五話
さて何をしよう。
今日は義理の両親も出かけているし、夫はまだ眠っているが午後からは仕事だ。やる事は無いし、友人もいない。流石に良家の妻になったのだから、社交的な事をしなければならないだろうかと考えはするが、何となく気が進まず一か月以上が経った。
お茶やパーティーに来ないかと手紙が来ることはあっても、全てに断りの手紙を出すばかり。そろそろネルソン家の新しい妻は付き合いが悪い、引き籠りと噂されても仕方ないだろう。
今朝渡された手紙をテーブルに置いたまま、レイラはうろうろとテーブルの周りを歩き回る。
そんな事をしていても仕方ない事くらい分かっている。自分の尻尾を追いかける犬でもあるまいに、いつまで回っているんだと自分に呆れ、レイラは漸くテーブルの周りを歩き回るのをやめた。腕を組み、忌々しいと手紙を睨みつけて仁王立ちになる。
差出人はネルソン家と仲が良いという家の令嬢から。恐る恐る開いてみれば、やはりお茶に誘う手紙だった。
差出人曰く、ロナルドとは子供の頃から仲が良く、その妻となったレイラとも仲良くなりたいという。罪人の娘である事は社交界でも有名だろうに、何故誘ってくるのかよく分からない。
レイラ自身は何も罪を犯していなくても、罪人を親に持つ女と仲良くなるメリットなど欠片も無い筈だ。勿論、妻にと望む事も。
「物好きばかりだ事」
眉間に深々と皺を刻み、レイラは手紙を置く。今回も断りたいが、夫の旧知の仲である令嬢からの誘いならば、あまり無下にする事も出来ないだろう。仲良くしてくれた方が有難いと、きっと夫も思う筈だ。
いくら良くして貰っても、何も返す事が出来ない。差し出す物を一つも持っていないレイラが出来る事は、夫や義理の家族が望む通りに振舞う事。いつまでも甘やかしてもらうばかりではいけない事くらいは分かっていた。
小さく溜息を吐き、手紙の返事は午後に書く事にした。時計を見ると、そろそろ夫が起きて支度をし始めなければならない時間だった。
連日約束を反故にして眠ってしまってばかりだし、少しくらい顔を出しても良いだろう。ちょっとした思い付きではあったが、レイラはいそいそとロナルドの寝室へ向かう。
長い廊下。ロナルドの部屋はレイラの部屋のすぐ隣。歩数も殆どかからない距離だが、夫の部屋に尋ねるのは初めてだ。
小さくノックをしてみても、部屋の中から返事は無い。ロナルドはまだ夢の中にいるのだろう。そっと扉を押し、細い隙間から顔を覗かせれば、やはりベッドの中でロナルドは規則正しい寝息を立てていた。
悪い事は何もしていない。夫婦なのだから、眠っている夫の部屋に入っても問題は無い筈だ。だが、何となく悪い事をしているような後ろめたさで胸がドキドキと騒ぎ出す。
そろそろとベッドに近付いても、ロナルドが目を覚ます気配はない。相当疲れているのか、目の下にはうっすらと隈があった。
真っ黒な髪。背中まで伸びた髪をゆったりと束ねてはいるが、眠っているうちにぼさぼさになってしまったようで、一房が顔にかかっていた。
「酷い顔」
ぽつりと呟き、レイラはそっとロナルドの顔に手を伸ばす。細く白い指が、ロナルドの顔にかかった髪を避けた。
僅かに触れた指先に、小さく声を漏らして反応があった。起こしてしまったと慌て、レイラは小さく息を飲んだ。
ロナルドはまだ眠っているらしい。眉間に皺を寄せているが、その目が開く事は無かった。
普段ニコニコしてばかりのロナルドが、眉間に皺を寄せている顔を初めて見た。こんな顔もするのだなとじっと眺めているうちに、ゆっくりと眉間から皺が消えていく。
仕事が忙しいと言ってもあとどれ程で落ち着くのだろう。あまり無理をしないで欲しいなと心配になるが、この感情が何故湧いてくるのか分からない。
居なければ居ないで静かで良い。少し退屈だが、静かな事には慣れている。
居たら居たで煩いし、鬱陶しいと思う事もある。だが、初めて会ってから一か月の間、ロナルドは毎日真直ぐに愛を囁き向き合ってくれた。大切に慈しんでくれた。
八年間たった一人で修道院に幽閉されて生きて来た。そこから助け出し、妻として迎え入れ、何不自由なく生活させてくれて、好きだの愛しているだの、レイラを見て嬉しそうに微笑みながら囁いてくれる。
ここまでしてくれる人を、どうして心から受け入れる事が出来ないのだろう。素直に寂しいと言えないのだろう。愛してくれなくて良いと言ってもらえているが、本当にそれで良いのだろうか。
まだ目を覚まさないロナルドの顔を覗き込み、ベッドに腰かけるレイラはゆるゆるとロナルドの頭を撫でる。
いつだったか義理の母、クローディアは言った。私たちは政略結婚だったけれど、ゆっくり時間をかけて愛を育み家族になったのよと。
時間をかけ、共に生活していけば、自分も夫を愛する事が出来るだろうか。仲の良い義両親のように、仲睦まじい夫婦になれるだろうか。罪人の娘でも、幸せを望んでも許されるだろうか。
「うん…ベルやめて…」
ひくりと喉が鳴った。
寝ぼけた夫の口から出た「ベル」という名前。聞き覚えは無い。今すぐ叩き起こして問い詰めても許されるだろうか。愛を返す事もしていない自分が、妻であるというだけで。
「…レイラ?」
うっすらと目を開き、頭を撫でているレイラの顔を見つけると、ロナルドは嬉しそうに口元を緩ませる。
ゆっくりと体を起こすと、ぐいぐいと体を伸ばすように伸びをした。
「おはようレイラ。起こしに来てくれたの?」
「…おはようございます」
口元を引き攣らせ、無理に微笑みながら夫から目覚めのハグをされる。
嫌なわけでは無いのだが、ベルという名前の人は誰で、どんな関係なのだと問い詰めたくてならない。
うだうだ考えているくらいなら聞いてしまえば良い。分かっているのだが、特別な人だと言われたらどうすれば良いのか分からず、聞く事が出来なかった。
「久しぶりに起きてるレイラに会えた」
「申し訳ありません。お約束でしたのに」
「ううん。遅くなってばかりでごめんね」
毎日無理をしてでも帰宅して、眠っている妻の部屋に来ている事は知っている。手紙にもならない手紙に返事を書いてくれるのだから、本当に毎日そうしているのだろう。
「お手紙…ありがとうございました」
「ああ…俺宛かな?と思ったから、勝手に書いたんだ」
「私以外に好きな物は無いのですか?」
返事として書かれた文を思い出し、レイラはふっと口元を緩ませる。
妻と会話出来るのが嬉しいのか、ロナルドはにこにこと嬉しそうに微笑んでいる。
「そうだな…猫が好きかな」
「猫ですか。お屋敷で飼わないのですか?」
「昔は居たんだよ。でも今は仕事をしていて世話をしてやれないから。レイラは猫好き?」
修道院に猫はいた。きちんと世話をしていたわけでは無いが、その猫は自由に修道院の中を歩き回っていた。寒い日はレイラの膝の上で眠る事もあったし、レイラも可愛がっていた。
「好きです。柔らかくて、毛の長い子が」
「そうか!ベルは白猫でね。毛は短かったけれど、金色の目がとても綺麗な子だったんだよ」
懐かしむように嬉しそうに話すロナルドの言葉に、レイラは首を傾げる。
ベル。白猫。嬉しそうに懐かしむ夫の顔。
「ベルとは…猫のことですか?」
「そうだよ?人懐こくて、いつも誰かのベッドに潜り込んで寝てたんだ」
はは、と小さく乾いた声が出た。
てっきりどこぞの麗しの御令嬢かと思っていたのだが、どうやらベルとやらの正体は昔可愛がっていた猫の事だったようだ。
「随分昔に死んでしまったけれど、今でも庭の片隅に眠っているんだよ。小さな墓標見た事無い?」
「あの猫の石像ですか?」
「そうそれ。ベルの墓標なんだ。そっくりに作ってもらったんだよ」
義母に誘われて庭を散歩していた時、庭の片隅に真っ白な猫の石像が置かれている事には気付いていた。花が周りに沢山咲いていて綺麗だし、精巧な作りのそれは家族の誰かのお気に入りなのだろうと思っていた。まさか可愛がっていた猫のお墓だとは思わなかったが。
「てっきり女性のお名前かと」
「確かにベルはメスだったけど…どうして?」
「旦那様が寝ぼけてベルやめてと仰せでしたので」
「ああ…夢の中でベルが俺の頭を舐めててね。起きてほしい時によくやっていたから」
何てことは無い思い出話。賢い子だったよと笑ったところで、ロナルドはにんまりと笑ってレイラの手を取った。
「俺が君以外の女性の名前を呼んだと思ったのかな」
「…いいえ」
「ヤキモチかと思ったのに。大丈夫だよ、ベルは猫だし、俺はレイラが居てくれればそれで良い。心配なら女性関係全て書き出して説明しようか?」
真顔で言い放つロナルドに、レイラは慌てて首を横に振る。
そこまでしなくて良いし、愛してもらえている事は嫌という程分かっている。
不要だと何度も首を横に振るレイラに、ロナルドは楽しそうに笑った。
「あの…結婚式の日、愛してくれなくても良いと仰せでしたが…」
喉がカラカラと渇くような気がした。
恥ずかしい事をこれから言おうとしているのだ。愛してくれる相手に愛を返したい。愛する事を知りたい。愛したら、夫は喜んでくれるだろうか。
「旦那様が居なくて…その、寂しかったのです」
「うん、ごめんね」
「寂しいと思うということは、私も旦那様を愛し始めているという事なのでしょうか?」
顔を真っ赤にし、俯いたままそう言ったレイラに、ロナルドは目をぱちくりと瞬かせる。
徐々に口元を緩ませ、俯いているレイラの顔を覗き込むと、その目は嬉しそうに蕩けていた。
「どうだろう、俺には分からないけれど、寂しいと思ってくれて嬉しいと思ってるよ」
「寂しい思いをさせて喜ぶのですか?」
「だって、少なくとも嫌われているわけじゃないみたいだし、寂しいと思う程度には心を許してくれているって事だろう?」
嬉しいなぁとへにゃりと顔を緩ませて笑うロナルドの頬をぐいと押し、レイラは真っ赤な顔をふいと横に向けた。
言わなければ良かった。頬を膨らませ、余計な事を言った自分を恥じた。
「レイラ、こっち見て」
体勢を立て直したロナルドは、そっとレイラの頬を両手で包み自分の方を向かせる。
嬉しそうに、幸せそうに顔を綻ばせるロナルドは、すりすりと親指でレイラの頬を摩った。
「愛してくれなくても良い。ただ俺の傍に居てくれるだけで良い。でも、愛してくれたら俺は世界で一番幸福な男になれるんだ」
「大袈裟なお方ですね」
「そうかな?でも本当だよ。愛してもらえなくても良いって自分で言ったのに、愛してもらえたらどんなに幸せだろうって何度も考えるんだ」
そう笑ったロナルドは、そっとレイラの体を抱き寄せる。
久しぶりに抱きしめられたような気がして、レイラは大人しくロナルドの腕の中に収まった。夫の香りだ。一緒に眠る時包み込まれる安心する香り。深く息を吐き、レイラはそっとロナルドの背中に腕を回した。
「愛しても良いと思ってくれた?」
「…少しだけ。でも私は愛する事を知りません。忘れてしまいました」
「じゃあ俺が教えてあげる。二人で一緒に夫婦になっていこう」
耳元で囁くロナルドの声色は優しい。穏やかで低いトーンの声が、レイラを落ち着かせてくれた。
頬をレイラの頭に摺り寄せ、幸せそうに小さく声を漏らして笑うロナルドは、少し体を離してレイラの頬にキスを落とした。
普段ならそのまま唇を重ねられる。既に体に染みついてしまったいつもの流れ。応えてやろうとレイラが顔を上げた途端、静かだった部屋にノックの音が響いた。
「良い所だったのに」
小さく舌打ちをすると、ロナルドは「入れ」とドアに向かって声を返した。
静かに入って来た執事は、ベッドの上で仲睦まじく抱き合っている若い夫婦に目を見張る。
「後にいたしますか」
「早く支度をしてちょうだい!」
顔を真っ赤にし、慌ててロナルドの体を押して距離を取るレイラに、執事は深々と頭を下げる。
不満げなロナルドは、執事が背中を向けたのを良い事にレイラの唇に噛みついた。
何をするのだと口をぱくぱくと動かすレイラに満足げに笑うと、ロナルドは大人しくベッドから降りて行く。
くるりと振り向いた執事は、気まずそうに咳払いをした。
「レイラ、これから着替えるけれど」
「下でお待ちしております!」
叫ぶようにそう言うと、レイラは逃げるようにロナルドの部屋から走り出した。
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