後編
あれ以来、学校中であの洞窟の幽霊の話しが広まっていた。 最初は清志のことを馬鹿にする笑い話だったのだが、しだいに尾ひれがついて、本当に幽霊が出たとか、血まみれの女が追いかけてきたとか、誰かが幽霊に殺された、という驚くような話しにまで発展していた。
その話が大きくなるにつれ、かくれんぼに参加する人数も日ごとに減っていった。清志もあれから参加していなかったのだ。
「なあ清志。お願いだから参加してくれよ。メンバーが足りないんだ」
清志を誘うケンの言葉が、以前よりも優しくなっている。もちろん人数集めのためだ。
「だって僕、臆病者だし、嘘つきだし……」
清志はわざと言ってった。
「嘘かどうか分からないよ。そんなことより、今日のかくれんぼ、参加してくれるよな」
清志はしぶしぶ立ち上がった。
今では恐怖心よりも、仲間はずれにされる淋しさと、嘘つきだといわれる悔しさだけしかなかったのである。
開き直ったおかげか、今日はすんなりとジャンケンに勝つことができた。
清志は一目散に林の中に走りこむ。すると……。
「こっち、こっち! 早くおいでよ!」
目の前に、あまり見かけない女の子が立っている。そして優しく微笑みながら手招きしていた。まだ林の中の真ん中ほどだ。
「とてもいい場所があるの。あたしが教えてあげる。少し怖いけど我慢してね。絶対に見つかんないから」
「ちょ、ちょっと待って。君……誰?」
清志の問いには答えないまま、その子は走り出していた。慌てて追いかけたが、慣れた場所なのか、清志はなかなか追いつけない。
そしてやっとの思いでたどり着いたのは、あの洞窟の入り口だった。
「ここよ、ここなら絶対に見つからないわ。怖くて誰も入って来れないと思うし、一番最後に自分から出て行けば、あなたはきっとヒーローになるはずよ」
ハアハア息を切らしながら、女の子が言った。
「でも僕、入れないよ。何が出てくるか分からないだろ。君は入ったことあるの?」
「あたしもまだよ。だから入ってみたいの。二人で行けば怖くないでしょ。勇気を出して入ってみましょうよ」
女の子の笑顔が輝いている。
「でもこの前、幽霊の声を聞いたんだ。女の声で、こっちにおいでよ、って……」
「それって、きっとあたしの声よ。あたし、あなたを呼んだもん、その岩の陰から。びっくりして逃げて行ったでしょ」
洞窟の入り口の横に、大きな岩があった。その陰からだったら、顔は見えないはずだ。
「なんだ、てっきり幽霊かと……。君、名前は何ていうの?」
「あたしは奈津美。友達はなっちゃん、って呼んでるわ。――あなたは清志君よね。あたし知ってる。いつもここから見てたもん」
「いつもここで遊んでるの? だったら僕がいじめられてるところも知ってるんだ。恥ずかしいなあ」
泣きながら帰る清志の姿を見ていたはずだ。
「いじめられてるんじゃないでしょ。清志君が怖がってるから、みんな笑ってるだけよ。だから、もっと強くならなきゃ」
「なっちゃんは怖くないの?」
「あたしだって怖いわ。じつは清志君と同じで、臆病者だ、弱虫だ、っていつもいじめられてるの。だからこの洞窟に入って、みんなを見返してやりたいんだ。――さあ、行きましょ!」
初めて会った女の子なのに、以前から仲のいい友達のような気がする。自然と握り合った奈津美の手は、清志の恐怖心を解きほぐす温もりがあった。
洞窟に二、三歩入ると、もうそこには暗闇だけが広がっていた。容易に進むことはできない。
清志がためらっていると、
「ちょっと待って。あたし、いい物持ってる」
奈津美はそう言って、ポケットからロウソクを取り出して火を点けた。
鈍い明かりが洞窟の岩肌を照らし出す。小さな鍾乳洞のような洞窟の内部は、入り口は小さいものの、奥に行けば行くほど広くなっていた。しだいに目が慣れてくると、天井から吊り下がった細い岩や、コブのようにこびりついた岩石など、恐怖心どころか初めて見る世界が美しくさえ感じられてきた。
「ほら、見て! あそこに光が見える。どこかに穴が空いてて、太陽の光が漏れてるんだ。行ってみようよ」
清志たちは光を目指して歩き出した。
そう遠くはない。足下に気をつけながらそこまで行った二人に、高い天井に空いた穴から、太陽のスポットライトが浴びせられた。
「誰も知らないだろうな、こんなにきれいな所があるなんて。僕の学校では誰も入ったことないんだよ、この洞窟」
「あたしの学校もそうよ。たぶん、あたしが初めてだもん。それなのに、みんなあたしのこと弱虫だ、って。清志君もそうでしょ」
奈津美の顔に浮かんでいる汗の玉が、太陽の光を浴びてキラリと光った。
「なっちゃんの学校って、どこ? 君、どこに住んでるの?」
「あたしの学校は、この山の裏。といっても、そんなに遠くないでしょ。隣町なんだから」
二人は近くにある平たい岩にローソクを灯して話し始めた。
学校のことや友達のことなど、いろんな話題で話が尽きない。奈津美が同級生である事、小さいときからピアノを習っていたこと、兄弟がいない一人っ子であること。そして、臆病者だといじめられていることなど……。
「今度なっちゃんの家に遊びに行ってもいいかな。場所は分かったし、また一緒にこの洞窟で遊ぼうよ。僕たちだけしか入れない、この場所で」
「ありがとう、清志君。でも、もうここには来れないと思う。それに、家に来てもいないかもしれない、あたし」
「どうして? せっかく友達になったのに」
「あたし、遠いところに行くの。もうすぐお母さんが迎えに来るから、一緒に行かなくちゃ……」
奈津美の声が、小さく悲しく呟いていた。
「どこかに引っ越すの? 遠いところなの? いつ……」
奈津美は何も答えず、どこか遠いところを見つめていた。そして、洞窟の中に流れている清水のように、時間だけが呼吸をしているようだった。
奈津美が突然立ち上がった。
「もうすぐ日が暮れるわ。ほら、太陽の光も……」
穴から差し込んでいた光が、薄くかすみ始めていた。「そろそろ行った方がいいわ。みんなが心配するから」
「今日は本当にありがとう。なっちゃんのおかげで、何だか強くなれたような気がするよ」
「それから……。これ、あげる。昔お母さんがあたしにくれたの。怖いときにこれを握ったら、勇気が出るようなおまじないがしてあるの」
奈津美はそう言って、小さなペンダントを清志に渡した。
「でもこれ、大事なものなんだろ。いいのかなあ」
「あたしはもうすぐお母さんに会えるからいいの。また同じ物もらうから……」
奈津美は清志の手に、そのペンダントを押し込んだ。「さ、行きましょ」
ローソクの明かりを頼りに、二人はやっとの思いで洞窟の出口まで来ることができた。長かったローソクもほんの少しだけ残っていたが、外から清志を呼ぶ声が聞こえて、奈津美がその火を吹き消した。
洞窟の外で、清志を探している複数の声が聞こえている。太陽は地平線に沈もうとしていて、辺りの植物は深い緑色に変わっていた。
「おーい、清志! どこにいるんだ。お前の勝ちだ、出てきてくれ!」
「どこにもいないぞ。あいつ、一人で帰ったんじゃないのか?」
友達がそう言いながら、洞窟に近づいてくる足音が聞こえた。
「もしかしたら、この中にいるんじゃない。だって他に隠れる場所ないもん」
女の子がそう言っている。そしてみんなが集まっているようだ。
「まさか! あの弱虫が、こんなところには入れるわけないだろ。土管の中だって入れないんだから」
「だって、他に……」
そんなやり取りを聞いていた清志は、嬉しさのあまり大声で笑いたかった。本当に自分が強くなったような気がしたのだ。
清志はゆっくりと洞窟から出て、みんなの前でにっこりと微笑んだ。
「いつまで探してるんだよ。誰もこの中に入って来れなかったのか。退屈で眠いよ、僕」
みんなが清志を見ながら、ただ唖然として言葉が出ない。それこそ幽霊でも見たかのような顔をして突っ立っていた。
「き、清志、本当にこの中にいたの? 怖くなかったのかよ……」
「何も出なかった? 幽霊は……」
清志はちょっぴり笑ってやった。
「幽霊なんかいないよ。でも、ここはもう入らない方がいいと思う。何か出そうな気がするし、コウモリだってたくさんいる。僕は何とか出られたけど、次に入った奴は二度と出られないかもしれないな」
みんなの顔が険しくなって来た。
「よく無事で出て来れたわね。清志君、いつの間にそんなに強くなったの」
「強くなったわけじゃないよ。今から強くなろうとしてるんだ。――さあ、早く帰らないと、中から幽霊が……ワーッ!」
清志の叫び声で、みんなが一斉に散らばって行った。林の中は、やっと人の顔が分かる程度の暗さになっていた。
清志がみんなにそう言ったのは、この洞窟を自分のものにしたかったからだ。いや、自分と奈津美の二人だけの場所にしたかったのである。
「なっちゃん、早く出ておいでよ。もう誰もいないから」
清志は洞窟に向かって呼びかけた。「なっちゃん……」
しかし、返事は返って来なかった。
清志が洞窟に近づいて中を覗き込むと、そこには誰もいない。暗闇だけが広がっている。
ふと下を見ると、足下に、短くなったローソクだけが、淋しそうに転がっていた。
数日が過ぎたある日、放課後になるとみんなが一斉に裏山へと走って行く。あれから清志も、毎日かくれんぼに参加していた。
しかし、今日は……。
「清志、行こうぜ!」
「ごめん、今日はダメなんだ。ちょっと用事があって……」
清志にとって大事な用事。そう、今日は学校がお昼までだから、奈津美の家に行ってみようと思っていたのである。
裏山を迂回するように、一本の道が隣町まで通じている。その道を自転車で走り抜けた清志は、奈津美から教わった通りに駅の近くの郵便局までやって来た。ここから奈津美の家が見えるということだった。この先の交差点の角だ。
そこまで行ってから自転車をわきに止め、清志はそっと中をのぞいてみた。門の中には小さな庭、そして大きくはない古びた家が静かに建っていた。
誰もいる様子はなかったが、
「――うちに何か用かな」
突然知らないおじさんに声をかけられて、清志は振り返った。
「あの、なっちゃんの家って……」
「奈津美の友達かい? ――会いに来てくれたんだね。さあ、上がりなさい」
奈津美の父であることを清志に言って、ひっそりと静まり返った家の中まで通してくれた。
「なっちゃんはいるんですか?」
「君は学校の友達なのかい」
「違います。僕、隣町に住んでて、最近なっちゃんと友達になったばかりなんです。裏山の公園でかくれんぼをしてて……」
清志は奈津美と知り合った経緯を話し始めた。
「奈津美には、いつ会ったの?」
お父さんはなぜか不思議そうに訊いて来た。
「一週間くらい前です。裏山の洞窟に一緒に入って、この家を教えてもらったんだけど」
「一週間……」
しばらく考えていたお父さんだが、「そうか、奈津美のことは知らなかったんだね。あの子は……」
そう言って、奈津美のことを少しずつ話し始めた。
奈津美も学校の友達と裏山でかくれんぼをしていたこと。弱虫で、みんなからいじめられていたこと。お母さんを早くに亡くしていること。一年前に交通事故にあって植物人間になってしまったことなど。そして――一週間前に死んでしまったことも……。
清志は何を言われているのか分からなかった。一年間全く目を開けていない奈津美に、最近会ったばかりなのだ。夢なんかじゃない。あの手のぬくもりも、洞窟で見た嬉しそうな笑顔も、清志は絶対に忘れることなんてできない。それに清志のポケットには、奈津美からもらったペンダントだって入ってるんだから。
「そうか、奈津美はやっとあの洞窟に入ることができたんだね。誰も入れない場所だから、どうしても一度行ってみたいと言ってたんだよ。誰か一緒に行ってくれたら、って……」
お父さんは優しく微笑んでいた。
「でも僕、本当に……」
「君は嘘は言っていない。もちろん信じてるよ。たぶん奈津美の意識があの洞窟に行ってたんだね。君が連れて行ってくれたんだ。ありがとう」
「なっちゃん、喜んでました。僕がなっちゃんに連れて行ってもらったんです」
「それがね、一年間ずっと眠ったままで、表情一つ変わらなかった奈津美の顔が、一週間前に初めて笑ったんだよ。何かいい夢でも見てるのかと思ってね。たぶんその時、行ってたんだね、あの洞窟に。あの子も思い残すことは無くなったんだろう。――その日の夜、お母さんのところに逝ったんだから」
お父さんは、壁に掛けられた奈津美の写真を見ながら、こぼれる涙を手で拭った。
「僕、なっちゃんに返さないといけない物があるんです。勇気が出るペンダント貰いました。でもこれ、なっちゃんが持っていたほうがいいと思うんだけど……」
「それは君が持っていなさい。奈津美の形見だ。それに見てごらん、ちゃんと奈津美も胸に付けてるだろう」
写真に写っている奈津美の胸に、同じペンダントが輝いていた。そう、なっちゃんが言っていたんだ、お母さんから同じものが貰えるって……。
清志はなぜか、泣くことができなかった。実感がわかないということもあるが、涙を流していると、「弱虫、泣いちゃだめ!」という奈津美の声が聞こえそうな気がしたからだ。
壁に掛けられた写真の中に、キラリと光る何かが見えたような気がした。それはペンダントの光なのか、洞窟の中で見た喜びの汗なのか、清志には分からなかった。
ペンダントを握りしめて見ていると、奈津美は清志を励ますように笑っているだけだった。
「ジャンケン、ポン!」
「またケンちゃんの負け。最近弱いわね。どうしたの?」
「俺が弱くなったんじゃないよ。清志が強くなったんだ。清志にだけは負けたくないけど、洞窟に入ってから何だか変わったぞ、こいつ」
自分でも不思議なくらい勝っているし、最近清志が、鬼になることは少なかった。
ジャンケンに勝った清志は、一目散に雑木林の中に駆け込んで行った。
藪の中を走り抜けたその場所に、あの洞窟の入り口がポッカリと空いている。清志は近寄って中を覗いてみた。
そこにはあの時のまま、小さくなったローソクが落ちている。清志は優しく微笑んで、胸に付けているペンダントを握り締めた。
「なっちゃん、ありがとう……」
清志は洞窟の中には入らず、林の中へと走り込んだ。もうここに隠れることはないし、誰も入ることはないだろう。
だってこの洞窟は、僕となっちゃんの二人だけの秘密の場所なんだから……。
清志の目の前に、今まで誰も登ったことがない、大きくて高い木が立っている。
そして、その大木に手をかけた。
おわり




