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四十話

漆黒の美しさをよく知っている。愛する夫の色だから。見ていると安心するその色を身に纏い、男は静かに此方を見つめている。


「危険な事をしましたね」


静かにそう呟く男は、現ライトリー男爵ブルック・モーガンだ。レイラとロナルドが父であるダラム伯邸に乗り込んだという話を聞いてから、彼は若い夫婦の事を心から心配していたのだ。父の恐ろしさを良く知っている息子は、彼らが無事にこの地へ戻って来られますようにと毎日祈った。

いっそのこと、父が何かしようとする前にその命の灯が消えてしまえば良いとさえ思った。


父の命が潰えれば、その時は皆自由になれる。レイラは勿論、男爵としてソルテリッジに縛り付けられた馬鹿息子である自分も。元居たダラム伯領に戻る事が出来る。こんなにも居心地の悪い、敵視されるだけのこんな土地、ブルックからしてみれば御免だった。


「父の葬儀は無事に済んだよ。屋敷の傍に埋葬した」

「そうですか」


レイラたちがダラム邸を出た翌日、全ての元凶である男は静かに眠りについたそうだ。最期まで己のしでかした事を後悔するなんてことは無く、うわ言のようにレイラの名を呼んでいたらしい。何をしに来たのだと恨み言を吐いていたらしいが、レイラはもうあの男がこの世にいないというだけで心が軽い。

人の死を喜ぶなんて宜しくない事だと理解はしているのだが、家族を奪った男が死んだ事を喜ぶのはそんなに悪い事だろうか。


「父が死んだから、伯爵位は私が継ぐ事になった。近いうちにソルテリッジの屋敷から引き上げるよ」

「左様でございますか」

「出来れば、本来の持ち主にお返ししたいんだが…」


談話室の大きなソファーにどっかりと座ってるくせに、その表情は非常に申し訳なさそうだ。本来の持ち主とは、レイラの兄であるローガンの事だろう。だが、ローガンはもうこの国には戻って来ないと言っていた。返されたところで住む者がいない。帰る者の居ない屋敷はきっと寂しい場所となってしまうだろう。


「兄は戻りません。爵位どころか、この地に帰る事すら望んでおりませんでした」

「そうか…お返し出来ればと思っていたんだが、帰りたくないのは当然だね」


それだけの事を我々はした。そう溜息を吐くと、ブルックは深々と頭を下げる。申し訳ないと何度頭を下げたのだろう。もう何度も彼はレイラに謝罪している。

謝られたって、レイラにはどうでも良いとしか思えない。どれだけ謝られても元の家族は戻っては来ない。亡くなった両親が生き返るなんて事もないし、兄の心の傷が癒えてもう一度ソルテリッジに戻って来ることも無い。


目の前で頭を下げ続けるブルックに、祭りの夜のような怒りは感じられない。それどころか、今の


レイラは何の感情も抱けないのだ。何も変わりはしないのに、どうしてこの人はこんなにも申し訳なさそうな顔をして私に頭を下げるのだろう。そういった感想しか浮かばない。

頭を上げてほしいと言えば良いのだろうが、その続きの言葉が浮かばないせいで何も言葉をかける事が出来なかった。


「妻が困っておりますので、そろそろ頭を上げてくださいませんか」


レイラの隣に座るロナルドがそう言葉をかけると、ブルックはのろのろとした動きで頭を上げる。表情はまだ変わらないままだ。


「ローガン殿にお返し出来ないのなら、ネルソン夫人にお返し出来ないだろうか?」

「必要ありません」


きっぱりとしたレイラの言葉に、ブルックはぱちくりと目を瞬かせる。ロナルドは小さく溜息を吐きながらレイラにちらりと視線を送るが、好きにしなさいと言葉を挟む事は無かった。


「あの屋敷で生活していた時の記憶は、私には殆ど残っておりません。記憶に無い屋敷を思い出として抱えておくのは、私の望みではありませんわ」


ソルテリッジに屋敷は二つも要らない。自分が済むのはこのネルソン邸。コリンズの屋敷はもう他所の屋敷でしかないのだ。


「何も望みません。私はただ、夫と共に穏やかに生きていられればそれで良いのです」


にっこりと微笑んだレイラの表情に、ブルックは小さく息を飲む。

元々美しい女性に成長していたレイラの穏やかな笑みは、まるで絵画のように美しかった。


「私が願う事はただ一つ。私を、レイラ・コリンズは死んだものと思っていただきたいのです」

「でも君は生きているじゃないか。この地で」

「生きているのはレイラ・ネルソンですわ、男爵様。ロナルド・ネルソンの妻です」



もう男爵家令嬢では無い。やりたかったことは全てやってきた。もう悔いはない。この先の人生は、ロナルドと手を取り合って生きて行く。長くなるであろう人生の共は、元の家族ではなく夫なのだ。


隣で静かに話を聞いているロナルドの手を取りながら、レイラは幸せそうに微笑んでみせた。凍り付いて固まってしまった表情が、ロナルドからの愛情という温もりのおかげで溶けて解けた。


「男爵様は男爵様として生きていかれれば宜しいのです。私は、私の思うように生きますから」

「では、今まで通り罪人の娘として扱われても構わないと?君が望むのなら、父の悪行を全て暴露したって構わないんだよ」


大真面目な顔でそう言い切るブルックに困ったような表情を向けながら、レイラはゆるゆると首を振る。

そんな事をすれば、今度は彼の家族が辛い目に遭うだろう。一人の男の、そしてその家族の人生を狂わせた悪党と、その家族、その一族。そう扱われ、蔑まされることはレイラの望む事ではない。


「謝罪も、屋敷や爵位を返したいというのも貴方の都合だ。妻は必要ないと言いました。これ以上、我々に構わないでいただきたい」


しつこいと睨みつけるロナルドに、ブルックは唇を噛み締める。身分はブルックの方が上なのだが、彼の父がしでかした事のせいでブルックはこの場で強く出られない。それどころか、ロナルドはブルックも敵だと思っている。本当なら今すぐにでも屋敷から叩き出したいのだ。


「もう充分お返しいただきました。家族の品を大切に保管してくださり、心より感謝いたします」

「だが…」

「男爵様は強情な方ですね。私がもう良いと言っているのですから、それを受け入れてはくださいませんか」


もう勘弁してくれと笑ったレイラに、ブルックは諦めたように溜息を吐きながら頭を掻く。これ以上言っても嫌な思いをさせるだけだと判断したのだろう。だが、決して許すとは言わないレイラに、ブルックは最後に一度だけ小さく頭を下げた。


「もし…気が済まないと仰るのでしたら、この地を愛してくださいませんか?ソルテリッジは美しき港町なのです。男爵様がお優しい方だと分かれば、きっと皆男爵様を素晴らしい領主だと思いますから」

「そうなれるように、努力するよ」


約束ですよと微笑み、レイラは握ったままのロナルドの手をぎゅっと握り直す。ロナルドもレイラの手を握り返すと、二人はお互いの目をじっと見つめて微笑んだ。


◆◆◆


「何で何も言わずに出て行ったりしたの!」


ぎゃんぎゃんと吠えるアイリスに、レイラはぎゅっと目を閉じて肩をすくませる。

ブルックが帰ったと思えば、今度は怒り心頭といった表情のアイリスが屋敷に乗り込んで来たのだ。

ロナルドと共に先程まで座っていたソファーに戻され、仁王立ちになっているアイリスに叱られ続けている。


「心配したじゃないの!あんなに楽しみにしていたお祭りもいつの間にか帰ってしまうし、船上のダンスパーティーも参加していないし!挙句真夜中に二人で消えたですって?私がどれだけ心配したか!」

「ご、ごめんなさいアイリス…ちゃんと説明するから怒らないで」

「怒っているんだから怒らないのは無理な相談よ!」


煩いと両耳を塞ぐロナルドの脇腹を小突き、レイラは何から話そうか順序を辿る。

お祭りの夜にブルックと会った事。話をして、怒りに我を忘れた。そして、仇が死ぬ前にどうしても顔を見たかった。反対されるのが分かっていたから、何も言わずに屋敷を出た。そして、ずっと会いたかった兄にも会いに行った。そう話すうちに、アイリスはゆっくりと長く息を吐いてソファーに腰を降ろした。


「…言いたい事は言えたの?」

「ええ、満足したわ」

「お兄様にも会えたの?」

「ええ、沢山話をしたわ」

「そう」


一言そう呟くと、アイリスは暫くの間黙ってしまった。何か言いたいのだろうが、上手い事言葉に出来ないのだろう。きっと逆の立場なら、レイラも同じように黙り込むかもしれない。


「あのね、私決めた事があるの」

「何かしら」

「最後に一つだけやり残している事があるのよ。それが済んだら、もう過去の事は考えないわ」


何をしたいのだと眉を潜めるアイリスに、レイラはそっと微笑んでみせる。

帰りの馬車でロナルドと話し合ったのだ。


「両親のお墓をね、ソルテリッジに建て直したいの。お花を沢山飾って、二人で並んで眠ってほしいのよ」

「素敵だわ」

「だから、お花を上手に育てる方法を教えてくれない?お花を育てるのなら、アイリスに教えてもらうのが一番だから」


晴れ晴れとした顔で笑うレイラに、アイリスはそれで良いのかと首を傾げる。

レイラ本人も不思議なのだ。兄と離れる時はあんなにも寂しくて、家族なのだから傍にいてくれと懇願したが、いざ帰りの馬車でロナルドと話をしていると、もうこれで終わりだと思えて来た。

前を見よう、夫と共に生きようと。


「お墓の場所はどこにするの?」

「町の外れに墓地があるでしょう?そこよ。お兄様が言うには、両親はそこに眠るんだって言っていたそうだから」


父はこの地で生まれ育った。生まれ育ち、先に眠る者たちの多くがその墓地にいる。自分も同じようにそこで眠りたいと話していたそうで、母もまた、長らく一緒に生きてきた夫と共に眠ると言っていたそうだ。

両親の願いならば、それを叶えてやりたい。叶えてやってくれという兄からの願い。これが、レイラのやり残した事だった。


「お墓の準備が出来たら迎えに行かなくちゃ。今度はちゃんと伝えてから行ってくるわね」

「そうしてちょうだい」


怒っていた事を思い出したアイリスは、ぶすっとむくれながらレイラとロナルドを睨む。

あと何人に叱られるだろう。それより先に、今はお墓を飾る花の相談を楽しみたい気分だった。


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