0002 ライバルから(1)
神奈川県横浜市に校舎を置く海帝山高校。私はそこの二年生で、バスケ部所属だ。
かなりやる気のある部活だから、放課後は毎日、土曜日も練習がある。休みは日曜日だけ。お遊びムードとはほど遠い中、日々部員達と切磋琢磨し合う気の抜けない環境だ。
バスケを始めたのは小学生の頃。そこからずっと続けており、それなりに上手い部類に入ると思う。
いや……それなりでは済まないか。
自重抜きにはっきり言おう。私はバスケがかなり上手だ。
小中の頃から名プレイヤーとして名を馳せていた私は、鳴り物入りで高校バスケの世界に飛び込んだ。入学直後に三年生の先輩からレギュラーをぶんどり、数ヶ月後の夏には『海帝山バスケのエース』が私を指す言葉となった。
そして今では、神奈川県下のバスケプレイヤーで、穴吹水琴の名を知らない者はいないだろう。誇張など一切していない。それほどの実力があると自負できる。現に大会に行くと、会場ですれ違う他校の選手のほとんどが『あれが穴吹か』とこちらを振り返る。
だから私は、いつもどんなときでも、チームメイトから一目置かれる存在だ。
「こらあ! 水琴しっかり!」
今日を除いては。
同性の親友から告白を受けるという過去に類を見ない衝撃の直後だ。部活に集中できるわけがなく、私はミスを繰り返していた。
「水琴、調子悪いね」
「水琴さん、どうしちゃったんですか?」
先輩からは野次が飛び、同級生と後輩からは心配される。
少し離れた所に目をやると、体育館の壁にもたれかかった監督が腕を組んで私を睨んでいた。
ひええ、おっかない。
だが、野次られたとて、心配されたとて、睨まれたとて。あの告白が脳裏から消えることはない。
私は今日の練習メニューを消化する最後まで精彩を欠いたプレーを続けてしまった。
――時刻は午後七時を回ったところ。
監督主導の軽いミーティングを済ませ、解散だ。
「それじゃあ以上、今日もお疲れさん」
「「「お疲れ様でした!」」」
はあ、やっと終わった。今日はもう早く帰りたい。
フラフラと力なくロッカールームへ向かおうとしていたそのとき、
「あと穴吹はちょっとこっち来い」
険のある声がかかり、背筋が凍り付いた。声の主は監督。
つり目が特徴の若い女性監督で、その風貌は教育者というよりヤンキーだ。部員達からは『深夜のコンビニによくいそう』『監督よりジャージが似合う人はこの世にいない』などの声を集め、厳つい見た目には定評がある。
そんな監督から個別に呼び出しを受けた。冷や汗がダラダラ流れて止まらない。
「な、なんですか?」
「なんですかじゃねえだろお前」
ひええ、恐ろしい! だれだこんな人を教師として採用したのは!
ブルブルと震えながら監督の冷たい眼差しを受けていた。言いたいことはわかっている。今日の不甲斐ない体たらくに対する叱責だ。
「いやその、ちょっと色々ありまして……」
「言い訳は聞かん」
監督は問答無用とばかりに告げ、ポケットから出した鍵を私に手渡した。
これは……体育館の鍵? プレートにそう書いてある。
行動の意図を掴めきれずにいると、監督は体育館の端から端を指でなぞり、言った。
「ダッシュ百本」
「まじですか」
「やっぱり二百本」
「百本やります! 喜んでやります! よーし頑張るぞ!」
「二百本、な」
「……はい」
ああ、余計なこと言ったせいで本数が増えちゃった。
げんなりしながら渡された鍵を眺め、監督の意図が読めた。
つまり、こういうことだ。
今から一人で罰走しろ。終わったら自分で体育館を閉めて、職員室まで鍵を返しに来い。
「安心しろ、夜九時でも十時でも、職員室が閉まることはない。ほとんどの教師は残って仕事をしている。無論私も」
「あははは……学校の先生って大変なんですね……」
「ああ、教師にとって学校はただのブラック企業だ」
「お、お疲れ様です」
「疲れたな。本当に疲れた。体力的にもキツいが、今は精神的な面で。なにせどこかのバスケ部のエースさんがふざけたプレーばかりするからな」
おお、滅茶苦茶キレられてるぅ……怖いぃ……。
「さあ、やれ。誰も見てないからといって手を抜くなよ。そんなことしたらただじゃおかないからな」
「はい……」
うちの部は監督が絶対王政を敷いている。反論などできるわけがない。
私は皆が帰っていくのを尻目に、夜の体育館で一人延々と走ることになった。「おつかれ水琴」と、気の毒そうな同級生の声が胸に刺さる。
しかしまあ、物は考えようだ。単純な基礎練は、雑念を払うにはうってつけの時間となる。体が追い込まれていく分、頭がスッキリするのだ。
この罰走、ある意味よかったかもしれない。
必死で走り続けて――しばらく経った頃、私は完全に無心になった。
頭に取り憑いていた複雑な感情は流れ落ちる汗でぼやけ、見えなくなる。まあ一時的だろうが。
こうなると疲労感すら心地いい。そして――気付いた。
あれ? いま何本目だろう?
「ふーーーっ」
体育館の床に仰向けで寝転び、大の字になった。
時計を見ると午後八時を回ったところ。一時間は走ったことになる。
よし、たぶん二百本は到達しているだろう!
到達したことにする!
さっさと鍵を返しに行って、こんどこそ帰宅しよう!
やけを含んだ自己満だったが、ちゃんと一生懸命走ったんだ。胸を張って監督に報告するとしよう。あ、でも、ちょっと後ろめたさはあるかも。報告嫌だなあ。鍵返しに行きたくないなあ。
「はあーーーっ」
また大きく息を吐いた。今度はため息に近い。
それにしても疲れたなあ。
ふくらはぎはパンパン。火照った体に冷たい床が気持ちよくて、中々起き上がる気にならない。
やっぱり職員室にはもうちょっと休んでから行こうかな? そしたらほら、遅くまで頑張ったアピールになるから。
でもあまり遅くなりすぎると『お前ダッシュ二百本にいつまでかかってるんだ』とまた叱責を受けかねないから、ちょうどいい塩梅に。
なんて、小狡い駆け引きに思考を巡らせていたそのとき――。
ガラガラと、体育館の扉が開く音がした。
監督が見張りに来たのか? あ、この体勢はまずい。
自身が仰向けになっていることに気付いた私は、とっさに姿勢を正す。普通に立ち上がればいいものの、後ろめたさから正座になってしまった。謝罪スタイルだ。
「違うんですよ! 私はちゃんとダッシュ二百本を……ってあれ?」
そこにいた人物は監督ではなかった。それどころか、他の教師でも、バスケ部のチームメイトでも、そもそもこの学校の関係者ですらない。
私は唖然とするほかなかった。
なんで、なんでこいつがここにいるんだ?
「ご機嫌よう、穴吹さん」
「剣さん?」
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