表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

無償の愛を歌え!

作者: あやかゆ

 *1*

 レイラは、職場の裏庭で男の人を拾った。

 言いつけられた雑草と落ち葉の掃除中、背後で大きく木を揺らす音が聞こえたのが始まり。びょんっと肩どころか全身で跳び上がって見てみると、皺だらけのシーツに包まった塊が縮こまっていたのである。


「なに⁉どちらさま⁉」

「……」


 箒を武器のように構えて用心深く木の影に近付いて観察して、ようやくシーツを念入りに纏った人だと理解した。小さくなって座っているけれど、成人男性みたいだ。


「も、もしもし。具合でも悪いんですか?」

「……放っておいてくれないか」


 なんて酷い声だ。

 例えるなら理性なんてこれっぽちもない獣の呻き声か、調律がぐちゃぐちゃのコントラバス。どちらも聴いたことないけれど、いずれにせよお世辞にも耳に優しくない拉げた声だ。


「か、風邪でもひきましたか……?お医者さん呼んできましょうか」

「放っておいてくれと言ってるんだ」


 さっきよりも語調の強くなった声は、さらに酷いものになった。声帯がどうなればこんな声が出せるのか。大して長くない台詞の中で、可笑しなところでひっくり返ってしまっている。


「僕だって好きでこんな声してるんじゃない!」


 興奮して声を荒げて、一緒にレイラを振り払うように片手が空を切った。大きな動きに合わせて風が吹いたものだから、軽いシーツはひょいっと捲れ上がる。


「あっ」

「あ――」


 露わになった顔も酷いありさまだった。至るところに痣と瘡蓋か鱗のようなものがびっしり付いていて、両目の大きさがまるで違う。固まった部分で皮膚が引き攣れているらしく、表情も左右対称に動かせないようだ。真っ黒な頭髪も海藻みたいにうねっているし艶が無い。

 慌ててシーツを被り直した男性がより丸く縮こまるなか、レイラは一つ思い当たった。


「呪い、ですか」

「……多分ね」

「司祭様のところへ行こうとして迷ったんですね?診断費はあります?」


 ここはとても大きいメイヴィス協会聖歌棟の裏庭。ごくたまに迷子は来る。


「……物、でよければ」


 袖口からチラリと見せられたのは、流木のように歪な腕に嵌められた金の腕輪だ。素人目にも呪いの診断には十分すぎる価値がありそうだけれど、残念ながらメイヴィス協会は不正や袖の下防止のため金銭しか受け取らない。

 そう伝えると、腕を引っ込めた男性は鼻を啜ってまた丸くなってしまった。


 これは困った。男性の座るお尻の下と、木の後ろにはまだ片付けないといけない落ち葉があるのに。こんな目立つところの落ち葉を放置すると大目玉を食らいそうだけれど、落ち込む男性に「さっさとどいて」なんて声をかけるきにはならないし……。


「ねえ、お兄さん。魔法は使えます?」

「……なんで」

「私がひとっ走りしてその腕輪を換金してきます。なので、その間にお兄さんは魔法でこの裏庭の落ち葉を綺麗にしてください。あっちに焼却炉あるので運んでもらうだけでオッケーです」


 ピッと裏庭の片隅にある焼却炉を指さすレイラを、男性がポカンと見上げる。


「安心してください。三丁目のジェーン鑑定店を使いますし、証明書も貰ってきますから。お兄さんお名前は?」


 男性は目線を迷わせていたけれど、暫くして意を決するように喉を鳴らす。枝のような腕から金の腕輪を抜き取って、震える指先でそっとレイラに預ける。


「……ジャックでいい」


 でいい、とは。

 普遍的すぎる名前に疑問は残るが、まあお掃除を楽できるなら、とレイラはにっこり腕輪を受け取った。




 *2*

 さて、換金所は少し遠いが走ればすぐだ。お客さんが少なくお昼前には終わったので、サンドウィッチを二人分買って帰る余裕もあった。男性改めジャックに証明書と一緒に渡せば、随分驚かせてしまったけれど。

 安くて具の少ないサンドウィッチにハンッと鼻で嗤って受け取ったジャックだけれど、お腹は空いていたのかすぐにむしゃりと食らいついた。


「よくこんな化け物に親切にできるな」

「困った人助けるのに、見た目関係あります?私も楽できたのでただの親切じゃないですし。ウィンウィンという奴です」


 そう言って憚らないレイラに、ジャックは終始微妙な顔をしながら咀嚼を続けていた。


 お昼休憩を終えたらジャックを正面の診断受付に送り、レイラは裏庭の掃除を再開する。落ち葉は約束を守ってくれたジャックのおかげで一枚残らず綺麗になっているけれど、草むしりは手作業でしなきゃいけないので。


 ここは聖歌隊の練習も聞こえてこないから暇なんだよなぁ。


 仕方ないので調子外れの鼻歌を歌いながら花壇の草をむしって暫く。興が乗ってきた頃合いに、乱暴な足音が木々に肩を掠めながらやってきた。


「どわーっ!せっかく綺麗にしたのに、また葉っぱ落ちちゃうでしょうが!」


 案の定というか、やってきたのは診断に送り出したはずのジャックだ。彼はまたシーツを被ったまま、レイラの近くにどすんっと座り込んだ。今回は、迷ってきたわけではないらしい。

 ジャックはたった一言「ダメだった」と零すと、それっきり丸くなって静かになる。

 レイラはかける言葉が見つからず、もごもごと唇だけを動かした。落ち込んだ人間には、どんな言葉をかければ効果的なのやら。

 そう経たないうちにぐずぐずと鼻を啜る音までシーツの中に響くので、もう何も言わず、気が済むまでここに居させようと決定した。今回はお尻に落ち葉も敷いていないし。


「よぉし、終わり」


 むしった草を焼却炉に突っ込んだ頃には、すっかり夕方が迫ってきていた。まだ日は地平線に届いていないけれど、これだけ傾いたら時間の問題だ。道具を片付けて手を洗い、さっさと退勤してしまいたい。

 ジャックは結局丸くなったままずっとここにいた。

 いつの間にか泣き止んで、ちょっと腫れぼったい目でレイラの作業を見ることはあったけれど、拉げた声は帰ってきたときの一声以外聞いていない。


「ジャックさん。私帰りますけど、どうします?」


 この「どうします?」は「道案内は要りますか」の意味だ。レイラはジャックを迷子だと思っているので、退勤ついでに正面門か、分かりやすい大通りまでは送って行こうと考えていた。

 もう帰ることしか考えていないレイラに、ジャックはシーツの中から昼間より少しだけ軽くなったお金の袋を突き出す。


「なんです?証明書どおり渡したでしょ?」

「宿代。お前の家泊めろ」

「はえ」


 間抜けな声にふすんと鼻を鳴らしたジャックは立ち上がる。背中はぐっと丸まっているけれど、被ったシーツのせいか威圧感が強い。


「こんな化け物を泊める宿があるもんか。お前が泊めろ」

「えぇ……」


 肯定ではなくドン引きの「ええ」である。


 厚かましい申し出に、レイラはすごく悩んだ。

 確かにジャックの言うとおり、裏庭にしゃがんで汚れたシーツお化けを泊める宿はないだろう。もしシーツを脱いだとしても、ちょっとだけ見えた顔も腕も酷いありさまだったことを考えると――。格安宿なら希望はあるが、相応に治安も悪い。最悪身包み引っぺがされた挙句、国外に売られる可能性だって否定しきれない。


「……分かりました。裏門で待っていてください」


 いろいろなものを天秤に乗せて量って、最終的に受け入れることにした。

 左右非対称な瞼の奥で、キラキラと蜂蜜のように光る瞳が綺麗だったから。捨てられた子犬みたいで可哀想だったから。心の中で誰にでもなく言い訳を重ねながら頬を掻いて、指先の泥が頬にべっとり付いたのですぐ後悔した。




 *3*

 嫌な予感はしたんだよなぁ。

 後悔先に立たずという奴で、レイラは一泊してそのまま居着いたジャックを追い出せずにいた。


 汚れたまま玄関は跨がせないぞ、と半ば無理やり奪い取ったシーツの下が、想像以上に悲惨だったから、その同情も大いにあると自覚はしている。

 顔にあった痣と鱗はまばらに全身に広がっていて、手足が流木を想起させたのは骨ごと歪んでいるからだった。背骨の変形が特に酷く、老人のように背中を丸めるしかない。それも左右にまで湾曲しているので、重心が変に左に寄っていた。


 絶句して何も言えなくなったレイラに、拉げたコントラバスは嘲笑する。


「ここまで変わると身分証明もできないとさ。僕は一夜にして無一文の化け物ということだ」


 全身を変えて解呪できない程強力な呪いは、悪魔くらいしか扱えない。誰かに恨みをかって呪われたか、悪魔使いの無差別な犯行かは定かでない。本人の性格からすると、どっちもあり得てしまうなと短い付き合いのレイラも思っていた。

 だって勝手に居着いたくせに、ジャックは結構わがままだ。


「なんでまともな生活機具が無いんだ!」

「私魔法使えないし。だからジャックさんにお掃除頼んだんじゃん」

「ただの怠惰でなく、全く使えないのか⁉」

「そう。口無しだよ、私」


 この時のジャックは、ジャックの姿を見たレイラ以上に絶句していた。

 先天性魔力発露障害――レイラの持病の名前だ。魔力はあるのに体外への出力ができないので、魔法も魔法機器も使えない。このシリル王国じゃ底辺扱いの体質なのだ。

 吐き出し口がないから発言権もない。そういう皮肉を込めて「口無し」なんて、センスのない蔑称だと思う。

 洗濯機器も保冷庫も、便利なものは全部魔力で動く。レイラは使えないから、前時代的な生活様式を余儀なくされている。当然、ジャックも滞在するならそれに倣うしかない。魔法機器を揃えるお金はないのだから。


「チッ、頼る先を間違えた」

「だろうねぇ」


 それでも結局、ジャックはレイラの家に居座り続けている。


「はあ……はあ……なんで、僕がこんなこと」

「ほらー、張り切りすぎるとすぐバテるって言ったじゃん」


 居着くなら最低限家事はやれと、手初めにジャックが羽織っていたシーツを押し付けた。洗濯機器はないので桶で手洗いだ。歪んだ体では力の籠め方が変わるらしく、早々に疲れ果てていた。

 洗い上がりは荒くて、生地の手触りが悪いとのこと。


「僕は肉が食べたい。干してないやつ」

「ええ……高いんだけど。あと保存がなぁ」

「今夜食べる分だけ買えばいいだろ!金なら僕の宿代を使えよ!」


 連れ出せば荷物持ちをしてくれるけれど、いつもフード付きのオーバーサイズな服を着て、日の射さない裏路地で待機している。あと、若い成人男性らしくよく食べる。

 意外と薄味でさっぱりしたものが好みで、辛みや酸味など極端に刺激のある味は苦手とのこと。


「さっきから聞いていれば、なんだその中途半端な歌は!なんで半音ずれる、なんで一拍早い!ああもう、聞いていてぞわぞわする!」

「そんなに……?」


 一番酷いのが歌について。レイラが手慰みで口ずさむ歌にすら難癖付けて、ここはこうしろ、ああしろと文句ばかり。


「何故聖歌隊の歌を日々聴いていてそう酷い歌が歌えるんだ!ビブラートの伸びはジル、音階の正確さはレベッカ女史、リズム感覚はイーサン!手本が溢れかえっているだろうが!」

「暇つぶしで歌っただけじゃん……本気でやってないし……」


 言うだけ言って、お手本はどうにも歌ってくれなかった。




 *4*

 今日もレイラはいつも通り協会の掃除。掃除婦長から、嫌がらせで廊下のでっかい窓の拭き掃除を頼まれた。魔法を使える人を配置した方が早く終わるというのに。

 でもここは聖歌隊の練習部屋に近いので、レイラはお気に入りの掃除場所である。


「――」


 聖歌隊から漏れる合唱を聴きながら鼻歌を歌う。職場にジャックはいないので、お小言を気にせず伸び伸び歌えた。

 伸びといえば、レイラのお気に入りは聖歌隊で一番の実力を持つテノール歌手・サイラスの十八番、無償の愛(アガペー)を謳った一曲だ。今日も練習部屋からその曲が聴こえてくるけれど、合唱の中にサイラスの声は無かった。まあ、実力に胡坐をかいたサボり魔で有名だからよくあることだ。


「はあぁ、これがお手本になるビブラートかぁ」


 テノール歌手二番手のジルが、先導するように一番よく通る声で最後のビブラートを歌い上げる。

 サイラスは広々として清廉な天使の声なのだけれど、こちらは芯の通った厳格な聖騎士の声といったところ。

 その評価を、帰ってジャックに伝えてみた。


「……合唱から声を聴き分けられるのか?」

「何となく、特徴のある人はね。ジルさんは分かりやすかったよ」


 薄味のスープに固いパンを浸して混ぜるジャックは、口の中で言葉をかみ砕いてからこう言った。


「……僕に言わせれば、サイラスは中身のない教科書通りの歌声だ。だから結果的に透き通った天使の声なんて評価になるけど。ジルは、明確な目標と決意のある声だ。だから騎士のイメージがでたんだろう」

「成程ねぇ」


 漠然と抱いた感想が言語化されてスッキリした。お礼にデザートのオレンジを、ジャックに一切れ多く盛ってやる。


「私はサイラスの歌が一番好きだよ。何物にも染まらない透明な声。ジャックの声も好き。そりゃ声質は酷いけど、発声方法って言えばいいのかな。すごく深い森とか、晴れの日に干したシーツの海かな。広いのに頭からすっぽり覆われる……みたいな?」

「……分かりにくいし、物好きな奴」


 それからジャックは、レイラにちょっとだけお手本を聴かせてくれるようになった。歌を歌うことはないけれど、音階や音の切り替えを示すための短い歌声を。


 一緒に家事をこなしながら発声方法や腹式呼吸を習っている時間は、憎まれ口も多いけれど案外気に入っている。

 だからレイラは、ジャックがいつか呪いを解くまでサポートするつもりだ。たとえ自分に、悪い噂が立つと分かっていても。ジャックも、外聞を分かったうえで家に居着いているのだと思っていたのだ。


 ある日噂を聞いて怒鳴り込んできた兄に張り倒された。ジャックの辛うじて見える肌色の部分がさっと青ざめたのを目の当たりにして、認識に齟齬があったらしいと初めて気が付いた。


「一体何のつもりだ、我が家に泥を塗る気か⁉」


 紳士らしいかっちりとした服を着て、レイラの兄は手袋に包まれた両手をぎゅうぎゅう握りしめている。怒りと籠った力で震える様子を見て、飛んできたのが平手で良かったなぁなどと思っていた。


「お前、貴族だったのか……?」

「そうじゃなきゃ、口無しが成人まで生きてるわけないじゃん……そういうものなんだよ」


 倒れ込んだレイラに駆け寄ったジャックが愕然としている。レイラは裾をちょっと持ち上げて、アンクレットを見せた。

 魔力発露障害は魔力を外に出せない病気なので、体内で魔力の生成はできている。過剰に溜まった魔力は体に害を及ぼすから発散が必要だ。このアンクレットは、魔力の排出を助けてくれる道具である。貴族でないと手が出せないとても高価なものだ。


「お兄様の婚約者が口無し嫌いでね、家を出ることになったの。その時家名を捨てたから、今の私はただのレイラだよ」

「……家名を捨てたとはいえ、持っている色と血が変わるわけではない」


 レイラの金糸の髪と赤褐色の瞳は、見紛うことない立派な直系の色なのだ。兄ともお揃いだ。


「分るか、レイラ。お前が醜い男に入れ込んで、家に住まわせているなどと聞いた私の気持ちが。血を分けた妹が悪魔に取り憑かれたのかと、私がどれだけ!」

「見てのとおり、ジャックは悪魔じゃありません。入れ込む云々はまあ、情はありますから、私が言いふらしたことです」


 ジャックは目を白黒させながら言い合いを見るしかなかった。

 まさか化け物同然の自分と、レイラの間にそんな噂が立っているなんて思いもしていなかったのだ。


「な、なんでそんなことを」


 狼狽えるジャックに、レイラはいつも通り屈託のない笑顔を向ける。

 呪いを受けた日から知り合いにも友人にも正体を信じてもらえず、診断役の司祭からすら侮蔑の目線しか向けられなかったというのに。


「たとえ口無しと呪われた男の人でも、長い間年の近い異性が一つ屋根の下に暮らすには理由が必要でしょ。ジャックの呪いが解けたら、ご破綻になったていで一人暮らしに戻れば万事解決。私だって貴族だからね。ノブレス・オブリージュというやつです」

「ああレイラ。お前の、お前のどこが“持てる者”だと……」


 もう頭が真っ白だ。どこかで強い呪いを受けるほど嫌われたかもしれない男に、何故そこまで尽くすのだろう。ジャックは本名だって身分だって言っていない。見返りは初日に渡した、片手で持てる袋一つ分の宿代だけだぞ。

 きっと、傍で頭を抱えるこの兄だという貴族も同じ気持ちなのだろう。


 この国で底辺の扱いしかされないレイラを、与える義務のある高貴な人間であるなどとは誰も思っていない。だからこそ育まれた真心なのかもしれないけれど。

 ジャックは見事な無償の献身が怖かった。それと同時に、言いようのない温もりと心地よさが満ちて仕方がない危険なものだとも思う。もうこのまま呪いが解けなくてもいいやと浮かんでしまうくらい、手を伸ばして掻き抱きたくなる温かさがあった。




 *5*

 泣き出したジャックをレイラが優しく抱きしめて、歪んだ背中を戸惑うことなく撫でる光景を見たからだろうか。レイラの兄は説得を諦めて、代わりに魔法機器を数台手紙と共に送ってきた。


 ――家賃に代わり、魔力提供を担うこと。


 要は、レイラの使用人として扱うということだった。

 倒錯した嗜好を持つ口無しに囲われる化け物というよりは、貴族を追い出された元お嬢様のサポートをする化け物の方がましだということだ。兄から僅かながら給金も発生し、生活費ということでレイラの手に渡っている。


「これでお肉の頻度増やせるね!」


 屈託なく笑うレイラはまだ少し片側の頬が腫れている。ジャックはどんな顔をするべきだったのだろう。

 ジャックは自分でも驚くほど使用人扱いになることへ苛立つこともなく受け入れた。代わりに、恋人ではなく使用人であるという扱いに対して、少々残念な心地になるのだった。


 生活が二人仕様に整って暫くすると、シリル王国では悪魔の「魔引き」の時期がやってくる。

 文字通り、どこからともなく飛来する悪魔たちを、聖歌隊が矢面に立って駆逐する。大体五日から一週間、落ち着くまで絶えず聖歌を歌い悪魔を退けなければならない。

 レイラの職場は聖歌隊が所属するメイヴィス協会なので、歌い手のフォローのため駆り出されることになった。喉に良い飲料や軽食、薬を山ほど準備して、交代で歌い続ける聖歌隊のサポートをする訳だ。


「レイラ、君は掃除婦だろ。なんで危険なことしなきゃならないんだ」

「危険だからだよ。掃除婦はワケアリが多いから」


 聖歌隊が居るところを悪魔は真っ先に狙うので、最前線といっても過言ではない。


「無事に帰ったら、また歌を教えてね」

「おい、そんな縁起でもないっ」


 レイラはいつも通り、何も持たずに協会へと出勤していった。有事の際に使える少量の金銭も持たず、本当に着の身着のまま。

 見送ったジャックは初めて本気で天に祈ったけれど、当然何も返事は帰ってこなかった。


 今回の間引きは、テノール歌手・ジルが中央に立って歌を歌うことになったらしい。気難しそうな青年が、厳かな顔をして制服に身を包んでいる。レイラは屋上で歌う聖歌隊のため、えっちらおっちら色々な物資を運ぶのに忙しいのであまり見られなかったが。


 初日、悪魔襲来の第一波にジルが主役の聖歌が披露される。

 空に向かって高らかに響くテノールに合わせて、男女様々な歌声が綺麗に重なって街を覆う結界を作り上げた。

 弱い悪魔は結界に触れるだけで塵になり、そこそこの悪魔だって無事では済まない。


「……あれ?」


 ただ、いつもと違い長い一曲を歌い上げても悪魔の群れをうまく減らすことができないようだった。前回と同じなら、主席歌手が一曲終えた辺りで殆どの悪魔が散って、残党駆除に移行するのに。


「今回は悪魔の数が多いみたいね」

「嫌だわ、サイラス様もいらっしゃらないのに」


 なるほど、前回主席歌手だったサイラスがいないんだ。


 悪魔の羽音が喧しい屋上へ駆り出されながら、レイラは間髪入れず二曲目を歌い出したジルを見た。

 やっぱり、芯の通った良い歌声だ。ビブラートも美しく、震えに合わせて結界が衝撃を放ち悪魔を退ける。でも聖歌というより軍歌のようで、沁みるような清涼感はサイラスの方が上だろうなと思うのだ。


 二日目、三日目と、レイラはやはり最前線の屋上で物資の補給に従事した。すぐ頭上を飛んでいく悪魔に怯えながら、それでも圧巻の声量で紡がれる聖歌に勇気を貰いながら。

 ジャックの方はというと、ずっとレイラの家から空を眺めていた。黒い悪魔の影が襲来し、街の中央に建つ協会へ迫っていくのをずっと見ている。


「どうしたんだ、ジル。お前の歌はこんなもんじゃないだろ……!」


 拡声の魔法で聖歌は街中に聞こえる。同僚の歌は確かに力強く響いているけれど、悪魔を退けるために必要な聖なる力が乗っていないのだ。主席の声が不十分なので、合唱の効果が減っている。

 初日に二曲で退けた悪魔の群れは、三日目の今日、ジルが夕暮れまで歌い続けてようやく退いた。明らかに実力が不足している。いや、失ってしまっている。


「本気を出してくれ、何やってるんだよ……もしレイラが怪我でもしたらっ」


 苛立って喉から出る声は、我ながら醜くて鼓膜が腐りそうだった。

 ジャックなら十分に聖なる力を乗せた歌が歌える。その自信も、実力も、実績もあった。足りないのは決心だけだ。

 聖歌は街全体に響いて届くから。必然的に、獣のようなこの声を響かせないといけない。悪魔の歌だと石を投げられるかもしれない。シーツを被って十分に歌うことなんてできないから、醜い姿も晒さないといけないだろう。


「私はサイラスの歌が一番好きだよ。ジャックの声も好き」


 真夜中になって、ジャックはレイラの家を飛び出した。シーツは被っていなかった。




 *6*

 夜明けまでは、ジルも休んで聖歌隊の二軍と指導役がメインで歌を続けている。

 女性聖歌隊のメリッサ、バリトンのイーサンが主力で歌う中、経験不足の声が必死に歌を紡いでいた。悪魔の勢いは衰えてくれない。ジルや一群の実力者が休息を終えて戻るまで、ただ耐える事しかできないのだ。


 昼間の悪魔の勢いが一番強いときに働くレイラもつかの間の微睡みにいたのだが、ふと胸の内が騒いだ気がして目が覚めた。

 レイラが眠っていたのは大広間だが、追いやられて扉に近い隅っこに居たので周囲を起こさず抜け出すことができた。

 虫の知らせというやつだろうか。何やら騒がしい胸中に急かされて、足は自然と裏庭へと向いていた。


「……ジャック」


 夜更けの裏庭で、いつかのように小さく丸まっていた男性。シーツもなく、大きめのシャツ一枚羽織った背中は歪に曲がっている。


「僕ならできる。けど、歌うのが怖いんだ」


 拉げたコントラバスはいくら調律しても戻らなかったが、辺りに広がるような発声の仕方はとても好み。


「でも、僕なら歌えるんだ」


 流木のような両手を握った。ざらついた痣と硬質の鱗が目立つけれど、レイラの肌を傷つけるほどではない。


「歌ってくれるの?」

「……聴いてくれる?」


 蕩けた蜂蜜の瞳は、醜く変わった彼の中で唯一美しさを保っている。きっと、呪いをかけた相手は彼の目を直視したことが無いのだ。


「聴かせてよ。私はあれが好きだな。貴方の歌う無償の愛(アガペー)!」

「うん、うん……。歌うよ。僕もあれが一番好きだ」


 なんて酷い声だろう。

 例えるなら理性なんてこれっぽちもない獣の呻き声か、調律がぐちゃぐちゃのコントラバス。

 空が白みかけた裏庭から、拡声の魔法で醜い声が街中に響いた。聖歌隊の必死の歌をかき消していく。誰もが悪魔が歌い出したのだと飛び起きた。


 酷い声に乗っているのが似つかわしくない澄んだ力なのだと、気付いたのはジルと一部の聖歌隊員だけ。

 街中に響かせ、悪魔に聴かせるのは彼の歌声のみ。導く様な歌声に合わせられる拙いレイラの歌は、手を握った彼だけが独り占めしているらしい。


「――」


 無償の愛など、生涯自分には到底ばらまけないとジャックは確信している。未だに偏見は解けないし、第一印象で選り好みだってするだろう。どうせ愛を注ぐなら、相応の見返りも欲しい。僕は神聖さとは無縁の男。

 それをきっと、醜いこの手を取ってくれた彼女は許してくれるから。僕から愛を注ぐのではなく、彼女が注いでくれた愛に報いよう。


「……サイラス、なのか?」


 屋上から転がるように降りてきたジルは、吠えるように歌う獣の姿に絶句した。一番を蹴落として繰り上がった自分が一番美しい楽器になったはずなのに、醜いアイツは醜い人のまま見事な歌を歌っていた。


 咆哮はたまに外れるレイラの歌声に擽られながら調律されて、徐々にかつての音色を取り戻していく。

 高らかに響く聖歌隊一番の名に恥じぬ伸びやかなテノール。レイラの顔を見るのが精いっぱいだった背がぐんと伸びて胸を張り、剥がれた鱗は星の粒になって夜の果てに飛んでいった。手触りの良さそうな髪は朝日をうけてキラキラと靡いている。


 息を飲むロングトーンが消えると、悪魔が綺麗さっぱりいなくなった朝焼けの下に醜い化け物はいなかった。歌声に相応しい眩しさと神聖さが交じり合った、真に美しい青年がレイラの両手をしっかりと握っている。

 やっぱり、綺麗な瞳をしている。今度は両眼がパッチリ開いているからよく見えた。


「……どうだった?」

「最高。アンコール頼んじゃおうかな」

「あはは……うん。まかせて」




 *〆*

 メイヴィス協会聖歌隊、テノール歌手一番手として復活を遂げたサイラスは、すっかりサボり癖を治して後輩の指導に明け暮れている。

 これは二度と呪われないように反省してというよりも、自分が一人いなくなっただけで壊滅状態になった聖歌隊に呆れたのが大半の理由だ。


「歌い出しが雑。安定感もない。猫の喧嘩の方がまだ聴ける」


 確かな実力はあるし指摘も的確なのだけれど、生憎と言い方が刺々し過ぎるので人気はないし不満が多い。その辺りは物腰柔らかなイーサンにサポートされながら、一日でも早く使い物になる後輩を育てようと邁進中だ。


「なんでそんなに急ぐんだ?」

「決まってるだろ。聖歌隊を止めるためだよ」

「……え、やめる⁉なんで」

「聖歌隊は結婚できないだろ」


 昼休憩を告げる鐘が鳴る。顎が外れそうなイーサンを置いて、サイラスはさっさと練習部屋を後にした。以前より真面目になったとはいえ、好き好んで時間外労働をする気にはならない。


 ジルはよくやってたもんだな。


 皮肉のような感想だけれど、サイラスは本心からそう思っていたりする。彼はサイラスとは違い、真面目が服を着て歩いているような男だった。だから悪魔の甘言に逆らえない綻びがあったのだろう。もう少し柔軟な方が壊れにくいだろうに。


 ジャックからサイラスに戻ったあの日から行方をくらませているジルを、協会の面々は懸命に探している。

 サイラスはなんとなく「もう戻ってこないだろうな」と確信めいた予感を抱いているので、気が済むまで探せばいいと放置している。一度悪魔の誘いに乗った人間が聖歌を聴いたらどうなるのかは知らない。もしサイラスの本気の聖歌が身を焼きつくしていないなら、どこかで生きてはいるのだろうから。


 そんなことより、今一番大事なのはさっさと聖歌隊を辞めて籍を入れることだ。

 神聖を重んじる協会は一部を除いて結婚どころか異性とのアレソレすら許されない。今頃裏庭でまた押し付けられた草むしりに手を泥んこにしているだろうレイラ。あのお人好しの権化みたいな存在を捕まえておくために結婚は必至だ。


 とはいえ、手始めにやることといえば――。


「サイラス、お疲れ様!サンドウィッチあるよ!」

「お待たせレイラ。なあ、もし都合が付けば……」


 未だなあなあになっている関係に、どうにか恋人という名札を付けるところから。

お読みいただきありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ