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六話

夫の帰りは今日も遅い。

だが、昼寝をしっかりして夫の帰りを待つ事にした。毎日約束を反故にしていたし、ただ起きて待っているだけで嬉しそうにしてくれる夫の顔を見てみたくなったのだ。


夕食も済ませたし、寝る支度も大方済んだ。夫を出迎える為服は普段着のままで、夫はまだかとそわそわしながら待ち続けた。

普段なら既に眠りに落ちている時間。外が騒がしくなると、漸く夫が帰宅した事をメイドが教えてくれた。


いそいそと自室を出ると、レイラはやや急ぎ足で玄関ホールへ向かう。髪は乱れていないだろうかと、肩の辺りでゆったりと結んだ髪を何度か撫でた。


「戻ったよ」


先に迎えに出ていた下僕から聞いていたのか、ロナルドはレイラに向かって嬉しそうに微笑みながら玄関扉から姿を現した。

今にも目が無くなってしまうのではないかと心配になる程、ロナルドは心底嬉しいと顔全体で表現している。

大きく腕を広げ、照れ臭そうにしているレイラの体を抱きしめる。小さく「おかえりなさい」と言葉を漏らせば、ロナルドはまた小さく「ただいま」と耳元で囁いた。


「待っていてくれたの?」

「お約束でしたから」

「無理はしなくて良いと言ったのに」


でも嬉しいと、妻の額に唇を落としながらロナルドは微笑む。

こんなに喜んでくれるのなら、もっと前にきちんと起きて待っておくべきだっただろうか。ほんのりと頬を赤く染めながら、レイラはロナルドの背中に腕を回す。


「折角レイラが起きて待っていてくれたから、少し話がしたいな」

「お腹が空いているでしょうに」

「でもレイラと話していたいんだよ」

「ではお食事のお供を。お着替えを済ませて来てくださいね」


何だか妻が優しいぞと、ロナルドはぱちくりと目を瞬かせる。昼間した「二人でゆっくり夫婦になっていこう」という話をレイラなりに考えているのだと気が付くと、ロナルドはすぐに戻ると嬉しそうにしながら自室へと走って行く。


「すっかり仲良くなって」

「お義母様!いつからそこに…」

「熱い抱擁をしている時からかしら?息子の帰りが連日遅いから、いい加減にしなさいって叱るつもりだったの」


うふふと上品に笑いながら、義母ことクローディアは上品に口元を手で隠す。

殆ど無表情で生活しているレイラが、夫の前で照れ臭そうな顔をしている事が意外だったのだろう。思っていたよりも良い関係を築き始めている事を知ると、クローディアは嬉しそうににっこりと微笑んだ。


「あの子がどうしてもと言うから、貴方の意志を殆ど無視して嫁いできてもらったけれど…仲良くなれそう?」


ここで首を横に振ったらどうなるのだろう。追い出されるだろうか?出会ったばかりの一か月と少し前よりは仲良くなれたと思うが、これ以上仲良くなるにはどうしたら良いのか分からない。

夫婦どころか友人すらいないのだ。一番身近なお手本は、共に生活している義理の両親だった。


「あの…お義母様にお願いしたい事がございます」

「何かしら?」

「明日お時間はございますか?お茶をしながらお願いごとをさせていただければと…」


もごもごと口ごもり、腕を前で組み忙しなく指を動かしながら話すレイラに、クローディアはきょとんとした顔をする。そして徐々に口元を綻ばせると、勿論よと優しく微笑んでくれた。


「レイラからのお誘いは初めてね!とっても嬉しいわ」


今まで何度か一緒にお茶をしているが、全てクローディアからの誘いだった。嫌だった事は殆ど無い。最初は緊張していたが、クローディアは話し上手だし、程良くレイラが喋る機会を作ってくれる。適度な所で何かしら理由を付けて解散してくれるし、そのタイミングが絶妙なのだ。


「お茶菓子を用意してもらわなくちゃね。いつものマドレーヌを用意してもらいましょうか」

「はい、楽しみです」


オレンジピールを混ぜたマドレーヌはレイラがこの屋敷に来てから初めて食べたものの一つだ。食事など腹に収まれば何でも同じだと思っていたが、そのマドレーヌを口にした途端思わず目を見開いていた。

口いっぱいに広がるオレンジの香りと、ほんの少しのほろ苦さ。他の甘い焼き菓子を食べた後の口直しに丁度良かった。レイラが喜んで食べるからと、クローディアはお茶に誘う度に毎回厨房メイドに言いつけてマドレーヌを焼かせている。


「そうとなったらすぐ行かないとね。息子と仲良くしてくれるのは嬉しいけれど、お肌の為にも早く休むのよ」


それじゃあね、おやすみなさい。

にこにこと微笑み、楽しそうに鼻歌を歌いながら去って行くクローディアは嵐のようだ。年齢のせいか太ってしまったと何度も言う通り、クローディアは細身とは言えない。だが、人好きのする優しい笑顔と不思議な包容力と安心感に、レイラはクローディアに懐きつつあった。


良い義母で良かった。良い家族に恵まれた。一生を修道院で終えるとばかり思っていたが、こんなに良くしてくれる人達に囲まれて、毎日を穏やかに過ごせているのがありがたい。


ありがたいと思うと同時に、いなくなってしまった元の家族に申し訳が無い。

たった一人だけ、幼いという理由だけで生き延びた。体を縮こまらせて生きるわけでもなく、家族の魂が安らかに眠れる事を祈り続けるわけでもなく、日々穏やかに、幸せに暮らしてしまっている。たった一人。自分だけが生きている。


考えても仕方が無い。

昔の記憶は殆ど無いが、両親に幼い頃から何度も言われていた事は覚えていた。

己の命は沢山の命から繋がった尊いものである。何があっても唯一無二の尊き宝を自分で手放してはならない。


何があっても、堂々と胸を張って生きなさい。そうあれるように生きなさいと。


そう言った両親は、罪人として捕らえられそのまま死んだ。胸を張って生きる事は出来たのだろうか。


考え始めるとなかなか頭は動く事をやめてくれない。今を生きなければと無理矢理前向きな事を考え、レイラはふるふると頭を振って食堂に向かって歩き出す。着替えを終えた夫が腹を空かせて来るのだから。


◆◆◆


かちゃかちゃとカトラリーの小さな音。ロナルドは嬉しそうに話しながら、ひょいひょいと皿に乗せられた料理を口に放り込んでいく。その隣で、レイラは少しの果物を口にしていた。

食べ易いようにカットされた林檎をしゃくしゃくと咀嚼しながら、レイラは夫に相談をしているところだ。


「アイリスから誘い?良いじゃないか、行っておいでよ」


昼間返事をしようと思ってすっかり忘れていたネルソン家と仲の良い令嬢からの手紙。お茶に誘われたがどうすれば良いかと相談すると、ロナルドはけろりとそう言ってのけた。


「どのような方か存じませんの。教えてくださいませんか?」

「アイリスはディーン家の令嬢でね。確かレイラの一つ上だったかな?ディーン家は銀行家だよ」


大昔から銀行業を営むディーン家は、何故爵位を賜らないのか謎だと言われている名門一家らしい。何世代も前からの付き合いで、ロナルドとアイリスは子供の頃よく遊んだらしい。


「彼女は男勝りというか…ちょっと変わった人だけれどとても良い人だよ」

「それだけではよく分かりません」

「会ってみれば分かるよ。どうせアイリスの事だから、そろそろ俺の所にも手紙を寄越すと思うし一緒に行ってみる?」


あまり人付き合いをした経験が無いせいか、レイラはアイリスと会う事に乗り気ではない。だがロナルドが一緒ならば心強い。もし万が一上手く会話出来なかったとしても、きっとロナルドがフォローしてくれる。


こくこくと頷くレイラに、ロナルドは一緒に出掛けられる事を喜んだ。


「仲が宜しいのですか?」

「仲は良いと思うよ。絶対に男女の仲にはなりえないから気楽だし」

「…その根拠は」

「俺はレイラしか愛してないし、アイリスも自分の婚約者に夢中だからね」


ふむ、と小さく声を漏らしたレイラに、ヤキモチを妬いてもらえたと思ったロナルドはにやにやと口元を緩めながら言葉を続ける。


十歳も年上の婚約者は見目麗しいわけでは無い。性格も暗く、社交的でもない。とても不器用で女性陣からの人気も無いが、アイリスが言うに婚約者の笑顔がとても可愛らしいのだと言う。


「婚約者にも会った事があるけれど、確かに女性から人気は無いだろうね。とても背が高いんだけれど、いつも背中を丸めてるんだ」

「背中が痛くなりそうですね」

「伸ばしてみたら?と言ったんだけど、絶対に嫌だって言って猫背のままなんだ。不思議だろう?」


そう言うと、ロナルドは残っていた野菜を口に放り込み、ご馳走様でしたとカトラリーを置いた。

食後のお茶をすぐに出してくれた執事は、レイラのカップに温かいミルクを注ぐ。眠る前だからと気を使ってくれたのだろう。

この屋敷の使用人は素晴らしい。細かい所にも気が付くし、そつなく仕事をこなしてくれるのだ。


「ありがとう」


素直に礼を言ったレイラに、執事はにっこりと微笑む。使用人は誰もレイラを罪人の娘として蔑まない。屋敷に来るまではきっと酷い扱いを受けるだろうと覚悟していたが、今まで一度もそんな目に遭った事は無かった。


「明日は母上とお茶をするんだって?さっきすれ違った時大喜びしてたよ」

「いつもお誘いいただくばかりでしたから。お義母様、いつも優しくしてくださるんですよ」


僅かに口元を緩ませ、レイラはこの間はこんな話をした、あんな話を聞いたと嬉しそうにロナルドに報告する。

思っていたよりも会話を楽しみにしていたらしい。次から次へ出てくる言葉が止まってくれない。いい加減休ませてやりたいのに、もう少しこうして二人で話していたいと思ってしまうのだ。


ロナルドはうんうんと頷きながら穏やかに話を聞いてくれる。聞き上手なのは母に似たようだ。時々相槌を打ち、質問をして楽しそうに笑いながらカップを傾ける。


「レイラはお話するのが好きみたいだね」

「あ…申し訳ありません、お疲れですのに」

「ああ違う違う。俺もレイラと話すのが大好きだよ。でもほら、前は俺から話して、レイラが聞いてくれる事が多かったように思って」


そろそろ黙れと言われていると勘違いしたレイラに、ロナルドは慌てて首を振る。

話してくれるのが嬉しい、何を話して、何をして過ごしたのか教えてくれるのが楽しい。そう訴えるロナルドは、やはり疲れているように見えた。


「…お仕事は落ち着きそうですか?」

「そう!それなんだけれど、やっと目途がついたんだ!三日後には夕食の時間に帰れるようになるよ」


パッと顔を輝かせたロナルドに、レイラも嬉しそうに顔を綻ばせる。

すっかり表情筋が仕事を思い出したようで、執事は見慣れていない新妻の笑顔を見て驚いていた。


「家族皆で夕食を食べられる。寝る前はまたゆっくり出来るよ」

「三日後ですね。きっとですよ」

「約束するよ。さあ、もっと話していたいけれど、あんまり夜更かししてると母上とお茶をしている間に昼寝をしてしまうよ」


そう笑うと、ロナルドはおやすみとレイラの頭を撫でる。

レイラもおやすみなさいと返すと、静かに椅子から立ち上がり、遠慮がちに小さく手を振って部屋を出た。


食堂に残されたロナルドは大きな溜息を吐きながらテーブルに突っ伏すと、その光景をすっかり見慣れているのか眉一つ動かさない執事に向かってひらひらと手を振った。


「妻が懐いてくれたぞ」

「良うございましたね」

「酒をくれ。祝杯だ」

「いけません」


ぴしゃりとロナルドの要求を跳ね除けると、さっさと風呂に行けと急かし、執事は仕事の続きをするべく主を食堂から追い出していく。追い出されたロナルドは、可愛らしく微笑んでくれた妻の表情を思い出し、ぽうっと呆けながら廊下を歩いた。


不定期更新です(まだ言う)

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