「毒見女なら死なないだろう」と毒杯を飲ませた婚約者へ――王太子殿下の杯から同じ毒を暴き、殿下直属になりました
「毒見女なら死なないだろう? ほら、干してごらん」
婚約して一年の祝いだと、燭火を映す杯を笑いながら差し出したのは――婚約者の、王太子殿下の侍従長ラウレンツである。
王太子殿下の生誕を祝う宴である。鏡のように磨かれた床で燭台の灯りが揺れ、弦の音に、甘い葡萄酒の匂いがほどけていた。
今夜の毒見の当番はわたくし。開宴前の検めと封も済ませた。銀器の触れ合う音のなか、当番を宛てたのは、配膳と杯の差配を握る侍従長――つまり、目の前で笑うこの方その人である。
歓談の輪の向こうで、公爵家の令嬢ゾフィーネさまの扇が、白い蝶のように開いている。侍従長との縁談の噂も、耳にしていた。噂は飴に似ている。甘く舌に貼りつき、あとには焦げの味だけが残る。
「作法ですの。毒見の一口目は、舌の先と決まっておりますわ」
「職に熱心なのは結構だ。だが今夜の君は、当番の前に私の婚約者だと思っていたが」
「ですからこそ、殿方より先に干しては、作法に苦みが残りますもの」
杯を受け取る。銀の縁が、指にひやりと食い込む。婚約者の杯まで検めてしまう舌を、ずっと恥じてきた。それでも、身に染みた構えはほどけない。
作法どおりの一滴に、鈴の花の匂いと、針の先ほどの痺れが載っていた。
白鈴草はくれいそう。恥じてきた癖が、今夜は誰かの命を拾う。舌先に残る痺れが、そう告げている。
心の臓が、肋の内側を叩く。杯を持つ指まで音が響きそうなのに、顔は祝いの席のまま――五年の毒見が、皮膚の下へ仕込んだ顔である。
「さすがだね、顔色ひとつ変えない。まったく、君はよくできた舌だ」
「毒見役が青くなっては、お毒見になりませんもの。……後味さえなければ、いいお酒ですのにね」
彼の眉が、燭火の揺れほどかすかに動く。
「作法、作法。実に結構。……まあいい、君はいつも順だけは守る」
「この杯は、記念にいただいてまいりますわ」
灰色の目の奥で、何かが軋む。その音が聞こえた気がした――杯が、彼の手の届かないところへ行く音である。
杯を胸もとへ抱き、椅子を引く。木の脚が床を擦る音だけが、妙に大きい。振り向けば、祝いの席の顔が崩れる。
◇
柱の陰で帯の薬匣くすりばこを開ける。含み薬、白湯の瓶、検めの紙――宮廷薬師の商売道具である。蓋を開けると、乾いた薬草と薬草園の湿った土の匂いが立ち、震えかけた指を一度だけ鎮める。
含み薬の苦さで舌を洗っても、痺れは舌の先に根を張り、動こうとしない。
受けたのは一滴ぶん。並の煎じ――殺す量ではなく、舌と喉だけを黙らせる量である。杯に一杯なら、半日は声が出ない。あの甘い声で告げた、干してごらん、の狙いはそれだ。殺すつもりなら、濃く煎じればいい。この毒は、わたくしを殺さないことにこそ意味がある。
痺れは半刻、御前の乾杯まではあと四半刻。遠くで弦が鳴るたび、残りの時が削られてゆく。一滴でも、刻限まで毒見の舌は使いものにならない――あの方の要り用は、それで足りている。足りなかったのはただ一つ、わたくしが味に気づいてしまったこと。
白鈴草は王宮に置かない禁草。薬庫の帳にも載らない。毒そのものを置かぬ代わりに、検めの紙だけを外の薬師組合に調えさせ、当番と侍医の薬匣へ納めてある。ならば、この青い匂いは、誰かが外から持ち込んだもの。
毒見役の舌を封じて得をする者は、今夜これから毒見される杯の向こうにしかいない。
口の中に、鉄の味が広がる。恐れの味は、いつも鉄に似ている。奥歯の裏まで満ちるそれを飲み下し、柱の陰を出た。
◇
列を割り、視線の波を頬に受けながら玉座の前へ出る。当番の杯を胸に抱いたまま、冷たい床へ膝を折る。
「毒見役として申し上げます。今宵の御杯、いま一度あらためます」
ざわめきが広がるより早く、ラウレンツが衣擦れを鳴らして前へ出た。
「毒見はすでに手筈どおり済んでいる。……順が、違う」
「宴の順をお決めになるのは、殿下でございますの。毒見役の検めも、その順に含まれますわ」
「……手筈に、無い」
済んでいるのは開宴前の封――一度目の検めである。帳面の上では正しい。けれど、二度目の前に検め直してはならぬ理由など、どこにも無い。
エトヴィン殿下が、触れかけた杯から静かに手を離す。碧の目が、わたくしと杯を順に見て、最後に侍従長へ向いた。
「検めよ。毒見役の検めを止める理由が、俺にはない」
◇
御前の卓。雪のように白い布の上へ、殿下の杯が据えられる。舌の先はまだ、薄い膜をかぶせられたように痺れている。ならば道具で検める――満座の誰の目にも見える手続きで。
「白鈴草の試し紙ためしがみでございますわ。黒く変わるのは、白鈴草に触れたときだけですの」
「まずは、殿下の御杯からあらためますわ」
紙の白へ雫を落とす。縁から夜がにじむように、黒がじわりと広がり――やがて沈む。
「続いて、わたくしの杯を。同じ夜、同じ広間で、別々の毒が二つ巡るとは思えませんもの」
息を一つ吐く。わたくしの杯へ紙を浸す。端を摘む指先から血の色が消えても、黒が浮くまで離さない。
試し紙は、二枚とも同じ黒に変わった。
黒は、嘘をつかない色である。燭火の下でも、揺らがない。
「白鈴草ですわ。わたくしの杯と、同じ毒が入っておりますの」
「では、手前も検めさせていただきましょう」
侍医どのが衣の裾を鳴らして進み出て、自分の薬匣から新しい紙を取り、両方の杯を検め直す。
「……まさしく同じ黒でございますな。二つの御杯に、同じ毒がございます」
「殿下の御身に大事はございませぬ。まだ、お口になさる前でございましたゆえ」
紙が告げるのは、毒の有無しかない。注がれたあとの煎じの濃さまでは、誰にも量れない。それでも――御前の杯に禁草。その黒い染みだけで、殺しの企てを示すには足りる。
広間から、潮が引くように音が消える。弦も、囁きも、衣擦れさえも。
◇
静けさの底で、鉄の味を押し込み、口を開く。これは、わたくしの職分である。婚約者としてではなく、毒見役の舌で申し上げること。
「開宴前、御杯には確かに封をいたしました。封を解き、並べ直せるのは差配のお一人だけ――配膳の帳を、検めとうございますわ」
「帳を、これへ」
殿下の一言で、帳が卓上へ運ばれ、白い布の上に開かれる。今夜の頁に、見慣れた印が黒々と沈んでいる。
「今夜に限り、御杯はご自身でお並べになった――帳には、そう残っておりますの。当番にわたくしを宛てたのも、同じ印ですわ」
「封を最後に検めたのは、開宴前のわたくし。そのあと御杯に触れられた方は、帳の上ではお一人だけですわ」
「帳では、酌人しゃくにんの子が今夜の給仕から下げられておりますわね――その子のお話を、うかがいとうございますわ」
「連れて来よ」
衛兵が、酌人の子を連れて来る。顔は血の気を失い、膝も震えている。それでも、床へ縫いつけられたようにまっすぐ立っている。
「今夜は御杯をご自分で並べる、と仰いました。おれには下がっていろと。封の紐も、ご自分で解くからと」
「よく覚えていたものだ。だが、順が違う。給仕の子の言葉ひとつで宮の侍従長を疑う――手筈を知らぬ者の目には、何もかもが怪しく映るものだ」
声はまだ油のように滑らかである。けれど、わたくしは知っている――この方は詰まると、段取りの言葉に逃げる。順、手筈、作法。どれも答えではなく、身を隠すための薄い紙。
「お見事な検めぶりだ。だが……毒見役が自分で毒を仕込み、自分で見つけてみせた。そういう芝居も、筋としては成り立つだろう?」
「まあ。でしたら、わたくしの薬庫をお検めいただければ結構ですわ。白鈴草は王宮のどこにもございませんの。扱う許しを持つのは組合だけ、組合への注文は、ぜんぶ帳に残りますのよ」
侍医どのが、薬匣に手を置いたまま、静かに頷く。
「薬庫の帳は、手前が季節ごとに検めておりまする。白鈴草は、確かにございませぬ」
「では、その順を踏ませていただきますわ」
「――侍従長さまのお袖には、まだ残りの毒がおありのはずですわ。干せば半日、一滴なら半刻。わたくしが干して差し上げなかったので、二の手が要りましたの。ですから、お捨てになる機もございませんでしたのよ」
ラウレンツの手が、袖口を隠すように動く。ほんのわずかな衣擦れ。それでも殿下の碧の目は、そこで止まる。
「袖を検めよ」
衛兵が押さえた袖から、小指ほどの小瓶を抜き出す。栓の内側は、まだ濡れている。試し紙が――また、黒。
誰かの呟きが、凍った広間を細く走る。毒杯を、婚約者に。
「違う……あれは、死ぬ量ではなかった」
死なない量を知っているのは、量った者だけである。
広間がその意味に追いつくまで、鼓動二つぶんの間。胸の内側で鳴る音だけが、やけに近い。
「わたくしは、一滴しか舐めておりませんの。生きていることは、濃さの証しにはなりませんわ」
「杯ごとに手加減できたのは、煎じを注ぎ分けた方おひとり。……いま、濃さをご自分で明かされましたわ」
小瓶の栓が、侍医どのの指で再び抜かれる。鈴の花の青臭い匂いが、生のまま、冷えた空気へ立ちのぼる。
「生の煎じですわ。底の澱がこんなに厚い――これは、殺す濃さでございますの」
「……手前の見立ても同じでございます。殺しの濃さに相違ございませぬ」
わたくしは、指に貼りつく冷たさごと自分の杯を持ち直す。一年、隣を歩いた方の席へ。磨かれた床へ、靴音がひとつずつ落ちる。
「その乾杯、犯人のお席までお返しします」
彼の顔から、初めて段取りが剥がれ落ちる。残ったのは、祝いの夜には似合わない、むき出しの青白さ。
「十日後に宮内の帳を検める。書き付けの無い内命で、写しの支度を命じたのはそなただけだ。俺を殺し、検めごと消す勘定だったな」
ゾフィーネさまの扇が、花を閉じるように音もなく畳まれ、絹の香りだけを残して遠ざかる。
「あたくし、その方を存じませんわ」
令嬢はそのまま、人垣の向こうの灯りへ溶ける。飴の焦げは、匙にも残らなかったらしい。
わたくしはラウレンツへ向き直り、一年ぶんの言葉をぜんぶ、舌の上で検めにかける。祝いも睦言も、後味はどれも同じ――甘さが消えたあと、舌の先にいつまでも残る薄い苦み。
「婚約も、いま検めさせていただきましたわ。――黒、でしたの」
「順が……手筈が、違う……」
衛兵に両腕を引かれながら、彼は最後まで、口の中にない段取りの言葉を探していた。
◇
夜更け。仕切り直しの乾杯が、こんどこそ静かに済んだ。燭台の火は半分に減り、蝋の匂いが濃くなっている。それでも客の半分は帰らず、杯を手に、先ほどまでの静けさを語り合っている。恐ろしいものの後日談は、酒より深く人を酔わせるらしい。
半刻の勘定はとうに過ぎ、舌を覆っていた痺れは、波が引くように解けている。
五年、人の悪意ばかり先に舐めてきた舌に、今夜のただの葡萄酒は、驚くほど甘かった。
殿下が、わたくしを呼ぶ。広間じゅうの目が、燭火より早く一斉にこちらを向き、頬がわずかに熱を持つ。
「今宵より、そなたは俺の直属だ。俺の杯は、そなただけが検めよ」
差し出されたのは、燭火を白く映す銀の杯。以後、殿下の杯はこれ一つ、検めるのはわたくしだけ――冷たい銀に刻まれた、揺るがぬ印である。
「――では、当番の名簿から、わたくしの名が消えますのね?」
「俺の帳に載る」
「まあ。いちばん検めの利く帳は、ずいぶん甘い味がいたしますこと」
わたくしを毒の前へ宛てた差配の手は、もう二度と、この身まで届かない。
「五年で、四千を超える杯を一度も違えなかったそうだな」
「今夜からは、数えるのをやめますの。数えるまでもなく、お一人ですから」
銀の縁の冷たさを指で確かめたとき、ようやく胸の奥へ遅い熱が灯る。うれしさまで後味で来る女だと、われながら思う。
それから殿下は、満座の前で、儀礼のどこにも無い動作で手を差し出す。細いざわめきが、波紋のように広間を渡る。
「そなたの検めた酒なら、さぞうまいのだろうな」
「……あら。いまのお言葉、お誘いの味がいたしますわ」
「毒見のとおりだ」
検めてしまった。恥じるより先に、唇から笑いがこぼれる。差し出された手のひらは、剣だこの硬さを持ちながら、疑いようもないほど、まっすぐに温かい。
わたくしはその手を――指先で温度まで検めてから、取った。
「拝命いたしますわ。――殿下の悪い味は、これからぜんぶ、わたくしが先にいただきますの」




