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こんな俺を抱いてくれよ (前編)

作者: 川崎ルイ

『こんな俺を抱いてくれよ』

        (BluetoothとWiFi)




     




1.


 金曜日の午後5時が過ぎ,夜の闇が訪れる時間になると東京の町はまるで魔法をかけられたように生まれ変わる。5日間仕事に追われて走り回っていた人達が急にまるで何かから解放されたように恋や喜びの快楽を求めて歩き出す。街角には甘い香りが漂い,誘惑のメロディーが人々を刺激する。そしてその軽快なリズムに乗って皆は楽しそうに夜の街に繰り出してゆく。そして町中がきれいに着飾った女性、男性で埋め尽くされ,まるでおとぎの国ように人々は時間を忘れて喜びの中に溶け込んでゆく。その神秘的とも言える夜の町の空気を吸い込むと,俺の体にはエネルギーがみなぎってくるように感じられ,悩み事など全て消えてまるで自分が世界一の幸せ者のように思えてくるのだった。




 5月の中旬の心地よいそよ風が吹く金曜日のその夜も俺はいつものようにレブフィーパブの窓際の席に腰掛けて行き交う人達を眺めていた。そこは恵比寿駅の近くにある小さなバーで,俺が初めて“行きつけ”になった店だった。そのバーは特別変わった所は無い。古いビルの2階にあり、木目調に統一された店内は薄い明かりに照らされている。カウンター席が5つ,後は4人がけの大きめのテーブルが4つあるだけだった。20人もいれば満員になってしまうだろう。まあここが満員になる事は滅多に無かったが。ここは俺がこの界隈で知っている中ではビールが一番安く飲める。簡単な食事も用意してくれるのでたまに俺はここで何時間も過ごす事もあった。通りに面した大きな窓があり、昼間は明るい日差しがさし込み,夜は町の賑わいを手に取るように感じる事が出来た。俺は最初よくここに一人で酒を飲みに来た。何度か来るうちにいろいろな人と知り合いになりいわゆる常連客と友達になった。今ではここに来れば必ず知っている人の1人か2人と出会うぐらいになっていた。その人達は男性も女性も年齢、職業も様々で、まだあまり世の中の事を知らなかった俺に取っては最高の社会勉強になったと思っている。普段はジャズ系の音楽を流しているのだがさすがに今夜は金曜日とあってのりの良いハウスミュージックを流していた。店内も結構込み合って来た。


 俺はよくここの窓際の席に座り原稿を書いていた。俺が今座っている席だ。だが今はさすがに書くような雰囲気ではなかった。というよりもそれ以上に俺の心は喜びに満たされていたからだ。何しろ俺の書いた原稿が先日初めて雑誌に掲載され今日は俺がその原稿料を受け取った日だった。それは俺のこれまでの23年の人生の中で初めて自分のやりたい事をやってお金をもらった日だった。俺は2杯目のビールを注文してタバコに火をつけた。今日も何人か知ってる顔があった。知り合いの女の子2人は今日は男を連れているので俺は話しかけないでおいた。カウンターではボノがバーテンダーと話をしていた。ボノというのはあだ名でU2のボノに似ているから皆はボノと呼んでいるのだそうだ。年は35-6ぐらいだろう。仕事は音楽関係のコンピュータープログラマーだそうだ。少ししてからボノが俺の方に来た。


「よう、元気?」


「元気だよ」


「ここあいてるか?」


「ああ,いいよ座っても」


彼は俺の向かいに座った。


「アキの書いた雑誌の記事読んだぜ。」彼が言った。アキというのは俺の名だ。


「どうだった?」


「よく書けてる。」


「ありがとう。」


「俺は若い人が書く文章の方が好きだ。最近のはどうもジジ臭くて面白くない。」


俺は笑った。実は俺も同じ事を思っていたからだ。


「でも年取ってからでも若い人が書いたような文章を書く事は出来るでしょ?」


俺が言うと,


「まあな,でも何ていうか,パワーが足りないんだよな。音楽なんかでも若い時に書いた曲の方がぶっちゃけてるだろ?」


「確かに。やっぱりファーストアルバムには全てを出そうとするからね。」


「年取ってくると熟年の渋みが交じって良くなってくるミュージシャンもいるけど、やっぱり若かった頃の功績があるからこそファンも着いてくるんだ。中年になってからロックスターとしてデビューするなんてことはまず無いからな。」


「それに比べると小説家は中年になってからでもデビューできるよね。逆にその方がアイディアなんかも固まっていい気がするけど。」


「そうかもな。思う存分若い人生を楽しんだ後小説家としてデビューなんて良いかもしれん。そこがロックと文学との違いかもな。」


「小説家は舞台で若い女の子にキャーキャー騒がれることは無いけどね。」


「その通り。だからみんな若いうちは小説家よりもロックスターになりたがるんだよ。」


 ボノがビールを飲み干してから聞いた。


「俺もういっぱいビール注文するよ,お前も飲むか?」


「喜んで。」


俺がそういうと彼はカウンターにビールを取りに行った。常連客はここでは後払いで注文する事が出来る。


「俺のおごりだ。初出版を祝ってな。」


そう言って彼はなみなみと注がれたパイントのビールを二つテーブルの上に持って来た。


「ありがとう」


そういって俺たちは乾杯した。彼は一息で3分の1ぐらいを飲み干した。彼は日本人にしては大柄だ。身長も180はあるだろう。


「お前この後予定はあるのか?」彼が聞いた。


「いや別に。」


「この後どっか行くか?久しぶりに踊りに行ってもいいぜ。俺はテクノなんかも好きだからな。一緒にお祝いしようぜ。」


 クラブに行くとなるとそこに朝までいるという事になる。俺の家は吉祥寺なので始発の時間までは帰る事が出来ない。さらに俺はTシャツの上にヘンリーネックという出で立ちだった。でも俺はまだ家には帰りたくなかったし,まだ飲み足りない気分で、金も入ったということもありひと騒ぎしたい気分だった。


「行きたいのはやまやまなんだけど,俺クラブに行くって格好してないしな。」俺が言うと,


「服なら俺が貸してやるよ。俺ここのすぐ近くに住んでるんだ。これ飲み終わったら俺の家に寄って着替えて行こう。」


「本当にいいの?」


「ああ,もちろんだ。」


「じゃあ決まりだ。一緒に行こう。」俺が答えると,


「今夜何かいいパーティーがあるかバーテンダーに聞いてくるよ。」


 そう言って彼は席を外してカウンターに聞きに行った。バーはほぼ満員というぐらいに賑わっていた。ここの常連客はよくパーティーに行くのでバーテンダーはいつも週末のパーティーの情報を風の噂から握っていた。


 俺はその間に葵にメールを書いた。葵というのは俺のアパートの隣に住んでいる女の子で年は俺より二つ下。彼女は2ヶ月前に福岡から料理学校に通う為に上京してきた。東京を全く知らなかった彼女に俺はいろいろな場所を教えてやった。友達も紹介してあげた。そうしているうちに俺たちは隣同士という事もあり毎日のように連絡を取り合うぐらいに親しくなった。今の俺の一番の親友と言ってもいい。今週末に俺の原稿の初出版を一緒にお祝いしよう、と先日約束していた。メールの返事はすぐに来た。彼女は「今夜は少し疲れてるから家にいる。明日は友達と会う約束があるけどあさって日曜日なら一日中あいてるから一緒にお祝いできるよ。楽しみにしてる。」という事だった。俺はすぐに「俺も楽しみにしてる。じゃ日曜日に。」と書いて送信ボタンを押した。ボノが戻って来た。


「代官山で良さそうなパーティーがあるみたいだ。ベルリンのなんとか言うDJが来るみたい。」


「良いね,俺もドイツのテクノは好きだよ。」


「まあ俺にはテクノなんてどれも似たようなもんだが,でもクラブでは盛り上がるから俺は好きだな。家では聴かないけどな。」


「俺も家では聴かないよ。」


「そこに行く事にする?」


「そうしよう。」俺は答えた。そして俺たちはまた乾杯した。




 レブフィーを出てビルの外に出ると涼しい風がお酒と体の熱気でほてった体を包み込んだ。最高に気持ちが良かった。


「俺ん家はこっちだ。歩いて5分もしない。」


 彼がそういって俺たちは駅とは反対方向に歩き始めた。考えてみれば俺はボノといつもレブフィーで顔を合わせるだけで,それ以外の場所に行くのはこれが初めての事だった。彼とこんなに話をしたのも初めてだ。それほどまでに俺は彼の事を良く知らなかったし,それは彼も同じだった。最初ボノに出会ったときは愛想も悪くかなり気難しい感じの人に見えて俺はまさかここまで中よくなれるとは思ってもみなかった。こうやってレブフィー以外の場所で2人きりでしかも今から彼の家に行くと考えると何か笑いたくなるような気がして来た。


「アキは彼女いないのか?」ボノが聞いた。


「今の所はね。ボノは?」


「俺は,」少し間を置いて彼が続けた。


「結婚してたけど、別れた。」


「ああ、そうだったんだ。」


「でも今でも彼女とは友達でいる。彼女はまだ俺の事が好きなんだ。でも俺はなんか結婚とかそういうのになるとダメなんだな。」


 まあでも何となく分かる気がする。ボノはよくレブフィーでも女の子をひっかけているし,いかにも遊び人と言った感じだからだ。


「俺は,」そして俺もその時少し間を置いた。


「本当の恋愛なんかまだ経験した事無いんじゃないかと思う。」


 それは本当の事だった。もし俺が今まで本当に人を好きになった事があるか?と聞かれたら俺はきっと「ない」と答えるだろう。今までつきあった相手はどれも俺に取っては恋愛と言えるほどの物ではなかった。


「俺もそんな感じだったぜ。前の妻と出会うまではな。」とボノが答えた。


「それになんか今は恋愛よりも何か他の物を求めてるっていうか,恋愛は空想の中に残しておいた方が良いんじゃないかと思ってる。」そう俺が言うと,


「俺は小さい頃に思い描いていた愛物語なんてのは空想の世界にしか存在しないんじゃないかって思うね。それに、」


 と言ってからタバコに火をつけボノが続けた。


「恋をするとそれ以外の事は考えられなくなっちゃうからな。小説を書くどころじゃなくなっちまうぞ。麻薬より最悪だ。」


「ラブ・イズ・ア・ドラッグって曲がありましたね。」


「ロキシーミュージック!」


そういってボノはタバコを挟んだ右手の指を俺の方に向けた。


「渋いの知ってるじゃん。」彼が言った。


「俺実はブライアンフェリーの大ファンなんだ。」


「俺もだ。でもあの渋さは30過ぎてからで無いと出せん。」


「もう10年後には俺もボノのような遊び人になってるかもね。」俺達は笑った。


 彼の家は裏通りの静かな住宅街にあった。結構立派なマンションでこの辺ではかなり高いに違いない。俺たちは豪華な入り口を通ってエレベーターに乗り4回で降りた。そしてカーペットの敷かれたきれいな通路を通り彼の部屋へ入った。それはこじんまりとしたそれでも立派な部屋で恐らく通りに面しているのであろうベランダも付いていた。隣の部屋に行く扉があり,そこは寝室になっているのだろう。


「ずいぶんいいとこに住んでるね。」俺が言うと


「給料のほとんどが部屋代で消えてくよ。」彼が答えた。


「でも俺前から恵比寿に住みたいと思ってたんだ。レブフィーにも近いしな。」


 そういいながら彼は冷蔵庫から瓶のビールを2本取り出して来た。


「ビール飲むか?本場ドイツのビールだ。」


「喜んで」俺は答えた。


「その辺に座っていいよ。」


 彼がそう言ったので俺はビールの瓶を受け取りソファーの上に腰掛けた。部屋には大きなテーブルが二つ置いてありその上には大きなモニターとケーブルがたくさん繋がったミキサーテーブル、キーボードなどが並べてあった。壁にはギターやベースなどが立てかけてあった。


「ボノも音楽やってるの?」


 俺がビールを瓶から飲みながら聞いた。いかにもドイツらしい苦くて強いコクのあるビールだった。


「俺前はミュージシャンだったんだ。バンドでベース弾いてた。それで今の音楽プログラマーの仕事見つけたんだ。」


「かっこいいじゃない。」俺が言うと,


「聞こえはな。でもこの仕事はいつどうなるか分からん。公務員とは違う。10年後には全く別の事やってるかも知れない。」


「まあ俺だって作家としてやってけるかどうかまだ分からないしな。」


「若いうちは良いんだよ。年取るって来るに連れ先の事考えると不安になってくる。」


「俺もそんな先の事までは考えてないな。っていうか作家以外の事をやってる自分なんて想像できない。」


「それで良いんだよ。別に先の心配なんてしないでいい。とにかく若いうちは今にすべてを捧げる事だ。後になって後悔しても遅い。」


 俺はまさにその通りだと思った。ボノって良い事言うんだな。ふと俺は思った。


「俺奥の部屋に行って着替えてくるよ。お前のシャツもさがしてやる。」


「ありがとうございます。」俺は礼を言った。数分して彼は戻って来た。


「どうだ?」


 彼は黒のVネックTシャツの上に黒の薄手のジャケットを着ていた。下はダークなジーンズだった。


「さらにこれだ。」と言ってサングラスを取り出し掛けてみせた。


「まさにボノだ。」俺が言うと


「ボノのサングラスとは違うタイプだ。別にまねしてる訳じゃない。」


「冗談だよ。よく似合ってる。かっこいい。」


「まあお世辞でもありがたく受け取っておくよ。」俺たちは笑った。


「お前も好きな服選んでいいよ。こっちこいよ。」


 彼はそういって俺を寝室にあるクローゼットまで連れて来た。そこにはシャツが20枚ほど吊るしてあった。どれもずいぶんおしゃれな物だ。ほとんど白か黒だった。


「俺は何でもいいよ。汚しちゃ悪いし。」


「これはどうだ?」


 彼は白地に薄いストライプの入った長袖シャツを俺に見せた。


「良いんじゃない?」俺はそう言った。


「着替えていいよ。次にあった時に返してくれればいい。」


「恩に着る。」


 俺はそういってヘンリーネックを脱いでシャツを着た。サイズはぴったりだった。下は今のブルージンズで良いだろう。


「俺お前の携帯番号持ってなかったな。」


 彼がそういったので俺たちは番号を交換した。


「俺この後は酔っぱらって忘れちまうだろうからな。女の子と出会ったらそのまま帰っちまうかもしれないし。」


「どうせまたレブフィーで会えるよ。」


「そうだな。よし,準備できたら行くぞ。」


 俺たちはビールの残りを飲んで、荷物をまとめた。俺はさっき脱いだヘンリーネックを鞄の中にしまった。ボノは財布しか持って行かないみたいだった。


「後はタバコとライターと鍵だ。携帯は持ってかない。なくすと困るからな。手ぶらの方が楽でいい。」






 そして俺たちは家を出た。時計を見るともう午前1時を過ぎていた。外は相変わらず心地よい風が吹いていた。


「お前今から行く場所行った事あるのか?」ボノが聞いた。


「無い。でも噂には聞いてて知ってた。」


「盛り上がるときは最高に盛り上がるぞ。俺が知ってる中では最高のクラブだ。」


 お目当てのクラブはここから歩いてすぐらしい。俺は代官山近辺はあまり良く知らなかったがボノはこの辺の飲み屋もよく知っているようだった。


「今度いい店紹介してやるよ。」彼はそう言った。


 途中にコンビニがあったので俺たちはそこで現金を下ろしついでにビールを買ってちびちびと飲みながらゆっくりと歩いていった。もうかなり酔いが回っていたが、俺はとてもいい気分だった。


 クラブに着いてみると既にかなりの人で賑わっていた。そこはそれほど有名ではない,というかどちらかと言うとアンダーグラウンド系の場所なのでそこまで混んでいないと思っていたのだがやはり金曜の夜はこんな感じなのだろう。


「でもクラブはもちろん賑わっている方がいい。その方が盛り上がる。」ボノが言った。


「人の肌と肌が触れ合うぐらいに近くで踊るぐらいの方が俺は好きだ。」俺が言うと,


「俺なんかその為にクラブに来るんだよ。」ボノがそう答えた。


 それは俺も同じだった。列の中には女の子も結構いた。どの子も皆可愛く見えた。まだ少し寒いのにミニスカートの子も何人かいた。


「中に入れば熱くてたまらなくなる。真夏と同じだ。」ボノが言った。


 俺はクラブには何度か来た事があったが俺が知ってるのはもっとポピュラーな場所だけで,ここまで熱い雰囲気の場所は初めてだった。


 俺たちは入り口で料金を払い俺は鞄をロッカーに預けた。現金とタバコとライターだけをジーンズのポケットに入れた。中に入るとやはり凄い人だった。音楽はもう既にかなりハードなテクノで男女入り乱れて踊っていた。最高の雰囲気だった。俺は酔いが一気に覚めて体中を新しいエネルギーがみなぎってくるのを感じた。


「やっぱこれでなくっちゃな!」


 嬉しそうにボノは俺の耳元で叫んだ。俺たちはダンスフロアーの脇にあるバーへと向かった。そこで俺たちはウォッカオレンジを注文した。きれいなお姉ちゃんが細長いグラスに半分位の量のウォッカを注いでくれた。一口飲んだだけで体が燃えるように熱くなった。そのグラスを持っておれたちはダンスフロアーの中に踊る人達にまぎれて進んで行った。俺たちはそこで我を忘れて踊った。周りの人達と同じように。


 きれいな女の子ばかりだった。どの女の子も皆セクシーでまさに「愛の媚薬」をまき散らしているように見えた。テクノの盛り上がりが最高潮に達すると皆は大きく手を挙げて一瞬フロアーが明るい光に照らされた。と,その時また稲妻のようなビートが鳴り響き人々は踊り始めた。フロアーは大歓声に包まれた。皆我を忘れて踊っていた。俺も汗だくになって踊った。ボノはサングラスをかけてフロアーの一番目立つ場所で踊っていた。サングラスをかけて少し気取った感じに踊る姿はたしかに何となくボノに似ていた。いやボノよりもかっこいいかもしれない。もしこれが外国なら誰も彼を日本人とは思わないだろう。もちろんサングラスを外さなければの話だが。




 それからどのぐらい踊ったろう,俺はドリンクをもういっぱい注文する為にバーへ戻った。さっきのお姉ちゃんにウォッカオレンジを注文してから煙草に火をつけた。大きくタバコの煙を吸い込むと急に周りがスローモーションになったように見え,テクノの音楽が急に優しいオーケストラの軽音楽に変わったように思われた。そして永遠に続くビートに合わせて踊る女の子達はまるで19世紀絵画の妖精のように見えた。俺は用意されたドリンクを飲んだ。するとまたテクノの熱いビートが全身に戻って来た。今度は妖精達がキラキラした宝石を全身にちりばめたファッションモデルに変身した。俺は煙草を吸い終わりドリンクを水のように飲み干しダンスフロアーに戻って行った。きれいな女の子が隣で踊っていたので俺たちは一緒に踊り始めた。その時が永遠に思えた。ボノもきれいなお姉さんと一緒に踊っていた。彼らの唇は近づいていた。


 その後の事はよく覚えていない。俺がその場所を出たときは朝の6時を過ぎていた。俺は女の子とキスしたような気もするし,ボノはさっきの女の人と一緒に帰ったのか俺は酔いつぶれてもうそんな事はどうでも良かった。まだ少し肌寒い朝の道をふらふらと頼りない足で駅まで歩き電車に乗った。吉祥寺の家に着いたのは7時近くだった。俺はその場で服を脱ぎ,ヨロヨロと布団に倒れ込んだ。まるで灰になったような気分だった。そしてそのまま死んだように眠った。






2.






 翌日俺は昼過ぎに目を覚ました。とにかく喉が渇いたのと,体が汚くて我慢できなかったのでシャワーを浴びたくて体を起こした。頭の中ではまだ昨日のテクノが鳴り響いていた。今までに経験した事の無いようなひどい二日酔いだった。俺は水をコップ2杯がぶがぶと一気に飲んだ。


「今日は俺何も出来ないな。まあいい。今日は一日中寝ていよう。明日は葵と過ごす日だ。」俺はシャワーを浴びながらそう思った。シャワーを出ると昨日脱ぎ捨てたままのボノのシャツが目に入った。俺はそれを丁寧に手洗いで洗ってベランダに干した。それ以外の服は全部洗濯かごに入れた。無性に腹が減っていたのでお湯を沸かしてスパゲッティを作り,レトルトのミートソースに粉チーズを山盛りかけて5分もしないうちに平らげた。そうするとまた睡魔が襲って来た。俺は布団の上に仰向けにどさっと倒れ込みまた死んだように眠った。




 ふと目を覚ますと外はもう暗くなっていた。時計を見るともう6時を回っていた。さすがにもう二日酔いは収まって来ていたがまだ快適とは言えない気分だった。でも俺は金曜日の夜とても楽しい時間を過ごせたのと,明日は葵と会う約束がある事で心の中では笑いたい感じだった。俺はさっき干したボノのシャツを取り込み丁寧にたたんだ。携帯を見たが誰も連絡はしてきていないようだった。


「ボノも今日は家にいるんだろうな。いやそれとも今夜あたりまたレブフィーに飲みに行ってるのかもしれないな」そう思いながら俺はボノに「昨日はいろいろどうもありがとう。とても楽しかった。また近いうちにレブフィーで会おう。もし事前に連絡くれたらシャツ持って行く。」とメールを書いて送った。後は葵に明日何時頃会えるかというメールを書いて送った。いつも通り数分後に葵から返事が来た。「明日2時頃アキの家に行く。それでいい?」とあった。俺はすぐにOKの返事を送った。そして俺はベランダに出て今日最初のタバコに火をつけ外の景色を眺めた。景色と言っても周りの家とこうこうと輝くコンビニの看板しか見えないのだが。




 俺がこのアパートに住み始めて1年近くになる。この吉祥寺と三鷹の間にある小さな一部屋のアパートに越して来た時俺は嬉しくたまらなかった。そこは俺が始めて一人で、一人きりで生活できる場所だった。それは中央線のすぐ近くにあり,いつもごとんごとんという電車の音が聞こえて来る。最初はその音が生活の邪魔になるかと思っていたのだが数日後にはほとんど気にならなくなっていた。どころかその音は俺が「都会」にいるという事を実感させてくれ,そして俺を元気づけてくれる一種の相棒のような物になった。その音は俺を人々の流れの渦の中心にいる様な気分に満たし,寂しい時にはまるで心から大切な親友のように「君は一人じゃないよ。」と言って俺を慰めてくれるのだった。今では恐らくこの音無しでは暮らして行けないような,そんな気分がしていた。その電車の音を聞きながら俺は新しい小説の事を考えた。実は先日から初の長編小説に挑戦しているのだった。それは俺の雑誌に掲載された短編の延長みたいな物で小説家を目指して一人で東京で暮らす,まあ俺の分身みたいな人物が主人公の物語だった。しかし実際の俺の人生をそのまま書いても面白い物にはならない気がした。何かもっとパンチのある何かが必要だ,といろいろ考えていたのだがこれまではなかなか良いアイディアは浮かんでこなく,数ページ書いてはゴミ箱行きという状態が続いていた。俺がタバコの火を消した時ふとボノと過ごした金曜日の夜の事を思い出した。俺は部屋に戻りパソコンに向かってその事を何となくさらさらと書き連ねて行った。別にそれを小説にしようと思っていた訳ではなく,何となく他に書きたい事が無かったので書いてみる事にした。出来上がって読み直してみるとなかなか面白い物のように思われた。「まあ別にこれを出版してもらおうと思って書いている訳じゃないのだから」と思いながら軽い気持ちで俺は他にもレブフィーで出会ったいろいろな面白い人達の事を書いてみる事にした。書いているうちにだんだんそれが想像の世界と入り交じり,架空の登場人物もたくさん出てくるようになった。そして俺はその登場人物と一緒に架空の物語を書いてみる事にした。


 俺はパーティーや女の子と一緒にいる時間を除けば物を書いている時間が一番好きだった。もちろん本を読んだり映画を見たりするのも好きだけど,それよりも自分で物語を想像し,自分で作り出した世界に自分で作り出した登場人物と一緒に自分自身が入って行ける事が何よりの楽しみだった。そしてその世界の中に俺は現実の人生とは違うもうひとつの“人生”を見つけるのだった。そうして書いているうちに俺は知らぬ間にその中にもう一人の“自分”を見つけ出し,俺は自分自身でその自分に驚いたり一緒に笑ったりするのだった。そしてそのもう一人の自分は俺自身が作り出した登場人物達と仲良くなり,時には恋をして時には争い,おもしろおかしな大冒険を繰り広げてくれるのだった。他の人達がそれを読んで面白いと思ってくれるかどうかは分からないけど,たとえ出版される事がなくっても俺は物語を書き続けるのではないかと思っていた。それは俺にとっての喜びであり,俺だけのもう一つの世界だったからだ。だから俺はその世界の中に何時間でも閉じこもっている事が出来た。






 俺は翌日11時過ぎに目を覚ました。今日は葵と過ごす日だ。昨日も俺は夜遅くまでパソコンに向かっていた。久しぶりにそれなりに面白そうな話が書けてきたので俺は満足していた。俺はシャワーを浴びて清潔な服に着替え,コーヒーとジュースを飲んでから,(俺は朝食はとらない)部屋の中を片付ける事にした。俺が住んでいるのはワンルームに小さな台所が付いたアパートでいかにも男の一人暮らしと言う感じだった。俺は布団をたたんで押し入れにしまい,ベランダの戸を全開に開けた。今日は最高に天気が良い。


「後で一緒に井の頭公園に行こうかな。」俺はそんな事を考えながら畳を掃いてキッチンを掃除した。ゴミや瓶をまとめて流しの下にしまった。(俺は結構きれい好きな方なのでゴミを出し忘れる事は無い、はず。)灰皿の灰を捨てて,机の上を片付けた。台所の机を拭いて彼女が座れるように折り畳みいすをもう一つ置いた。その時玄関のベルが鳴った。葵だ。


 扉を開けると真夏のようにラフな格好をした葵が立っていた。手には白ワインのボトルを抱えていた。


「一緒にお祝いしようと思ってこれ持って来た。」


「ありがとう。」俺はそういって彼女を中に入れた。


 葵は端から見ればきれいなタイプの女の子に見えるだろう。ただ俺が最初に出会ったときはまだ東京に来たばかり、一人暮らしをするのも初めてで,少しおどけているような感じに見えた。でもそんな所がまた可愛かった。彼女は今21歳だがまだ何となく少女のような雰囲気を漂わせている。ただそれは見かけだけで中身は結構大人だった。お酒も飲むし,パーティーも好きで東京に来てからまだ2ヶ月なのにもうたくさん知り合いが出来たみたいだった。


「会うの久しぶりだね。」俺は彼女をキッチンの椅子に案内しながら言った。


「あたしいろいろ忙しかったからね。あ,それでアキが書いた短編読んだよ。」


「どうだった?」


「面白かった!主人公が最高にかっこいい。」


「ありがとう。実はあれは俺をモデルにしてるんだけど,でも物語の俺は実物よりもかっこいい。」


「あたし読み始めてすぐにあれがアキだって分かったよ。でもあたしは本当のアキを知ってるから,なんだか読んでておかしくなっちゃった。」


「実際の俺はあんなにかっこ良くないし,もっとつまらない人間だ。本当の俺の事書いたって誰も読んじゃくれないよ。」


「アキだってかっこいいよ。」


「ありがとう。」そう言った俺たちは笑った。


「もう開けちゃう?」俺がワインのボトルを見せて言った。


「いいわよ,一緒に飲みましょう。」彼女は笑いながら答えた。


 彼女の笑いはいつも俺を癒してくれる。この笑顔に癒されない人はこの世にはいないだろう。俺はワインのボトルを開けてグラスを二つ出して注いだ。


「乾杯、あなたの成功を祝って。」


「まだ成功って言うには早すぎるよ。」


 そういって俺たちは乾杯してワインを飲んだ。白ワインはまるで魔法の水のように俺の喉を通り抜けて行った。


「でもあたし本当にあなたが書いた物語の主人公のような人が目の前に現れたら惚れちゃうかもしれないな。」


 葵がほほを少し赤らめながら言った。少しほろ酔い気分の彼女はとても可愛かった。葵には恋人はいない。俺は以前に何となく募集中かどうか聞いてみたけど彼女は、


「私地元に恋人がいたの。彼と別れてこっちに来たんだ。だから今は恋人は作らないつもり。今は東京の生活を思いっきりエンジョイしたいの。」そう言っていた。


「俺じゃあダメなんだよな。」


「もう,前に行ったじゃない。私今は恋人は欲しくない。」


「そう思ってる時に限って恋に落ちたりする物なんだよ。」


 俺は分かったような振りをして言ってみせた。彼女は笑った。


「昨日の朝アキが帰って来たの聞こえたよ。なんかどすんって音がしたから,ああ、あれは酔っぱらってるなって思ってね。」


「ああ,そうだった?ごめん。」


 そして俺は金曜日の夜ボノと一緒に過ごした事を話した。


「ああ,あたしもあの人と一度話した事ある。でもアキがあの人と仲良くなるなんて思わなかった。」


「俺も最初はそう思った。でも彼はとてもいい人だ。俺たち仲良くなれそうな気がする。また今度一緒にどこかに行きたいね。」


「何となく不釣り合いなコンビね。2人が一緒にいるとこ想像すると笑っちゃう。」


 そんな事を話しながら俺たちは笑いながら白ワインを飲んだ。まだ昼食を食べる前という事もあり,白ワインはあっという間になくなってしまった。俺たちは酔いが回っていい気分になっていた。葵は結構酔っているように見えたがそれがまた可愛かった。


「あたしあなたとなら思いっきり酔っても心配ないと思ってるの。だって絶対に変なことしてこないって分かってるもん。」


 どうやら俺はそれなりに彼女の信頼を得ているみたいだった。


「天気もいいから外に出よう。井の頭公園まで行ってみないか?」


 俺が切り出すと,


「いいわね。そうしましょう。」


 彼女はすぐにそう答えて,俺たちは家を出た。




 外は雲一つない青空でこの時間の日差しは暑いぐらいだった。俺たちは何気ない会話を交しながら公園までの道を歩いた。それはここから歩いて10分もしない距離だ。途中でワイン専門店があったのでそこに入ってみた。


「このピンクのが可愛い!」


 そう言って葵はピンク色のスパークリングワインを指差した。店員さんが


「それはカバと言ってスペインのシャンパンみたいな物だ。安いけどおいしいよ。」と教えてくれた。


「ピンクシャンパンね。」葵が言うと,


「ロゼって言うんだよ。」俺がかっこつけて訂正した。


「いいのよ,ピンクで。その方が可愛いもん。きっと恋の味がするわ。」


 そこには冷やしたボトルもあったので俺たちはその冷たいピンクのカバを一本買った。店員さんがプラスチックのコップを二つ付けてくれた。少し歩くと公園の入り口に繋がる道に出た。もうかなりの人で賑わっていた。今日は天気もいいから皆公園に来るのだろう。カップルがかなり目立った。入り口のそばに焼き鳥屋さんがあった。俺たちはそこで焼き鳥を何本か買った。そして公園へ続く階段を下りて行った。公園はやはり,というかいつもなのだが賑わっていた。特に今日は初夏を思わせる日曜日とあって若い人達や家族連れでいっぱいだった。音楽やパフォーマンスやお芝居をやっている人達のまわりには人だかりができていた。俺たちは池の回りの道を歩いて行った。少し歩くと誰も座っていないベンチがあったので俺たちはそこに座る事にした。ベンチは池に面していて目の前を鴨が泳いでいた。俺たちはそこに腰掛けてカバのボトル開けた。俺が中身が吹きこぼれないようにゆっくりとボトルの栓を抜くと葵が「よく知ってるわね」みたいな目で俺を見た。


「あたしシャンパン飲むの初めて。」


「これは本物のシャンパンじゃないよ。本物はもっと高い。」


「似たような物よ。」まあそうだ。


 俺たちはカバをコップに注いで乾杯した。よく冷えてて最高にうまかった。


「ああ、おいしい。」彼女が言った。


「恋の味がする?」俺が聞くと


「ええ,甘くて切ない初恋の味よ。」彼女がそう答えて俺たちは笑った。


「俺は恋の味ってのをよく知らないな。」


「今のあなたは愛に飢えているのね。」


「そうかもな。」


 もしかしたら本当にそうかもしれないと俺は思った。


 それから俺たちは焼き鳥を食べた。レバーが口の中でとろけるようだった。


「うまい!」俺は思わず言うと,


「あたしも焼き鳥ってあまり好きじゃなかったんだけどこれは本当においしいわね。」


 そして俺たちは池で泳いでいる鴨の親子を眺めながらシャンパンを飲み、焼き鳥を食べた。葵がふと思い出したように言った。


「あのね,実は2週間後にあたしの福岡の友達が東京に越してくるの。エリカっていう女の子。年は私と同じ。とても可愛い子だよ。彼女が来たらアキにも紹介してあげるね。」


「恋人募集中かい?」


 俺が何となく冗談まじりに言った。


「そうかもね。」


 彼女も冗談まじりに答えた。俺たちはかなり酔っぱらっていた。




 そうやって俺たちは何時間もそこに座っていろいろな事を話し合った。将来の事とか,子供のときの夢の話とか,彼女は博多の事を話してくれた。博多は住みやすくていい町みたいだった。俺が「行ってみたいな」と言うと彼女は今度実家に帰る時に一緒に行こう,と誘ってくれた。俺はとても嬉しかったがそれはもちろんその時に彼女に恋人がいなければ,の話だろう。他にも俺たちには共通点がたくさんあった。そのせいかお酒の力もあって葵はよくしゃべった。こうして俺に心を開いてくれている事を俺はとても嬉しく感じた。そして2人ともお互いに今の生活に満足していてとても幸せだ,という点で一致した。こうやって都会の中心で俺たちが「生きて」いる事を実感できるのが何よりもの喜びだった。


 気付いてみるともう夕暮れ時だった。ロゼも焼き鳥ももうとっくになくなっていた。


「そろそろ行こうか?」俺が言った。


「うん。あたしお腹も減ったし。」


「そこの焼き鳥屋さんで食べて行かない?」


「じゃあ、そうしましょう。」


 俺たちは公園を出て階段を上りさっきの焼き鳥屋さんの店内に入って行った。店の中はかなり古く煙が充満していた。奥の方に入ると,広い中庭のようなスペースがあり,大きな細長い机と椅子が並べてあった。予想通りほぼ満員で若い人と年配の人が入り交じっていかにも飲み屋というようなわいわいした雰囲気だった。俺たちは唐揚げと焼き鳥を注文した。


「あたしはお酒はもういいわ。」


 と彼女が言ったので俺だけビールを注文した。からあげもジューシーでうまかった。今まで食べた中で一番うまい唐揚げと言って良かった。


「今日は楽しかった。」彼女が言った。


「俺も,座って話してただけだけどな。」


「それでいいのよ。あたし話がしたかったの。何かこうなんでも話せる相手みたいな人があたしの回りにいなかったから。」


「こんな俺で良かったらいつでも相手になるよ。」


「よかった。」


 帰り際に俺は持ち帰り用の唐揚げをもう一人前注文した。


「あとで食べるんだ。この唐揚げはうますぎる。」俺がそう言うと


「あなた今日ニワトリ一ぴき分ぐらい食べたわよ。」


そういって彼女は笑った。




 店を出るともうすっかり夜だった。気温はそれほど下がっていないみたいで半袖でもちっとも寒くなかった。俺たちは元来た道を家の方へ向かって歩いた。葵は鼻歌を歌いながら手を水平に伸ばして舞うように歩いていた。俺は彼女のまねをして手を水平に伸ばしまるで子供の飛行機ごっこのように彼女の回りを飛ぶまねをしてみせた。そして俺たちは笑った。家に着いて俺たちはさよならを言い、それぞれの部屋に入っていった。家が隣同士というのはなんか変な感じだった。さよならを言って俺の部屋に戻って来てもまだ彼女が近くにいる感じがしたからだ。いや実際彼女はこの壁の向こうにいるのだ。でもそう考えるとなんか俺は幸せだった。今日は本当に彼女と親しくなれたような気がした。


俺が彼女にとって何でも話せる相手だったらそれは俺にとっても同じだった。俺も彼女に何でも話せる。それはなんか恋人よりも特別な親密な関係であるような気がした。俺はベランダに出てタバコに火をつけた。中央線のがたんごとんという音が聞こえてくる。今日もこの町でたくさんの恋人達が出会い,それと同じぐらいにたくさんの恋人達が別れを告げたのだろう。出会いと別れを繰り返し,人々は生活を続けて行く。そんな事を考えていると俺はまだ腹が減っているのに気付いた。俺は我慢できずにさっき買った唐揚げを全部平らげてしまった。そしてさっき葵が言った冗談を思い出して笑った。


「ニワトリ一ぴきね。」


 その夜俺は少し早めに布団に入った。目を閉じると葵が笑っているのが見えた。その笑顔を見ているだけで俺の心は幸せに包まれた。






3.






 それから2週間ほど、俺はほとんどの時間を一人で過ごした。本を読んだり,映画を見たり,たまに小説の続きも書こうとしたが,あまり良い物は書けなかった。まああまり急ぐ必要なはいのだから特に無理はしないでも良い。そう思いながら毎日を何となく過ごしていた。葵とはよくメールでやり取りをしていたが学校や友達付き合いなどが忙しく,それ以降は会っていなかった。「エリカが東京に来た時に一緒に会おう。」そう彼女は言っていた。一度だけレブフィーに行ってボノに会った。俺はシャツを返して礼を言った。彼は相変わらずでまたクラブに行こうと誘ってくれたが俺は丁寧に断っておいた。俺はそれよりも家で本を読んだり自分だけの文章を書いて夢想に耽ったりしたい気分だった。そして6月最初の週末に葵からのメールがあった。「エリカが東京に来たから一緒に会わない?彼女は代々木公園の近くに住んでるからみんなで公園でピクニックをしよう。」という事だった。公園の正面入り口の時計の下で土曜日午後2時に待ち合わせる事にした。




 その土曜日,俺は葵と一緒に電車に乗って原宿まで行った。彼女に会うのは久しぶりだったので俺は嬉しかった。彼女も俺に会えて嬉しそうだった。その日も前と同じぐらい天気の良い日でそれ以上に暑かった。原宿の駅から出てすぐに代々木公園の正面入り口はある。予想以上に凄い人だった。いつも以上に仮装した人達がたくさんいるので何かイベントがあるみたいだ。


「何か面白い事がありそうね。」


 葵が胸を弾ませながら言った。時計の下で葵はすぐにエリカを見つけた。2人はいかにも中の良さそうなハグをした。そしてエリカを俺に紹介してくれた。エリカは思ったよりも,と言うかかなりの美人で俺はびっくりしたぐらいだった。彼女は真夏に着るようなミニスカートのワンピースを着ていた。それが小柄な彼女の体によく似合っていた。俺たちは少し自己紹介的な話をした。彼女は葵と同い年でファッションデザイナーの学校に通うために東京に出て来た。今は代々木駅の近くのマンションでルームシェアをしているそうだ。確かにいかにもおしゃれに敏感な感じの子だった。


「ねえ,今日はゲイプライドの日なんだって。私の学校にゲイの友達がいてその人が教えてくれたの。」


 彼女がそう言った。確かに回りにはそれ風に着飾った男女のグループやそれ風でなくてもパーティーに来たような若い人達であふれかえっていた。遠くからはテクノの音楽が聞こえてくる。俺は欧米のゲイプライドならテレビやネットで何度か見た事があったが実際にこの目で見るのは初めてだった。盛り上がりそうで面白そうだった。葵も


「私ゲイの人ってよく知らないの。でも面白そう。」


 そう言って興味津々に目を輝かせていた。そして俺たちはたくさんの人と一緒に公園の中を歩いて行った。どうやらメインイベントは野外ステージなのだがそれ以外にもいくつかの仮設の音楽ブースがあり皆それぞれの音楽を流していた。もう既にその前で踊っている人達もいた。まるで音楽フェスのような雰囲気だった。歩道には屋台や小物や服を売っている人達が並んでいた。どうやら夜遅くまで続けるみたいだった。俺たちは偶然こういうイベントの日にここに来れて嬉しくてたまらなかった。エリカは結構パーティーガールみたいだったので俺は嬉しかった。俺たちは人ごみから少し離れた机のあるベンチに腰掛けた。俺は家から冷えた白ワインと紙コップを用意して来た。葵は皆にお弁当を作って来てくれていた。


「私も学校でいろいろ学んだから皆に作ってあげようと思って。アパートの台所じゃあまり料理できないけどね。」


 そう言って彼女はランチボックスをいくつか取り出した。エリカはスパークリングワインとポテトチップを持って来てくれていた。俺はエリカのワインをコップに注ぎみんなで


「かんぱーい。」


 と口を揃えて言いながらコップを合わせた。


「やっぱり女の子はスパークリングワインが好きなんだね」俺が言うと,


「あたしはお酒なら何でも好きよ。」エリカが言った。


 葵がランチボックスの蓋を開けた。一つにはフムスと言うトルコの料理が入っていた。それはペースト状にした豆にオリーブ油やレモン汁を入れて味付けしたものでそれをパンに塗って食べる,という事だった。他のランチボックスには丁寧に作られたサンドイッチが入っていた。


「こっちはバジルでこっちはペペロンチーノ。まだ試作品だけど気に入ってくれたら嬉しい。」


「ありがとう。どれもおいしそう。」


 俺とエリカは口を揃えて言った。葵の作った物はどれも驚くほどうまかった。さすがだな,という感じだった。それは普通の人には出せないプロの味,という感じだった。俺がそう言って彼女を褒めると彼女は少し恥ずかしそうに礼を言った。


「あたしは料理はダメ。」と少し羨ましそうにエリカが言った。


「エリカはファッションでしょ?」葵が言うと,


「そうなの。」と少し気取った眼差しで答えた。そして俺に向かって


「アキは小説書いてるんでしょ?すごいじゃん。」と聞いた。


「まだ本は出してないけどね。今長編小説書いてる所なんだ。」


 と俺は少しかっこつけて言った。まだほんの数ページの書きなぐった断片しかできていない,というのは言わないでおいた。


「出来たら私に見せて。」エリカが言った。


「私にも。」葵が続いた。


「分かった。」


 こんなきれいな女の子達に面白かったって言ってもらえたら幸せだろうな,その為にもがんばろう。そう思いながら俺が言った。




 お弁当を食べ、ワインを飲んだ俺たちはほろ酔い気分で野外ステージの方に向かった。エリカはいわゆる人目を引くような美人だった。回りを歩く男達が皆彼女を見ているような感じだった。エリカはそんなのにはもう慣れっこで気にもかけていないみたいだった。俺は実はどっちかと言うと葵の方がタイプに近かったのだが今ではどちらとも好きになった。彼女達と一緒にいるだけで俺は楽しかった。ステージの方では何かコンサートをやっていたがものすごい人でとても近くに行く事は出来なかった。俺たちはその隣にあるイベント広場に並んでいるお店を見て回った。そこも人でごった返していた。


「迷子にならないようにね。」葵が言った。


「一番迷子になりそうなのは俺かもな。」俺が冗談まじりに言った。


 派手なTシャツや小物を売っているお店で少し止まった。エリカが好きそうな物ばかりだった。彼女はそこでレインボーカラーのTシャツを買った。それから俺たちはドリンクショップでカイピリーニャを買ってストローで飲んだ。冷えていておいしかった。隣には音楽ブースがあってブラジルのサンバ風の音楽をかけてたくさんの人達が踊っていた。俺たちもそこでコップを片手に踊った。腰を振りながら踊るエリカはセクシーだった。それから少しするとどうやらパレードが通るみたいで皆は公園の入り口の方へ歩き始めた。俺たちもその人の流れに着いて行った。既にテクノの音楽と歓声が遠くから聞こえていた。公園を出ると前の道も交差点も全て人で埋め尽くされていた。恐らくこの辺一体が全部こんな感じなのだろう。仮装パーティーのように着飾った人達がたくさんいた。ビキニにパレオを巻いただけの女の子達もいた。俺たちは表参道の方まで人ごみをかき分けながら歩いた。どうやらパレードはこのまま表参道を下って行くようだった。俺たちはそこで少し立ち止まってパレードを見る事にした。カラフルに彩られた車が音楽を流し,その荷台でドラッグクイーンや筋肉むきむきのお兄さんたちが踊っていた。その後をたくさんの人が着いて踊りながら行進していた。ハードなテクノを流している車もあれば,80年代の洋楽のポップソングを流している車もあった。その後にはブラスバンドが続いた。彼らはペットショップボーイズのGO WESTを乗りのいい感じで演奏していた。俺たちは思わず一緒に歌いながら踊った。その次にはABBAのダンシングクイーンの音楽に乗せて中年の太ったドラッグクイーンばかりが乗った車が通った。回りは笑いの渦に包まれた。俺たちも大爆笑だった。エリカが彼らに手を振った。彼らは俺たちに投げキッスを送った。その後はジンギスカンの曲にあわせて踊る女の子だけのグループが続いた。どの子もきれいだった。「ジン、ジン、ジンギスカーン!」俺たちも曲にあわせて踊りながら歌った。エリカは人ごみの中に彼女に学校の知り合いを見つけたようだった。彼女が大きな声で彼の名前を呼ぶと,彼は気付いて俺たちの方にやって来た。


「この人がさっき言った私の学校の友達。」エリカが俺たちに紹介した。


「シノブです。」


「私は葵。」


「俺はアキ。」


 俺たちはそう言って彼と握手を交わした。彼がゲイだと言う事は既にエリカが説明済みだったので俺たちは分かっていた。彼はなかなかのイケメンだった。どころかモデルにもなれそうな風貌だった。ジャスティンビーバーみたいな髪型にあどけない顔,スタイルも良くておまけにラフな感じをおしゃれに着こなしていた。肌が驚くほどきれいだった。エリカといいカップルが組めそうな感じだった。俺たちは少し話をした。彼は朝からここに来ているみたいでもうかなり酔っている感じだったがとても気さくで感じの良い人だった。一見見た目はイケメンすぎるので俺は少し戸惑う感じだったが,実際話してみると少しも気取った感じがしないどころかとても優しくフレンドリーだったので好感が持てた。彼はエリカと話していたが,少ししてから一緒に来たグループの所へ戻っていった。恐らくゲイの友達と一緒に来たのだろう。


「かっこいい人ね。」葵が言うと


「そうでしょ?でもゲイなの。」


 と,残念そうにエリカが言った。俺は彼女がそう言うのを聞いて何となく笑った。




 そんな感じで俺たちはいくつかの車が通過するのを見ていたがその後サンバ風のパーカッションのグループが通った。彼らは20人ほどの大人数でとてもうまかった。皆が一斉にパーカッションを叩き始めるとそれはいやでも踊りたくなるような南国の灼熱のリズムに変身した。俺たちは彼らについて行く事にした。実際列に加わって行進に参加してみると回りで見ているのとは全然違う感じだった。まるで自分もダンシングクイーンになったように回りの人達に見られている感じだった。ただ見ているだけではなく実際にパレードに参加した方がやっぱり断然面白い。


「ピッピッポーピピッピポッポピッピッポー」


 俺が笛の軽快なリズムにあわせて歌い始めると,葵とエリカが同じように歌いだした。そうして俺と葵とエリカは無数の人達と陽気なサンバを踊りながら表参道を下って行った。


 パレードはそうやって表参道を一周してまた公園の入り口に戻り終了した。その時はもうあたりは暗くなり始めていた。公園の中ではまだテクノのパーティーが続いているみたいだった。


「今日は最高に楽しかったわ。あたしこういうパレード見たの初めて。」


 エリカが言った。それは俺も葵も同じだった。


「路上で踊るって楽しいね。」俺が言うと


「アキみたいな乗りのいい人、あたし好き。」エリカが言った。


「また今度何かのパーティーに行こう。」


 俺はそう言って彼女と携帯番号とメールアドレスを交換した。


「今日はあたし一日中踊って疲れちゃった。もうそろそろ帰ろうか。」葵がそう言うと


「そうだね。」


 俺たちはそう言ってそこでお別れを言った。エリカは歩いて帰るみたいだった。俺と葵は電車に乗って吉祥寺まで行った。そしていつも通りお互いの部屋の入り口の前でさよならを言った。そして2人はそれぞれの部屋に入って行った。






 俺がエリカに再び会ったのはそれから2週間後の事だった。「次の土曜日知り合いのファッションデザイナーのプライベートパーティーがあるから一緒に行かない?」という事だった。葵は忙しくて行けないので俺とエリカ2人だけで行く事になった。俺は土曜日の夜9時に彼女を家まで迎えに行く事になっていた。その夜俺は買ったばかりのネイビーの薄手のシャツに濃いめのブルージーンズという出で立ちで家を出た。俺は電車に乗って代々木まで行き,家でプリントしておいた地図を取り出した。俺はこの辺はあまり詳しくなかったが、結構住みやすそうな場所だった。駅周辺はそれほど賑わう場所ではないが少し歩くと小さな感じの良さそうなバーがいくつか並んでいる。どのバーも土曜日の夜ということもあって中は結構賑わっていた。恐らくこの辺に住んでいる常連客が来るのだろう。俺ももうちょっと金があったらこの辺に住んでもいいかな。そんな事を思っていた。エリカの家はすぐに見つかった。俺がインターホンを押すとすぐに彼女が出てドアを開けてくれた。俺はエレベーターで指定された階まで行き彼女の部屋のベルを押した。なぜか少し緊張していた。彼女が出てくるまで俺は気取った微笑みをぎこちなく作った。


 彼女はオフショルダーの白いワンピースを着ていた。否が応でも男なら彼女に目線が行くだろう。


 そこは結構大きめのマンションで入ると広々としたリビング兼ダイニングがあり,その奥に部屋が二つ並んでいるみたいだった。


「今日の君はきれいだね。いやいつもきれいだけど。」


「ありがとう。」


 彼女が嬉しそうに言った。俺がお世辞で言っている訳ではない事は彼女も分かっているみたいだった。たぶん彼女はきれいだねと言われる事に慣れているのだろうけど。


「何か飲む?白ワインでいい?」彼女は俺に聞いた。


「そうだな。」俺は答えた。


「パーティーには10時半頃に行きましょう。あまり早く着いてもまだみんな来てないし,あたしあまり目立ちたくないから。」


 確かにエリカならすぐに男に目をつけられてしまうだろう。冷蔵庫から出したワインを注ぎながらエリカが今から行くパーティーの事を話してくれた。


「私の学校の先輩が自分のブランドを立ち上げたの。今日はそのお祝いパーティーよ。あたしこういうパーティーに行きたかったけど知っている人があまりいないからアキが一緒に来てくれて嬉しいわ。」


 彼女はそう言って俺にワインの入ったグラスを渡した。


「乾杯!」


 そう言って2人はグラスを合わせた。チン,というロマンティックな音が鳴った。ワインは結構の上物みたいでとてもおいしかった。


「座りましょう。」


 彼女がそう言ったので俺たちはグラスを持ってソファに並んで腰掛けた。ルームメイトは今夜はいないみたいで彼女は一人きりのようだった。俺がその事を訪ねると,


「ルームメイトは女の人。あたしより7つ年上なの。アパレル関係の仕事をしてるわ。週末はいつも彼氏と過ごすのよ。だから週末はいつもあたしここに一人。」


 それから彼女は今自分が通っている学校の話をしてくれた。どうやらとても良い学校で彼女は満足しているようだった。


「今夜は学校の人も何人か来るはずよ。シノブも来るって。」


「彼はイケメンだな。」俺が言うと


「そうでしょ〜?」


 と言って彼女はまた残念そうな表情を見せた。どうやら彼女はシノブが好きなのだ。


「もし俺がゲイだったらあいつとつきあいたいと思うな。」


 俺が冗談まじりに言うと,


「もうあなたまでゲイだなんて言わないでよ。」


 そう彼女は言っておれたちは笑った。


 そうやって俺たちは笑いながらそこでワインを何杯か飲んだ。彼女はもうすっかり上機嫌だった。それは俺も同じだった。


「アキと一緒にいると楽しいわね。」ふと彼女が言った。


「俺もエリカと一緒にいると楽しい。」少しの沈黙があった。


「そろそろ行きましょう。今夜変な人にからまれたら私を助けに来てね。お願いよ。」


「俺はボディーガードみたいなもんだな。」


「力強いのね。信頼してるわ。」


「今夜は君から目を離さない。」


 俺はあまりその役に自信が無かったがエリカと一緒にいられるのならそれだけでも良かった。


「私の恋人役をお願いね。」


 彼女は冗談まじりにそう言った。俺は彼女の肩を抱こうと思ったが止めておいた。


 パーティーはここから歩いて10分ほどの所にあるようだった。俺たちは彼女のマンションを出て夜の町をほろ酔い気分で歩いた。夜風が涼しくて気持ちよかった。


「私の通う学校もこの近くなの。だから私どこに行くにも歩いて行けるのよ。」


嬉しそうに彼女は言った。




 パーティー会場に着いてみて俺は驚いた。それは高層ビルの最上階にある貸し切りパーティーだった。いかにもファッション業界と言わんばかりにトレンディーに着飾った人ばかりだった。まるでクラブのように広いスペースに大きな窓からきれいな夜景が見えた。どの女性も皆美しく見えたし,どの男性も皆美男子に見えた。まるでハリウッド映画のパーティーのようだった。バーではウェイターが本物のシャンパンを無料で配っていた。俺たちはグラスを手に取り目で乾杯をして飲んだ。


「やはり本物のシャンパンはうまいな。」


「本当に。あたしこれなら何杯でも飲めるわ。」


 バーの隣には大きな机が置かれ豪華なお料理が乗っていた。俺たちは紙のお皿にいくつか料理を取り口に入れた。どれも高級フランス料理店で食べるような不思議な味がした。まあ俺は高級フランス料理店など行った事も無いのだが。


俺はそこには一人も知っている人がいなかったしファッションの事など何も知らなかったので何となく場違いなように感じていた。


「俺田舎もんに見えないかな?」


「そんな事無いわよ。あなたは気取ってないから逆に良い人に見えるわ。」


 俺は自分で自分が他の人にどう写っているのかあまり気にした事が無かった。まあエリカと一緒なら変に思われる事も無いだろうと思い俺はまたシャンパンを取りに行った。


「あたしも飲むわ。」そして俺たちはまたシャンパンを飲んだ。


 反対側にはDJブースがありDJがハウスミュージックを流していた。もうその前で踊っている人達も何人かいた。


「後で踊りましょう。」彼女が言った。


「そうだね。」俺が答えた。


 そしてシノブが俺たちを見つけて挨拶をしに来た。前回とは違って今夜は彼はワインレッドの細身のパーティースーツに身を包んでいた。ジャケットの胸には白いバラを刺していた。すこしやり過ぎとも思える格好が彼が着るとちっともそんな感じがしないのはやはりスタイルが良くイケメンだからなのだろう。


 俺はシノブと少し話をした。彼は恵比寿に住んでいるそうだ。俺がレブフィーパブの話をすると,彼もよく行く,と言っていた。今度一緒に飲みに行こうと言って俺たちは携帯番号を交換した。


「あなた本当にシノブとつきあうの?」


 エリカが少し焼きもちを焼いたように聞いた。


「飲みに行くだけだよ。あいつ良い奴だし。それに俺ゲイの友達持った事無かったから何となく面白そう。」


「ナンパされちゃうかもしれないよ。」


 とエリカが冗談まじりに言った。俺は少し笑ってから


「彼には恋人はいないの?」


 と,聞いてみた。


「いるけど,遠距離恋愛みたい。彼氏が去年神戸に転勤になっちゃったみたいなの。」


「それで心を温める為の友人が必要なのかもな。」


「友人,それ以上の事はしないでよ。」


 彼女がそう言って俺たちはまた笑った。それからエリカは学校の友達を見つけて話をし始めたので俺はまたバーにシャンパンを取りに言った。本当に何杯でも飲めてしまう。そうやって俺はシャンパンを飲みながらDJの前で踊る人達を眺めていた。DJも音楽をかなり踊れる物に変えて来ていた。エリカがやって来て,


「踊りましょう。」


 と言って俺の手を取って中央に連れて行こうとした。俺は残っていたシャンパンを一息で飲み干し彼女に手を取られてダンスフロアーに向かった。


 そして俺たちはキラキラ光る色とりどりのライトに照らされながら踊った。エリカの友達もやって来て一緒に踊った。シノブも加わった。彼はやはり踊りがうまかった。他にもたくさんの人達がダンスフロアーにやって来て雰囲気はまさにクラブそのもののようになった。DJも次から次へと踊れる曲をかけて行った。フロアーは今夜最高の盛り上がりを見せていた。その後30代前半ぐらいのショートカットの女性がDJに何やら耳打ちをした。DJは音楽の音を少し小さくした。と同時にフロアーで踊っていた人達が皆踊るのを止め脇の方へ寄ったので俺たちも彼らに従った。何かあるみたいだ。そして先ほどの女性と他の女の子が3人ダンスフロアーに出て来た。皆は拍手や歓声を上げた。


「あの人が今日のパーティーの主催者よ。」エリカが俺に耳打ちした。


「あの人ダンスもうまいの。」


 ピアノの伴奏の聞き覚えのある曲が流れて来た。ボニータイラーのトータルエクリプスオブザハートだ。フロアーの4人は最初は床に丸くうずくまるような姿勢を取っていたが曲とともにゆっくりと体を起こし,手を蝶々のようにひらひらとさせながら静かに踊り始めた。先ほどの女性が真ん中でその回りの3人が曲に合わせて別々の動きを取っていた。まるでクラシックバレエのようだった。そして曲がだんだん盛り上がりを見せるに連れ彼女達の動きが激しくなっていった。そしてさびの部分が始まったと同時に彼女達が一斉に同じ動きを始めた。それは一種のコンテンポラリーダンスだったが音楽とよくマッチしていた。そして全身の力を出し切るぐらいの力強い激しいパフォーマンスの後に曲はまた最初と同じピアノの伴奏に戻り彼女達は最初と同じように床に丸くうずくまった。少しの沈黙の後その場は拍手と歓声に包まれた。俺たちも思わず歓声を送りながら拍手をした。それはほんの5分半ほどのパフォーマンスだったが彼女達は汗だくだった。


「素晴らしかったわね。」エリカが言った。


「凄い。感動した。プロ顔負けだ。」


 俺たちは回りの人と一緒に惜しみない拍手を送った。ダンサー達は嬉しそうにお辞儀をした。


 それからDJはまたハウスミュージックを流し人々は踊り始めた。俺とエリカはまたバーにシャンパンを飲みに行った。ちらっと時計を見ると午前3時を回っていた。少し飲んでから彼女が言った。


「ねえ、屋上に行ってみない?」


「屋上なんてあるの?行ってもいいのかな?」


「知らないけど出た所に階段があるみたい。」


 俺も少し外の風に当たりたかったので俺たちは会場を出た。奥の方に階段へ続くと思われる扉があった。扉を開けるとどうやら階段が屋上へ続いているようだった。本当に行っていいのか分からなかったが誰も見ていないので俺たちは上ってみる事にした。屋上には何も無くただ鉄の柵が張ってあるだけだった。外の風は最高に気持ちよく夜景が美しかった。遠くに新宿の高層ビルがキラキラ光って見えた。俺たちは柵にもたれながらその夜景を眺めた。


「きれいね。」彼女が言った。


「うん。」


少しの沈黙の後彼女が俺の方を向いて言った。


「ねえ,」


 2人の目が合った。


「抱いて。」


 俺は何も言わずに彼女を抱きしめた。彼女の体は暖かくてふわふわでとても気持ちがよかった。小柄の彼女の体は俺の腕の中にすっぽりと包まれた。そして彼女もその細い腕を俺の背中にまわし,俺に体をぎゅっとくっつけた。彼女の柔らかな乳房が俺の体にあたるのを感じた。そして俺は腕を少し緩めて彼女の顔を見た。ドキッとするほど可愛かった。彼女も俺のことを見つめていた。そして俺たちは唇を合わせた。最初はゆっくりと,そしてその後何度何度も口づけをした。そして舌と舌をからませた。シャンパンの甘い味がした。そしてまた俺たちは見つめ合った。そしてまた抱き合い,また口づけをした。


「行きましょう。」


 抱擁の後に彼女が言った。俺は何も言わずにうなずいた。俺たちは手を繋ぎながら階段を下り,そのままエレベーターに乗って下まで降りた。彼女の家まで手を繋ぎながら歩いている間俺たちは全く言葉を交わさなかった。ただ俺が彼女の方を見ると彼女は俺の方を見て微笑んだ。まるでこの世の物とは思えないぐらいに美しかった。


 彼女のマンションに着くと彼女は先にシャワーを浴びた。シャワーから出ると体にバスタオルを巻いただけの彼女はまるで女神のようだった。彼女は俺にもう一つのバスタオルを渡し、


「終わったら来てね。」


 と言って自分の寝室の方を指差した。俺がバスタオルを腰に巻きシャワーから出ると彼女の寝室の扉が開いていた。俺はゆっくりとその部屋に入って行った。彼女はベッドの上でシーツにくるまり,俺に微笑みかけていた。俺はゆっくりと彼女のベッドに入った。そして2人は抱き合って口づけをした。裸の彼女の体は暖かくて柔らかくいい臭いがした。お互いに強く求め合っていた。交わり合った後も俺はずっと彼女の体を抱いていた。彼女の肌はすべすべで気持ちがよかった。俺は彼女を抱きしめながら右の手を動かし彼女の背中をさすってあげた。俺たちはまるで永遠の恋人のように思われた。






 朝,俺が目を覚ますと窓からは明るい光が差し込んでいた。エリカは俺の腕の中で丸くなるようにして可愛い寝息を立てていた。俺が彼女を抱きしめると,彼女は目を開けて俺の方を見て微笑んだ。俺は彼女に口づけをした。俺はもう一度彼女と交わりたかったが止めておいた。俺たちは何も言わずに少しのそのまま抱き合っていたが,


「もう起きなきゃ。」


 彼女はそう言ってベッドから身を起こしてバスルームへ向かった。枕元の時計を見ると8時過ぎだった。俺も起きて彼女の後にシャワーを浴びた。シャワーから出ると彼女がアイスコーヒーとオレンジジュースを用意してくれていた。俺は服を着て食卓に向かった。


「あたし今日いろいろやらなくちゃいけない事があるから一緒には過ごせないわ。」


 彼女がコーヒーを飲みながら言った。


「いいよ,俺も帰って小説の続きでも書く事にする。」


 実際そんな事は思っていなかったのだが。俺はコーヒーとジュースを早めに飲み干した。その間2人は無言だった。俺は何かジョークでも飛ばそうかと思ったが何も良い物が見つからなかったので黙っていた。


「おいしかった。ありがとう。」


 俺がそう言って立ち上がると,彼女も一緒に立ち上がって俺を玄関まで案内した。


「昨日はとても楽しかったわ。」


「おれも。」


 俺は彼女に口づけした。


「また近いうちに会おう。」


「うん。」


 彼女が笑顔で答えた。


「じゃあね。」


「じゃあまた。」


 そう言って俺は彼女の家を出た。外は今日もいい天気でまた暑くなりそうだった。俺はまだ家に帰る気がしなかったので代々木公園をふらふら散歩する事にした。腹が減っていたので途中のコンビニでパンと冷えたペットボトルのお茶を買った。少し歩くと公園の入口が見えた。ここは俺がいつも入る原宿の入り口とは反対側,明治神宮がある方になる。俺はこの入り口から入るのは初めてだった。原宿門の方はもうかなりの人で賑わっていると思ったので俺は人の少ない参宮橋門の方へ歩いて行った。公園を歩きながら俺はエリカと過ごした夜の事を考えた。実は俺は女の子と寝たのは久しぶりのことだった。それだけでも幸せな気分だったのにそれ以上にエリカのような美人と寝たのは人生初めての事だと言っても良い。俺はそれほど面食いではなかったがあのような美女とつきあえたら誰だって嬉しいに違いない。エリカの事を考えるだけで俺の心は幸福に満たされ飛び跳ねたいような気分になった。天気のよい早朝の公園を俺は浮かれ気分で鼻歌を歌いながら歩いていた。朝の公園はまだ人影も疎らだった。一緒に楽しい夜を過ごしたと思われるカップルが手を繋ぎながら散歩をしていた。しばらく歩くと日当りの良い芝生があったので俺はそこに座ってパンを食べる事にした。近くに長髪にメガネをかけた70年代のフォークシンガー風の青年が座ってギターの練習をしていた。結構上手だった。彼の回りには既に缶ビールの空き缶がいくつも転がっていた。俺はパンを食べながらそのギターを聞いていた。少ししてから彼は俺も好きなあの歌を歌い始めた。ボブディランのライクアローリングストーンだ。少ししゃがれ声で歌う彼は英語の発音も上手で結構きまっていた。そして彼が”How does it feel?”、どんな気分だい?と歌うたびに,俺は心の中で「最高の気分だ。」と答えた。俺はその歌に聞き入っていた。終わったあと俺は小さく拍手をしながら言った。


「うまいね。」


「ありがとう。」


 彼はそう言って新しい缶ビールを開けた。プシュッという音がして泡が飛び散った。そして一息で結構な量を飲んでから俺に聞いた


「この曲が何を意味してるか知ってるか?」


 俺はあまりそこまで深く考えた事は無かった。


「いや,良くは知らない。」


「ローリングストーンって言うのには乞食って言う意味もあるんだよ。それでこの歌は昔は金持ちで乞食をバカにしていた奴が自分自身も乞食に成り下がったって話で,全てを無くしてどんな気分がするか?って聞いてるんだ。」


 俺は少し考えてから,


「俺はその事は知らなかった。ただ今その歌を聴いて思ったんだけどサビの部分だけ聴くと,まるで自由になれた事の喜びを表しているようにも聞こえる。」


 と言うと


「そう、そこが鍵なんだよ。ローリングストーンって言葉にはいろいろな意味があって,転がる石のように常に活動している人は沈滞しないって意味もあるんだ。だからそこだけ聴くと今度は希望を与えてくれる歌にも聞こえるんだな。やっぱボブディランは奥が深いよ。」


 そう言って彼はタバコを取り出した。俺にも一本くれるというので俺はありがたく受け取った。彼は2人のタバコに火をつけた。


「ありがとう。ずいぶん詳しいね。勉強になったよ。」


 俺は大きくタバコの煙を吸い込んでから言った。


 そして俺たちはそこで少し話をした。彼はアメリカで2年間放浪生活をしていたそうだ。


「俺,自分で書いた曲もある。聴くか?」


 と言って彼は自作の曲を2曲歌ってくれた。それは一つは仕事や家での生活にうんざりしたサラリーマンが毎日の通勤電車の中で仕事をやめて家出する計画を立てる,という話で、サビの部分では「見てろよ,俺はいつの日かこの生活を抜け出してやる!」と何度も叫んでいた。もう一つは長い間真面目にコツコツと働いて来たサラリーマンがもらった退職金を酔っぱらって一晩のうちに博打で使い果たす。という内容だった。どれも5分以上の長い曲だったが彼は詩を空で暗記していた。上手なのだがメロディーラインはとてもダークで歌い方も少しリアルすぎる感じだった。もちろん俺はその事は言わなかったが。


「俺最初この曲を英語で書いたんだよ。アメリカに売り込もうと思ってな。でも英語で歌う日本人の曲なんて売れるはずが無いって誰も相手にしてくれなかったよ。それで仕方なく日本語の歌詞を付けたんだよ。本当は英語の方がもっとかっこいいんだ。」


 そして彼はビールの残りを飲み干してから言った。


「でも別に誰にも理解されなくても良いんだよ,俺は俺の為に書いてるんだから。」


 それは俺も同感だった。俺も俺の為に小説を書いている事がよくある。


 そんな話をしているうちに彼の6個パックのビールは全て空になってしまったようだった。


「今日はこの辺で帰るわ。俺いつも日曜日の朝にここでギター弾いてるからもし良かったらまたこいよ。」


 そう言って彼はビールの空き缶を拾い集めてその場から立ち去った。俺も家に帰る事にした。


 帰ってから俺はライクアローリングストーンを聴いてみる事にした。No direction home の2枚目の最後に入っているライブバージョンが俺のお気に入りだった。さっきあの青年が言っていた事を思い出しながら聴くとまた違った印象で聴く事が出来た。俺はこの曲の歌詞と日本語の訳をノートに書き留めておいた。そして俺はサビの部分だけを読み直してみた。その後俺は俺なりの“希望的”な解釈をそこに記した。


「どんな気分だい?もうお前は自分だけの意思で生きて行けるんだぜ。もう昔の家に戻る必要も無い。この新しい世界では誰もお前を知る者はいないんだから。お前はローリングストーンなんだ。」


 それはギターを片手にアメリカをふらふらと旅するさっきの青年を想像させた。それから俺はもう一度ボブディランの録音を聴いてみた。曲を聴きながら俺はふとエリカの事を思い浮かべた。彼女の体を思い浮かべた。彼女と過ごした夜を思い浮かべた。するとボブディランが俺に聞いた。


「どんな気分だい?」


 俺は答えた。


「最高の気分だよ。」



後半に続きます。お楽しみに。

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