれたのなら、私も幸せですわ」


 彼女は涙に濡れる頰に弱々しい笑みを張り付け、小鳥に黙祷を捧げた。


 そんな彼女の横顔は美しいけれど、私は言い知れない感情に鳥肌が立った。


 彼女は小鳥の死を『運命』と言った。


 青い小鳥が私自身と重なる、嫌な妄想が脳裏をよぎる。

 棺の中に横たわる私の側で彼女は涙を流し、夫に先立たれてお辛いでしょうと慰める周囲にこう言うのだ。


『そういう運命だったのでしょう。旦那さまが私と過ごした日々を幸福に感じてくださっていたのなら私も幸せですわ』



 彼女は私でなく、他の誰と結婚しても幸せになったのだろう。

 結婚した相手を『運命の人』と呼び、それが運命だったのだと受け入れる。

 彼女は運命を受け入れ、幸せになる努力が出来る人間だ。与えられた運命を嘆き、嫌悪し、目を逸らす人間が多い中、そんな風に幸せをつかみ取ろうとする彼女は、得がたい人だと彼女を知っていくうちに思えるようになった。


 それは彼女の強さであり、弱さではないだろうか。

 小鳥の死を前に小さく笑おうとする彼女は気丈に見えてその実、ひどく脆かった。



 自分が望む未来を勝ち取る努力もせず、運命という名の流れに身を任せる。

 辛いことがあっても仕方ないと諦め、受け入れるふりをして悲しみを拒絶する。きっと私の死も受け入れて仕方がなかったと笑うのだ。


 嫌だ、と全身が震えた。


 私たちの間に燃えるような恋情はない。理性的な茶色の瞳の奥にある凪いだ海のように、ゆったりと寄せては押す波のように、私たちが与え合うのは静かな感情だ。


 その海には長い時間をかけてゆっくりと愛が溶け出し、気づかぬ間に心を満たしていた。


 私は彼女を愛するようになっていたのだ。


 自覚してしまえば、その想いは止められなかった。

 目の前にいる彼女を腕の中にかき抱く。彼女は旦那さま?と私の胸の中で首を傾げた。こんな風に感情をぶつけて彼女に触れたのは初めてだ。彼女からは戸惑いが伝わってくるがやめられなかった。


 彼女の言う通り、愛せない理由はなかった。けれど、愛する理由もなかったのだ。政略結婚は家同士の結婚で、私と彼女の心情など、契約に含まれない。


 それでも政略結婚の相手を『運命の人』と呼び、愛せない理由はないと笑った彼女にすでに心惹かれていたのだ。


 けれど、彼女は?


 確かに彼女は私に愛情を持っている。だからと言ってその愛情が小鳥に注いだものと違うと私は断言できなかった。


 小鳥と自分の死を重ねてしまう程に、彼女の心は閉ざされている。


 身が焦がれるほどの愛情を彼女にも望んでしまうのは、強欲なのだろうか。

 もしも私が彼女より先に死んだ時、涙が枯れるまで泣き、声が枯れるまで叫んで欲しい。「死なないで」「置いていかないで」と現実を受け入れず、私が死んだ運命を呪って欲しい。


 嘆いて、喚いて、絶望し、自らの手で命を絶って欲しい。


 その想像はひどく甘美で先ほどとは違う意味で心が震えた。




 華奢な肢体は腕の中にすっぽり収まり、暖かな体温は彼女の存在を実感する。

 彼女との結婚が『運命』であろうと『偶然』であろうと、彼女は私の妻で、彼女の夫は私だ。


 彼女が『運命』を受け入れるならば、私は未来を切り開こう。


 彼女が運命を手放し、目の前にある悲しみを受け入れられるように。

 私の愛と彼女の愛が交わり、幸福な未来を思い描けるように。








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