終わらない地獄なんてない
「……雪、今年も降り始めたんだ」
ふと窓から外を見たとき、穏やかな雪が重力に身を委ねながら降っている光景が目に入った。
何度目だろうか。この窓から雪を眺めるのは。
そんなことを考えながら、ノートの上で走らせていた筆を止めた。
「こんにちは~。柊木さん、今日の調子はどうですか?」
「こんにちは。そうですね……」
スライド式の扉を開け、ナース服に身を包んだ人が入ってきた。いつもと同じ人。いつもと同じ時間、いつもと同じ質問。そして――
「少し、体が動きにくいです」
いつもと違う、私の返答。
・・・
この場所に入った理由は、本当に些細なきっかけだった。
小学三年生の時の、両親の離婚。今思えば、父親だった人がすべて悪かったけど、まだ幼かった私は、何もわからず父親側に引き取られた。理由は単純で、あいつが姑息だっただけ。母が専業主婦だったことをいいことに、私を育てられるのは自分だと主張を曲げなかった。
そのあとの日々は、本当の地獄だった。小学校から帰れば父親のストレスのはけ口として扱われ、一切抵抗できない私は、ただただ終わるのを待つことしかできなかった。
日に日にボロボロになっていく体を隠すために、私は学校を休むことが増えていった。もちろん、学校では孤立。暴力や、陰口を岩れるよりも、まるで「私という存在がいない」というように扱われることが一番つらかった。
もちろん、最初のころは先生も助けようとしてくれていた。でも、父親のことを聞いた瞬間、かかわらないようにしようという動きをする人ばかりだった。
まだ私にとって救いだったのは、父親がまだ仕事をしてくれていたこと。このころは、暴言や血が出たり、骨折したりしない程度の暴力がほとんどで、耐えられないほどではなかった。
しかし、私が中学生になった瞬間、父親はもう、「父親」ではなくなっていた。
今でも忘れない。中学の入学式が終わって帰った直後、私は父に犯された。何度も嫌がった。今までにないほどに抵抗した。それでも……あの時の絶望感と、自分のすべてがけがされていく感覚。自分の中を異物が出たり入ったりし、そして、何度も何度も、熱い何かが体の中に出され続ける、そんな感覚。
その日から、父は仕事に行かなくなり、私も学校に行けなくなった。単刀直入に言うと、父が裏ルートで私の体を売り、私が性的な接待をしてお金をもらう。そのお金が、父の生活資金となっていた。父は毎日のように外食をし、毎日のようにギャンブルに明け暮れていた。私が使えたお金は、一日わずか500円。たまに優しい人がご飯を奢ってくれたけど、こんな生活をしているせいか、ほとんど食べることができなかった。
朝から夕方、日によっては夜まで父が用意した客と行為をしそれが終わったら父と無理やりやらされる。そんな日々が長く続くわけもなく、私の体が本格的に壊れ始めた。
まず、睡眠ができなくなった。寝ようと思っても、恐怖と謎の高揚感に襲われて眠れなくなり、次第に眠らなくても問題なく活動できるようになった。その次に、食事ができなくなった。何も喉を通らなくなり、何かを食べてもすぐに吐き出してしまうようになった。幸い、水分は摂取することができたから、栄養に関してはスポーツドリンクやミネラルウォーターから本当に少量ずつ摂っていた。
そんな日々ばかりを過ごしていた私は、気が付いた時には完全に手遅れになっていた。父は、私のことなんて金稼ぎの道具としか思っていなかっただろうから、私が限界を超えていたことなんて気づいていなかった。
そして、私はいつも通り父が用意した客を接待していた時、何かの線がプツリと切れた。そのあとのことは何も覚えていない。
記憶がもう一度始まったのは、この場所からだった。
・・・
この場所にきて、今日で二年が経つ。今では少しだけなら食事ができるようになったし、記憶が戻ってすぐの頃にあった衝動的に快感を求める行動もなくなった。後者に関しては、薬で抑えてもらっているだけだけど。
「そうですか……具体的に教えてもらえますか?」
「えっと、下半身の感覚が、もうほとんどないんです。動かせてるのかわからないといいますか、動かしている感覚がないといいますか」
「わかりました。上半身はどうですか?」
「少し指先がしびれているだけです。いつもと変わりません」
「ありがとうございます。先生を呼んできますね」
そして、今に話は戻る。少し慌てた様子で部屋から出ていく看護師の人から視線を外し、もう一度窓の方を見る。
相も変わらず、雪はゆっくりと地面に向かって落ちている。
「……私の人生みたいだね、雪って」
誰もいなくなった部屋の中で、小さくつぶやく。
手元のノートは、いまだに白紙のままで放置されている。
「流されるがままに流されて、落とされるがままに落とされて……気づいた時には溶けてなくなっちゃう」
いつだったか、心優しい人が教えてくれた。「精神が肉体を超えているとき、どれだけ肉体が限界だったとしても、止まることはない。でも――」
「精神と肉体がまた同じ位置に立った時、それまでの清算が行われる……はぁ」
窓の外を眺めたまま、ノートに殴り書くかのように一心不乱に筆を動かした。何を書くとかは考えていない。今の私に、きれいに自分を取り繕う時間なんて必要ない。
私は十分頑張ったんだ。もうこれ以上はいいじゃないか。
「多分、もう少しで追いついちゃう。だから、その前に……」
部屋の外から、何人かの足音が聞こえてくる。おそらく、その人たちが入ってきたタイミングが、私の精神と肉体が同じ位置に立つ瞬間だろう。
ガラガラという音とともに、私の心臓がひときわ大きく脈動した。視界が回る。止めようのない席込みとともに、錆びた鉄のような味が口の中に広がる。全身が痙攣し始める。座っていることができなくなって、前のめりにうずくまる。懐かしい嫌な感覚、あの日々の中で私を支配し続けていた感覚が全身を駆け巡ち続ける。
この時既に、意識の線は、本当に細い一本を残してすべて切れてしまっていた。
その細い一本が残り続けている理由は、きっと呪いだ。父親に刻み付けられた、自分が道具だという呪い。その呪いだけが、私を現世の苦しみの中に引き留め続けていた。
だから私は、右手に持っていた筆を強く自分の体に押し込んだ。
成功する確証なんてなかった。
しかしその瞬間、呪いの線はいとも簡単に切れ、私の意識は肉体を襲い続けている地獄のような苦しみから離脱し始めた。
終わらない人生なんてない。それと同じように、終わらない地獄もないんだ。
・・・
20〷年、「殺人者の厚生・治療施設」の中で、柊木 雪乃の葬式が形式的に行われていた。
柊木は、様々な裏社会団体の重役を10人ほど謎の死因によって殺しており、警察にマークされていた。しかし、いざ捕まえることに成功してみると、柊木は被害者で、その父親が無期懲役の判決を受けていた。
その少女は、自分の筆で心臓を貫く形で死んだ。その筆は、直前まで文章に書くために使っていたものだった。
そして、少女が残した文章、そのほとんどは解読不能だったが、最後にたった一言――
「次はちゃんとした人生を歩みたい」