3日前-②
人混みを掻き分けて行く。押し退けて行く。
薄れた記憶を探りながら、公園へと歩いていく。
確か……。自販機の角を左に曲がって、郵便ポストの角を右に曲がって。赤い三輪車が置いてある家の角を……。
ない。そんな家はなかった。
当たり前だ。何年前の事だと思ってるんだ。
子どもは成長して、きっと三輪車に乗らなくなったのだろう。いや、もしかしたらもうあの時とは違う人が住んでいるのかもしれない。
世界は変わっていく。当たり前だ。
変わっていないのは俺だけ。俺だけが、取り残されたままなんだ。……当たり前だ。
……じゃあ、どこの角で曲がればいいんだろう。
幼い頃の記憶だ。そもそもあやふやだった。
記憶が正しいかさえも分からない。
いつの間にか、辺りに人はいなかった。
かなり遠くまで来ていたみたいだった。
ふと、足元を見た。
ぼろぼろのスニーカー、俺自身のかげ、そしてマンホール。
マンホール?
そうだ、俺はマンホールの絵柄を見るのが好きだった。描いてある絵を見て、それが何か当てる遊びが好きだった。何度もやったから覚えてる。そう、公園からの帰り道。一人ぼっちの帰り道は、寂しかったから。
このマンホールに描いてあるのは……カラスだ。
カラスのマンホール。
その次は確か、睡蓮のマンホール。
あった。次は……人参。
次で最後のはずだ。確か……フクロウ。
見つけた。フクロウのマンホール。
見上げると、公園があった。俺の小さな世界の一部。公園だ。しかしそこは、俺の知っているあの公園ではなかった。
草が生い茂り、遊具は錆び、ゴミにまみれた、何かの廃墟のようだった。
俺の居場所だったはずのベンチには、やつれたおっさんが酒を片手に座っていた。
そいつは俺の方をチラッと見てから、チッ、っと分かりやすく舌打ちをした。
感じ悪いなぁ、なんだよ。
自身にも刺さる悪態を付きながら、俺は仕方なくブランコに座った。
キィ、と小さく啼いた。
ブランコはもう、錆びてしまって上手く動かなかった。俺はこのスニーカーがまだ綺麗だった頃のことを思い出していた。
「ろーちゃん、もう帰ろう?」
「うーん……。あともうちょっとだけ!」
「もう何回も聞いたよ、それ。」
「そんなことない!」
『ろーちゃん』。懐かしい響きだった。
今さら俺の名前を呼んでくれる人なんていないから、ましてやあだ名で呼んでくれる相手なんていないから。
なんだか切ない気持ちになった。
……誰だっけ、あれ。
公園の出入口に立って、俺のことを見ている、俺を呼んでいる、あの人は誰だ。
思い出せない。あと少しで思い出せそうな気がするのに。誰だっけ。
1人だけ、たった1人だけは、俺のことを『ろーちゃん』と呼んだ。俺の名前がロークだから、ろーちゃん。単純なあだ名だと思った。嬉しかった。
あの人は、誰だっけ。
「おい。」
突然、現実に引き戻される。
ピントの合わない視界に俺は焦る。
「なんだよ。」
公園の出入口。そこに立っていたのは、さっきベンチに座っていたおっさんだった。
「……なんですか?」
「こっちのセリフだよ。さっきから睨み付けやがって。感じ悪ぃな。」
「……すみません。」
「あぁ? なんでお前、こんなところで1人で座ってんだよ。若い奴はみんなどっか出掛けてんじゃねぇのか?」
おっさんは俺に近付いてきた。
「いや……。」
「あんだよ? くっせぇ奴だな。」
「臭い?」
「あぁくせぇよ。プンプンだよ。」
酒の香りを纏ったそいつは、俺の顔を覗き込んだ。
「あんなぁ、兄ちゃん。世界は不平等だ。良いことなんてありゃしねぇ。」
「は、はぁ。」
「俺はもう疲れちまった。お前もか? なぁ。滅びる前に欲しいものなんてあるわけねぇんだよ。結局ぜーんぶ失くなっちまうんだからよ。」
なんだよこいつ。何が言いたい?
「もう全部お仕舞いなんだ。……だから、何したっていいよなぁ!?」
鈍い感覚がした。俺は地面に倒れ込んだ。
こいつ、酔っ払ってる。最悪だ。
鉄の味がした。生臭い匂いがした。久しぶりの感覚に、俺は思わず顔を歪めた。
もう1発くる。咄嗟に目を瞑る。
……何もこない。
恐る恐る目を開けると、おっさんは公園の外を歩く女子高生たちを見ていた。
俺には意味が分からなかった。
「……娘も、きっとあんな感じなんだ。きっと。」
「きっと?」
「あぁそうだよ。しばらく会ってない。離婚しちまったんだ。娘には申し訳ないことをした。」
こいつ、家族がいたんだ。
酒癖が悪すぎる。言葉遣いも汚い。離婚の理由が分かってしまうような気もしたが、あまり考えたくはなかった。
「……。」
「元気だと思うか? 俺の娘は。」
「……知らない。」
「そうか……。そうだよなぁ……。」
そう言っておっさんは、俺からそっと離れた。
「覚めちまった。悪かったな。」
は? なんだよそれ。
「お前のせいで怪我してんだよ。ふざけんじゃねぇ。」
少し黙った後、おっさんは俺の手に何かを握らせた。
「……これやるよ。売って金にしろ。」
「金なんていらねぇ。どうせ失くなる。おっさんがさっきそう言ったんだろ。」
「あぁ、そうだな。」
手を開くとそこには、キラリと光るネックレスがあった。
「離婚する前に妻にあげようと思って買ったんだよ。まあ、渡す前に離婚しちまったがな。俺が持っててももうしょうがない。もう二度と、家族には会えやしない。」
「……。」
黙ってそれを見つめていると、おっさんは公園の出口に向かいながらこう言った。
「チャンスは逃すなよ。何事もな。」
変なおっさんだな。
俺はおっさんの背中が見えなくなるまで、静かに見つめていた。
ネックレスを見つめる。綺麗だった。
パーツの裏側に、女性の名前が書いてあった。奥さんの名前だろうか。
俺はそのネックレスをポケットにしまうと、ため息をついた。
これから、どうしよう。
公園の出口に立って、振り返る。
もう二度と、この景色を見ることはない。
ここに帰ってくることはない。
次は、どこへ行こうか。
財布の中を探る。あまり入っていない。
しかし、他人から貰った名前入りのネックレスをそのまま売るのは……、少し気が引けた。
財布の中をさらに探る。
不運なことに、学生証を見つけた。
鋭い目付きにへの字になった口元。感じ悪い。
パラパラとめくると、1枚の付箋が落ちてきた。
『美術準備室 17:30』
なんだこれ?
確実に、俺の書いた字ではなかった。
次の行く宛を探していた俺にはちょうど良かった。
高校へ向かおう。
良い思い出なんて、あるわけないけれど。
俺はやっと、足の先を駅の方向へ向けた。
フクロウ、人参、睡蓮、カラス……。
カラスのマンホールが外れていた。
さっきまではきちんと収まっていたはずなのに。
さっきのおっさんがまだ酔ったままなのか。
それとも別の誰かか。
俺にそれを知る術はない。とにかく俺は、あの場所へ向かうしかないのだ。
あの日々の傷を、強く抱くように。
この虚弱な背中を、そっと刺すように。
俺はまたゆっくりと歩き始めた。