9. 本当のこと
そこは、とてもとても見覚えがある場所だった。雫の母親が勤める病院、何度か来たことがある。橘が案内したい場所はここだった。
時間外の入り口から入ると、5階の南病棟に向かう。
「お母さんに会いますか?」
「会えるかも知れないですね」
今日は夜のシフトだっただろうか?
下手すると家に帰っているかも知れない。
母の居場所が気になった。
面会時間は終わっているのに、橘は看護師に挨拶をしながらスムーズに入っていく。
その対応から、顔見知りのようになっていることを感じさせた。雫がパタパタと後ろに続くと、今の自分の姿が、本当によくわかった。
誰も自分には目もくれない。
全く気づかない。
自分はここには存在していないのだと納得がいった。
個室の病室の前で立ち止まると、名前のプレートには【遠野 雫】と書かれている。
自分がここに入院していることを初めて知った。
スーッ
静かに戸を開けると、そこには母がいた。
「橘先生、こんな遅くにどうしたんです?」
ベット周りのカーテンを開け、雫の母が顔を出した。
「なかなか来れなくて、こんな時間ですいません。先方の保険会社と話がついたご報告と、雫さんの様子を見に来てしまいました」
「ご丁寧にありがとうございます」
深々と頭をさげた。
「遠野さん、昼に働き、夜は看病……持ちませんよ。今日は私が見てますから、帰ってください」
弁護士先生に、いえいえ!と頭を振る。
自分がここにいたいのだと。
「お母さん!私の看病してたの!?仕事じゃなかったの!?」
雫は母の隣で声をかけるが……
その声が母に届くことはない。
そうか、いつもこんなだったのか………。
見え方が変わるとこんなに違うものなんだ。
「とりあえず、1時間は仮眠して来てください!いいですね!」
橘の強い口調に、母は不承不承従うことにした。
後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にする。
母が出ていって安堵すると、途端に自分のことが気になるものだ、
「変な感じです。目の前で私が寝ています」
点滴をうけながら、雫は眠っている。
なぜこんなことになったのか?
それは気になることだ。
「私と遥、どうなったんですか?」
橘は、眠る雫の頬を優しく撫ぜる。
「君達はあの路地から繁華街へ逃げた。大きな道路を横切ろうとして、車にはねられた」
目の前に車のライト、その記憶は思い出せなくもない……。
「私……遥を車道から歩道へ突き飛ばしました……」
「そうだね、君が車にひかれ、頭を強打したんだ」
「遥は?遥は助かったの??」
「その時は意識があったんだが、腹部の刺傷が酷くて、搬送先の病院で亡くなったよ」
え……。
まさか、死んじゃうなんて……。
がっくりと膝をついた。
「でも……恐ろしい影のやつが、遥をどこにやった。よこせって、何度も何度も追ってきたよ……昨日だって……家の手前まで仲間を引き連れてやってきた……」
橘は驚く。
家の前まで!?
そこまで先に行きついていたとは……。
雫の存在を正確に掴むのは困難なはずなのに………。
「遥が生きているから探しるんじゃないの?」
「いや……亡くなった後の御霊を探してるんでしょう。そもそも、奴らは生きた人間に興味はない」
「どっかに……その魂っているんですか……」
雫の目をマジマジと見つめ、問いかける。
「多分、雫さんが、遥さんの心を守り、逃したのだと私は考えています」
「私がですか?」
「はい、多分」
「どこに?どうやって?」
橘は頭の中を整理する。わからないことが多すぎる。
「誰かの手を借りませんでしたか?」
「誰かですか?」
「はい、1人はわかっているんですが……もう1人はいるはずです」
雫は考え込む。自分が見ないようにしている人がいるのだろか?
「ちなみに、わかってる1人って誰ですか?」
橘は切なく微笑む。
ずっと聞きたかったことだ。
「雫さん、あなたの右手首にミサンガを結んだ人ですよ」
言われ、見てみると……白とグレイの糸で編まれたミサンガが存在していた。
夢の中の女の子、金髪の西洋から来た人……。
「オフィーリア=アスター……闇から……私を助けてくれた人ですね……」
「やっぱり………」
駿之介は大きく目を開け、涙を堪えた。
気を張らないと、感情に飲み込まれる。
「彼女は飲み込まれかけた、私を助けてくれました。今から思うと、私が体から抜け出したのを知っていたのかも知れません」
「そうだと思います。雫さんが体に戻らないのは、欠片を魔に取られたから」
「それなのに、まだ捕まってないのは、オフィーリアのおかげですか?」
「多分、あなたとオフィーリアは名を交換したのでしょう。魔よりも先に」
そんなことって……あるのだろうか。
なんとなく、腑に落ちないことがある。
「そんなことができるんですか?」
「詳しいことは、私にもわからない。しかし、今の段階ではそう考えている」
そういえば……彼女は日本人の彼氏に会いに来たと言っていた。
「もしかして……橘さんはオフィーリアの彼氏ですか?」
「はい」
「あの、オフィーリアさんは?」
その質問に反応し、グレー色の瞳は、一層の深みを増していく。
「2年くらい前から行方がわかりません」
え?
雫と彼女が出会ったのは、最近の話だ。
少なくとも、行方不明になった後に会ったことになる。