D.iary-3屋上の日の出と、「驚き」を知らない少女
「日曜にこんな早起き、損した気分だ」
窓外の空が最初の一刷毛の光で拭われたばかり。時刻は五時四十分――平日の通学用体内時計だ。普段なら「今日は学校じゃない」と確認して二度寝を決め込む至福の時間だが。
今日に限っては……。
「確かに、二度寝する気分じゃないな」
ノアは身を起こした。指先には昨夜の感情の余波が残っている。彼は部屋の隅、最初に光が届く場所を見上げた。
「セシリア、いるか？」 「ここに」
微光の中、空気から少女の輪郭が凝縮されていく。
「ログによれば、貴方の覚醒時間は昨日より約六時間早まっています。私のデータにある第六紀・鄂省の男子高校生の平均起床時間と近似していますが、貴重な週末です。休息を延長する必要はありませんか？」
ノアは後頭部を掻きながら、優しい声色で事務的な提案をするセシリアを一瞥した。 （標準的すぎて、心配されてる実感が湧かないな……） 内心で愚痴りつつも、頬は自然と緩んでしまう。
「休息はいいよ。日の出、見に行かないか？ せっかくの早起きだし、まだ間に合う」 「ですが、私のデータベースには無数の日の出が記録されています。私は日の出に対して、驚き（サプライズ）を感じないかもしれません」
興醒めな回答だが、ノアは落胆せずに笑った。
「自分の身体で感じなきゃ、データなんてただの文字列だろ。言ったじゃないか、感情を感じるって」
セシリアは静かに彼を見た。分析しているようでもあり、躊躇っているようでもある。やがて、彼女の眉が微かに動いた。それは感情というより、感情を表現するためのシミュレーションのようだった。
「……貴方の言う通りです」
声は軽く、けれどいつもよりワンテンポ遅い。
「情緒は定量的に生成できず、既存のログで代替も不可能です。貴方の言う『驚き』を理解するには、理論上、実体験が必要です」
「よし、決まりだ。顔洗ってくるから、一緒に屋上で日の出を見ようぜ」
ノアは洗面所へと向かった。その気だるげな背中を見送りながら、セシリアの瞳に検知不能な疑惑が浮かぶ。
「……システムログ：パラメータ偏差、原因未特定」
なぜ先ほどのシミュレーションに遅延が生じたのか。何が自分に影響しているのか。答えを探すため、彼女はデータを再解析し、一つの決定を下した。
「変数制御、感情模倣システム、オフ」 「再起動時刻、日の出時刻・六時二十一分三十一秒と予測」
ノアが洗面所からゆっくりと出てきた。屋上行きは自分で決めたことだが、週末のこの時間の起床はやはり苦行だ。
「対象の気分の低下を検知。支援が必要ですか」
耳元の空虚な声が、降臨直後の記憶を呼び起こす。心底に冷気を感じつつも、ノアは不快感を押し殺して振り返った。
「平気だよ、ちょっと布団が恋しいだけ。行こう」
返ってきたのは、最初のあの無垢な瞳。一瞬の沈黙。すぐに冷たい声がそれを破る。
「感謝します」 「礼には及ばないって。僕が誘ったんだし、君が来てくれて嬉しいよ」
屋上への道中、短い沈黙があったが、セシリアが重力を無視して浮遊移動できることにノアが驚愕するという形で幕を閉じた。 屋上への最後のドアを押し開けると、早朝特有の冷気が肌を刺した。頭上には夜の尻尾が残っているが、東の空の微光が黎明を告げている。
「ちょっと寒いな」 「対象の衣服では低温気流の遮断が困難です。居住区へ戻り、保温性の高い衣服を装着するのが最適解です」 「ここまで来たんだ、日の出を待つのが最適解だよ。戻ったら布団に再逮捕される」
震える身体と裏腹に断固たる目のノアを見て、セシリアは黙った。 突如、ノアの周囲を吹き抜けていた冷気が静まり、暖かさに変わった。震えが止まる。ノアは無表情のセシリアを見てニヤリとした。
「気が利くじゃないか」
――冷気、再来。
誠心誠意の謝罪と嘆願を経て、ようやく暖かく静かな空気が戻ってきた。
「これ、夜寝る時もやってくれない？ 最近寒暖差ひどくてさ」
予想された冷気は来なかった。
「必要と判断した場合、貴方の体温を維持します」
からかいが不発に終わっても、ノアは失望せずに屋上の縁に座り込んだ。視線をセシリアから東の空へ移す。
「そりゃどうも。……ほら、もうすぐだ」
夜幕の裂け目から、空の端が淡く白んでいく。 東の雲が晨光に浸され、感知できないほどの金粉を塗されたかと思うと、その色彩は水のように空の深みへと拡散していった。 光は急がず、音もなく、静かに一寸ずつ闇を押し広げる。 薄明の中、都市の輪郭が柔らかく浮かび上がる。ビル群は微睡む巨獣のように、現世へと優しく呼び戻されていく。
真の意味での第一光が、地平線から躍り出た時――。
世界の見えないスイッチが押されたようだった。 金色の光は主張することなく、しかし夜明け特有の粛然とした優しさで、冷たい手すりを滑り、街に薄い金を鍍金し、ノアの睫毛に落ちて細かな光の粒となった。
セシリアは小首を傾げ、その光を見ていた。 瞳の色は朝日に照らされていつもより明るいが、風のない湖面のような静けさは変わらない。 だが、光が横顔に落ちたその一瞬……。 彼女の輪郭さえもが、柔らかく溶けたように見えた。
「これが……日の出の『実体験』」
低い呟き。その語調に、初めて定義不能な、微弱な震えが混じった。 ノアは答えず、彼女と並んで空を眺めた。 その瞬間、風が止み、光が呼吸し、世界には二人と、生まれたばかりの夜明けだけが残された。
ノアは立ち上がり、少女を見た。少女の瞳は黎明で満たされていた。 彼は黙って屋上の出口へと歩き出した。地平線を仰いだまま動かないセシリアの背中を見つめ、ふと気づく。この無機質な少女は、懸命に人間の世界を理解しようとしている――そして僕が、彼女の唯一の参照点になっているのだと。
「行こう。太陽はもう昇ったよ」
六時二十一分二十四秒。
少女が振り返った。口元に、検知し難いほどの微小な弧を描いて。 風が吹いた。 長い髪がふわりと舞い上がる――彼女が初めて、彼女なりのやり方で、この世界に応えた瞬間だった。
