灯台守
船は備讃瀬戸を西へ進んでいる。
航路標識の定期点検。季節がいくつか巡るごとに、あの島の担当が回ってくる。今度は自分の班に当たった。それだけのことだ。
時化だった。風浪が舷側を叩き、五十トンの船体が、長い周期でゆっくりと右へ傾ぐ。傾いだまま一拍おいて、また左へ戻る。重い揺れだ。小さな船のように波の上を跳ねるのではない。海面に身を沈めたまま、うねりの背に乗って持ち上がり、谷へ滑り落ちる。船底を波が突き上げるたび、船全体に鈍い震えが伝わってくる。
操舵室の窓は、絶えず飛沫に洗われていた。灰色の海と灰色の空が水平線のあたりで溶け合い、境目が見えない。白いのは波頭だけだ。その白さだけが、世界に引かれた唯一の線だった。
手すりを握って、足を踏ん張る。長年この海に通った体は、揺れの周期を勝手に読んで重心を移す。考えるより先に膝が沈み、腰が逃げる。三十年。海の上で過ごした歳月が、そういう形で体に残っている。
背後で、若い技官が呻いた。
船室の長椅子に浅く腰かけ、両膝に肘をつき、頭を垂れている。顔から血の気が引いて、唇まで白い。手にした袋を握りしめたまま、揺れに合わせて上体が前後する。気の毒だが、こればかりは代わってやれない。船酔いは一人で乗り越えるしかない。声をかければ、かえって意識が胃の腑へ向く。黙っているのが情けというものだ。
エンジンの鼓動に耳を澄ませた。低く、太く、変わらぬ間隔で回り続ける機関の音。波がどれだけ船を揺さぶろうと、この鼓動だけは乱れない。これが止まらぬ限り、船は進む。揺れる海の上で唯一信じられるものは、いつも足の裏から伝わってくるこの低い響きだった。
無線が鳴った。
雑音に混じって、事務的な声が告げる。
「──鶴島灯台、定期点検」
窓の外へ目を戻す。
水平線のどこかに、あの島がある。まだ見えない。波の向こうで、灰色の海がただ荒れている。
島影が現れたのは、それから四十分ほど経ってからだった。
灰色のうねりの向こうに、ぽつりと白いものが立っている。鶴島灯台。御影石の塔は、この距離では海鳥に汚れた岩礁と見分けがつかない。だが、長く見てきた目には、あの白さがほかの何とも違って映る。
船は島の東へ回り込んだ。風がいくらか遮られ、波が穏やかになる。入り江の奥に、古いコンクリートの桟橋が見えてきた。有人だった頃、定期船が物資を上げ下ろしした船着場だろう。波に洗われ続けた縁は丸く欠け、表面は黒ずみ、海面に近いあたりはびっしりと牡蠣殻に覆われていた。それでも、船を着けるには十分だった。
船首が桟橋に寄せられる。舳先が古い防舷材に触れ、鈍い音を立てた。係船柱は赤錆を吹いている。だが芯はまだ生きていた。投げたもやい綱が柱に掛かり、船と島がひとつに繋がる。
桟橋に降り立った。
足の裏に、揺れない地面の硬さが返ってくる。コンクリートの感触。潮に濡れて滑るその上を、ゆっくりと歩く。船の揺れを引きずった体が、一歩ごとに平衡を取り戻していく。
振り返ると、若い技官が船縁に立っていた。顔色は戻らない。それでも唇を結び、機材のケースを肩に掛け直して、こちらへ来ようとしている。差し出した手をつかむ手は、冷たく、汗ばんでいた。桟橋に降りた足が、一瞬よろけた。だが、踏みとどまった。
「揺れない地面は、ありがたいだろう」
そう言うと、若い技官は青い顔のまま、かすかに笑った。
桟橋から灯台へは、緩やかな石段が続いている。
有人時代に築かれた道だ。一段一段、人の手で積まれた石。長い歳月のあいだに苔が広がり、縁が欠け、雑草が目地を割って伸びている。それでも道は道として、まだそこに在った。
石段の途中、右手の斜面に、平らに均された一角がある。低い石垣で囲われた、畳数枚ほどの土地。今は雑草に覆われて、ただの草地にしか見えない。だが、その四角い区画と石垣の組み方を見れば、かつてここが畑であったことは分かる。
潮風に強い作物しか育たなかっただろう。大根、葱、馬鈴薯。この狭い土を耕し、海を背に鍬を振るった者がいた。その畑が、今は名も知らぬ草に還っている。海の島では、人が去ればすぐにこうなる。
歩を進める。後ろから、機材のケースを担いだ足音がついてくる。さきほどより、足取りはしっかりしてきた。島の上の、動かない大地を踏みしめる足音だ。
灯台が、空を背にして立っていた。
高さ十四メートル。御影石を積み上げた円筒形の塔。塗装はされていない。剥き出しの石肌が、百年を超える潮と風に晒され、灰白色に変わっている。目地は深く削られ、石の一つひとつの輪郭が浮き出ていた。この石を切り出し、船で運び、海上の小島に積み上げた人々がいる。明治の話だ。その仕事が、今も崩れずにここに立っている。
塔の脇に、コンクリートの基礎が残っていた。四角い輪郭。かつての官舎の跡だろう。傍らに、赤錆に覆われた貯水槽の残骸。雨水を溜め、暮らしの水を賄ったのだ。基礎の隅には、洗い場だったらしいタイルの破片が、土に半ば埋もれて覗いている。
ここで、人が暮らしていた。
その輪郭の上に、もう壁はない。屋根もない。ただ地面に焼き付いた四角い線だけが、そこにかつて人の暮らしがあったことを伝えている。
しばらく、その線を見ていた。
それから目を移し、灯台の扉へ向かった。鍵を回す。重い鉄扉が、潮に軋みながら開いた。
中へ入ると、外の風音が遠のいた。
塔の内部は薄暗く、石壁が冷気を抱いている。螺旋階段が、頭上へと巻き上がっている。潮の匂いとは違う、閉じた石の匂い。鉄と、埃と、長い時間の匂いだ。
若い技官が、機材のケースを下ろした。
膝をつき、ケースを開ける。船酔いの青さはまだ顔に残っていたが、手元に向ける目の色は変わっていた。制御盤の前にしゃがみ、薄い銀色の機械を取り出す。蓋を開くと、画面が灯り、薄闇にその顔を青白く照らした。
ケーブルの先を制御盤の端子に挿し込む。指がキーを叩きはじめる。迷いのない手つきだった。画面に数字とグラフが流れていく。灯器の出力。太陽電池の電圧。蓄電池の残量。通信記録の時刻。画面を追う目が、文字を読むように滑らかに動く。ときおり、確かめるように小さくつぶやく。
「電圧、正常」
「通信ログ、欠損なし」
キーを打つ乾いた音が、石の壁に小さく反響した。
その傍らで、壁に近づいた。
手のひらを、御影石に当てる。
冷たい。石が抱え込んだ冷気が、掌から腕へと伝わってくる。目を閉じると、指の腹に、石の表面の細かな起伏が感じられた。潮が残した塩の粒。雨が穿った浅い窪み。そして、髪一本ほどの細い罅。掌の下で、石が何かを語っている。数字には決してならない言葉で。
画面はこの石の声を読まない。電圧も、出力も、この罅のことは何も知らない。だが掌は知っている。この壁がどれだけの嵐を受け止めてきたか。どれだけの歳月を、黙って吸い込んできたか。
石の手触りと、若い指がキーを打つ音と。同じ灯台を、二つの違う手が確かめている。
「──ここ、来られたことが、あるんですか」
声が、背中に掛かった。
壁から手を離さずに、答えた。
「昔な」
それだけ言った。
掌の冷たさが、指先から記憶の底へと沈んでいく。
壁に触れていると、手が、勝手に動く。
石の面を、掌がゆっくりと滑る。目地をたどり、罅の手前で止まり、また滑る。確かめるというより、なぞっている。ずっと昔に、誰かがこうしていた。同じ高さに手を当て、同じように目地を追い、塔の具合を掌で聴いていた。その手つきを、この手が覚えている。誰の手だったのかは、もう像を結ばない。ただ、動きだけが残っている。
顔を上げ、螺旋階段を見上げた。頭上へ巻き上がる段の、その先の灯室。目が、何かを追って上っていく。急な段。手すりにしがみつく、小さな手。頭上から降ってくる靴音。像にはならない。だが、足が一段、前へ出かけた。
そこで、止まった。
ここへは、来たことがある。それだけは、確かだった。
「──主任」
声が、記憶を断った。
「データ、すべて正常です」
機械の蓋が閉じる、小さな音。
壁から手を離した。掌に、石の冷たさがまだ残っていた。指を握ると、その冷たさが、ゆっくりと体温に溶けていった。
点検を終え、機材を片付ける。制御盤のまわりを拭き、最後に塔内を見回したとき、棚の奥に目が留まった。
埃をかぶった一冊の帳面が、棚板と壁の隙間に、立てて挟まっている。背は灼けて、文字が読めない。だが、それが何かは分かっていた。
手を伸ばし、引き出す。表紙の埃を指で払う。硬い表紙に、几帳面な字で「灯台日誌」とある。この筆跡を、知っている。
開きたい衝動を、こらえた。ここでは開かない。今は、開けない。
表紙を、一度だけ指でなぞった。それから、元の場所へ戻す。帳面は、音もなく隙間に収まった。
顔を上げると、若い技官がこちらを見ていた。何か言いかけて、口をつぐんだ。問いを飲み込んだ顔だった。それでいい。
何も言わず、螺旋階段を上った。灯室を確かめる。
レンズは、もうフレネルではない。小さなLED灯器が、がらんとした灯室の中央に、ぽつんと据えられているだけだ。無人のまま夜ごと明滅を繰り返す、必要最小限の装置。かつてここを満たした、あの巨大なガラスの塊は、とうに撤去されている。レンズが回っていた頃、灯室は光で溢れていた。プリズムが西日を受けて虹の色に燃え、壁という壁に色の模様を投げかけた。今は、白い壁と小さな灯器が在るだけだ。
灯室の窓から、海を見た。風は落ちはじめ、波頭の白も減っていた。遠く、本土の山影が霞んでいる。あの山の向こうに、高松の港がある。
階段を下り、塔を出る。
扉を閉め、鍵を掛けた。鉄扉が重い音を立てる。
振り返った。
灯室の窓が、曇り空を映して鈍く光っている。今はただ、空を映すガラスだ。だが、その窓が夜ごと白い光を放っていた頃を、どこかが覚えている。下の庭から見上げれば、それは光の柱だった。誰かの仕事場であり、誰かの目印であり、誰かの帰る場所だった。
それでいい、と思う。もう、人の手は要らない。機械が灯りを守っている。淋しいことではない。正しいことだ。かつて人がこの灯台を守ったように、今は機械が守る。守るものは何も変わっていない。形が変わっただけだ。
桟橋の方から、声がした。
「主任、船が来ました」
灯台に背を向ける。
石段を下りながら、一度だけ、振り返らずに思った。あと何度、ここへ来られるだろう。定年はまだ先だ。だが、この島の担当が次に回ってくるのは、また季節がいくつか巡った後だ。そうして数えていくと、残された回数は、思いのほか少ない。隣を下りていく若い背中が、いつかこの島を引き継ぐのだろう。
そんなことを考えるようになったのは、この若いのと組むようになってからだ。若さの隣に立つと、自分の来し方の長さが、ふと見える。
帰りの船は、往きほど揺れなかった。
風が落ちたのだ。うねりはまだ残っていたが、船は安定した速度で高松へ向かっていた。エンジンの低い震えが、船室に満ちている。船酔いは、もう治まっていた。胃の不快が去った後に、うまく言葉にならない何かが、胸の底に残っていた。
主任は、操舵室の脇に立って、後方の海を見ている。鶴島は遠ざかり、灯台の白い塔が、辛うじて見える程度になっていた。その背中は動かない。島が見えなくなるまで見届けようとしているのか、それとも、もう何も見ていないのか。横顔からは、読み取れなかった。
あの人は、あの壁に手を当てて、何を確かめていたのだろう。あの帳面を、なぜ開かずに戻したのだろう。問いは、口に出せないまま胸に溜まっていく。
主任が、こちらへ歩いてきた。隣に立ち、同じ海を見る。しばらく、どちらも黙っていた。エンジンの音だけが続いた。
やがて、主任が口を開いた。
「あそこには昔、官舎があってな」
波音に紛れそうな、低い声だった。
「俺の親父が、あの灯台の、最後の灯台守だった」
言葉にすると、堰のあたりが緩む。
あの島で育った。小学校に上がるまでの、ほんの数年。だが、その数年が、体のいちばん深いところに沈んでいる。今日、壁に手を当てたとき、勝手に動いた掌が辿っていたのは、父の手つきだった。
夕暮れになると、父の背を追って螺旋階段を上った。手すりにしがみつき、急な段を一段ずつ。頭上で、父がスイッチを入れる。機械が低く唸り、フレネルレンズが回りはじめる。幾重ものガラスが光を集め、束ね、放つ。回る閃光が目を射て、顔を背けた。父の手が、ぽんと頭に乗った。直に見るな。低い声。あれが、灯台というものに触れた、いちばん古い記憶だ。
夜、布団で見上げる天井を、光の帯が規則正しく横切っていった。レンズが回るたび、かすめる細い光。あれが来るたび、安心して目を閉じた。光が巡る限り、父はあそこにいる。世界は、正しく回っている。
霧の朝には、腹の底を突き上げる音が鳴った。低く、太く、地ごと震える音。怖くて母にしがみつくと、笑って背中を撫でられた。あれは何かと父に訊くと、こう言った。船に道を教えとるんじゃ、と。
苦労は、後になって母から聞いた。高い熱が三日下がらず、時化で定期船も来ない夜、母は雨水に浸した布で、一晩中額を冷やし続けたという。あんたが元気でいてくれたら、それでええんよ。後年、母はそう言って笑った。定期船が二週間来ず、米が尽きた冬もあった。父の釣った魚を母が焼き、三人で分けた。最後は家族で笑うしかなかった。そう語る母は、いつも誇らしげな顔をしていた。
守るものは何も変わらない。あの島で家族が守ったものを、今は機械が守り、隣のこの若いのが守っている。形が変わっただけだ。
その横顔を見た。潮と機械油の染みた作業着。日に灼けた頬。目尻の深い皺。三十年、この海に通ってきた人の顔だった。
あの基礎。草に還った畑。錆びた貯水槽。桟橋の古い石。あれはすべて、この人が暮らした家の名残だったのか。壁に手を当てていたのは、自分が育った家の壁に、触れていたのか。
保安大学校で、灯台守のことは習った。航路標識の歴史。明治の洋式灯台。灯台守という職と、その段階的な無人化。二〇〇六年、最後の有人灯台が無人化され、灯台守はいなくなった。教科書では、数行だった。年号と、事実。試験に出るから覚えた、ただの文字だった。
その文字が、いま、温度を持ちはじめている。
灯台守、という三文字の奥に、この人の少年の日があった。壁をなぞった掌の動きがあった。開かずに戻された、一冊の帳面があった。ばらばらに散っていたものが、ひとつの像を結び、胸のいちばん深いところへ、すとんと落ちてくる。知識が、重みに変わる。文字が、感情に変わる。
何か言おうとした。けれど、言葉が見つからない。「大変でしたね」は違う。「すごいですね」も違う。どんな言葉も、あの壁に手を当てていた背中の前では、軽すぎた。
「……知りませんでした」
ようやく、それだけ言った。
主任は、小さくうなずいた。それきり、何も言わなかった。
鶴島が水平線へ沈んでいくのを、二人で黙って見ていた。最後に一度、灯台の白い塔が西日を受けて光り、そして島影に消えた。
高松港に着いたのは、日の傾きはじめる頃だった。
事務所に戻り、機材を片付け、潮で湿った身支度を解く。主任は作業の概要を口頭で報告すると、自分の席へ戻っていった。その背中が、船の上で見たときより、少し小さく見えた。
席に着き、報告書の様式を開く。蛍光灯の下で、画面が味気なく光っている。隣の席ではキーボードの音、奥では電話の声。いつもの事務所の、いつもの夕方だ。日付、灯台名、点検項目、測定値。慣れた順に、数値を打ち込んでいく。灯器、正常。太陽電池、正常。蓄電池、正常。通信、正常。外壁、特記事項なし。
すべての欄が、埋まった。
最後に、定型の一文が残る。
「異常なし」
いつもなら、何も考えずに打つ五文字だ。何十回と打ってきた。点検し、数値を確かめ、異常なしと記す。それが仕事だ。
だが、指が止まった。
あの帳面が、頭から離れない。主任が棚から引き出し、表紙をなぞり、開かずに戻した一冊。あの几帳面な筆跡。あの中には、主任の父が毎日書き続けた記録があるはずだ。嵐の日も、霧の朝も、物資の絶えた週も、子が高熱で唸った夜の翌朝も。同じ一行を、書き続けた記録が。
あの時代の公文書は、漢字に片仮名を交えた文体で書かれていた。だとすれば、あの帳面の一行は、こう記されていたのだろう。
「本日モ、異常ナシ」
毎日、毎日。異常がないことを確かめ、異常がないと記し、また翌日、同じことを繰り返す。それが灯台守の日々だった。何事もなかったという、その一行を残すために、家族であの島に暮らし、嵐に耐え、霧の海に信号を鳴らし、灯りを守り続けた。
画面の上の、五文字を見つめる。「異常なし」。たった五文字。船の上で、灯台守という文字が感情に変わったように、いま、この五文字も変わっていく。半世紀前の片仮名交じりの一行から、技術の移り変わりを越えて、自分の手元まで届いた言葉。打てば消えるただの記録が、急に、重い。
形は変わった。石の壁に掌を当てる代わりに、画面で数値を読む。フレネルレンズの代わりに、LEDが灯る。手書きの日誌の代わりに、デジタルの記録を送る。
けれど、この一行が守ろうとしているものは、何も変わっていない。
今夜も、海を行く船が無事であること。灯りが、変わらず灯っていること。明日もまた、誰かが同じ一行を書けること。
「異常なし」と打ち、報告書を送信した。
席を立ち、上着を取る。ふと、主任の席に目をやった。もう帰ったらしい。机の上は片付けられ、何も残っていなかった。
事務所を出ると、空気が変わった。
潮の匂いを含んだ夜風が、頬を撫でる。日はすでに落ち、港には街灯の明かりが点々と並んでいた。係留された船の綱が、寄せる波にきしむ。どこかで海鳥がひと声鳴いて、あとは静かになった。
ふと、港の向こうの海へ目が向いた。
暗い水平線の、遠く。
小さな光が、見えた。
鶴島灯台だ。規則正しく、明滅を繰り返している。光が、闇をかすめ、消え、またかすめる。朝の荒れた海が嘘のような、凪いだ夜の海。あの光の下を、今夜も、どこかの船が通る。船乗りはあの光を見て、自分の居場所を知る。灯りがそこに在ること。それを確かめて、船は先へ進んでいく。
船乗りは、灯台守の名を知らない。今日その灯台を点検した者の名も、知らない。ただ、光だけが、海の上に届く。
それでいいのだ、と思った。
しばらく、その光を見つめていた。
やがて、静かに歩き出した。




