三十九話
晴れ晴れとした表情で、レイラは静かに馬車の窓から外を眺める。久しぶりに眺める故郷の海は、何だか懐かしい気持ちにしてくれた。あまり長い間離れていたわけでは無い筈なのだが、キラキラと輝く海はレイラの帰りを歓迎してくれているように見えた。
「レイラ、きっと母はものすごーく怒ってると思う」
「…そうでしょうね」
「お説教を早く終わらせるコツだ。ひたすら黙って、俯いておくこと。良いね?」
屋敷を出る時は怒られたって構わないと思っていたのだが、いざ帰ったらお説教だと思うとなんとも気が重い。
兄と同じベッドで眠り、記憶にはない家族の温もりに心穏やかだったレイラだが、今は義母の怒りがどれほどのものか想像するだけで恐ろしい。お願いだからもう少しだけ馬車の速度を落としてくれないだろうか。ほんの少しでも良いから、ネルソン邸に到着するまでの時間を稼いでほしかった。
「あー…覚悟を決めた方が良さそうだ」
屋敷の門が見えて来た途端、ロナルドはげんなりとした表情で頭を抱える。レイラも恐る恐る窓から屋敷の方を覗き見れば、まだ離れていても分かる。女性が腕を組んで門前で待ち構えている姿が目に入った。
あれはどう見ても義母だ。門の前で待ち構えているなんて、相当怒っているのだろう。どう謝れば許してくれるだろう。まさかこんな勝手をしたのだから、そんな女は我が家に相応しくないと言って追い出されたりしないだろうか。考えれば考える程恐ろしくてたまらないが、目の前に座っているロナルドも母の怒りが恐ろしいのだろう。ぎゅっと繋がれた手は、普段よりも冷たかった。
「巻き込んでしまって申し訳ございません。叱られるのは私だけで構いませんから、ロナルド様はどうぞお逃げになって」
「逃げたら余計に怒られるよ。それに、こうなる事が分かっていてレイラに付いて行ったんだ」
逃げろと言っても何処に逃げろというのだろう。ふと自分の言葉のおかしさに恥ずかしくなったが、自分の行いのせいで夫まで叱られるのは何だか心苦しかった。
「一緒だよ、何があってもね」
「叱られるだけです」
「叱られるのだって、何処に行くのだって一緒だって事」
ああ怖いなあ!
そう声を上げたロナルドに応えるように、馬車は無慈悲に動きを止めた。
コンコンとノックをされる馬車の扉。開かずとも分かるノックの主にまずは何を言おうか考えながら、二人は静かに喉を鳴らした。
◆◆◆
ニコニコと微笑んでいるクローディアの笑みは、腹の底が冷え切る程恐ろしい。馬車の扉を開き、まずは二人揃って「ごめんなさい」と震える声で呟いたのだが、クローディアは何も答えずレイラとロナルドの手を取って歩いた。屋敷までの長い道も無言。屋敷に入ってから談話室に入ってからも無言。何から話そうか考えているのか、クローディアはただ笑みを浮かべて黙ったままだ。
「あの…お義母様…?」
沈黙に耐え切れなくなったのはレイラだった。普段にこにこと楽しそうに微笑みながら楽しく話をしてくれる義母の無言の圧に耐えきれる程、レイラは強くはない。
震える声と怯えた上目遣いで見つめられたクローディアは、小さく溜息を吐いてソファーに体を沈ませる。
「座りなさい二人共」
「はい…」
クローディアの正面に置かれた二人掛けのソファー。普段家族の会話を楽しむ時に座る定位置にそれぞれ座ると、ロナルドはレイラを安心させるように手を握ってくれた。
「まず…そうね。仕事を放り出して行く程の事だったのかしら」
「…そう思っています」
「そう。貴方の仕事はお父様が引き継いでくださったわ。もう若くはないのに相当無理をさせているわね」
「はい」
静かに淡々と紡がれる言葉は、冷たくとがっているように思えた。自分の我儘のせいでロナルドまで叱られている。あまり深く考えてはいなかったが、ロナルドは仕事を任されている跡継ぎなのだ。抱えていた仕事を投げ出す事になるなんて、少し考えれば分かる事だった。
「お義母様、それは私のせいなのです、どうかロナルド様をお叱りにならないで」
「お黙りなさい。理由がどうあれ任されていた仕事を投げ出すなんて以ての外。仕事を何だと思っているの?貴方にと任せてくださっているお客様への信頼はどうでも良かったのかしら?」
何も言えない。反論なんて出来ない程、クローディアの言葉は正論そのものだった。
黙っておきなさいと言いたげに、ロナルドはレイラの手を握る手に力を籠める。反論したいのに、それが許されない事をしたのは自分たちだ。何を言っても言い訳にしかならない。迷惑をかけてしまった人達にどう詫びれば良いだろう。許して貰えるだろうか。
じわりと滲んだ涙が零れ落ちないように、レイラは俯いて奥歯を噛み締めた。
「母上、私は今から次期経営者として最低な事を言います」
「何かしら」
「私は仕事よりも妻であるレイラの方が大事です」
仕事よりも妻が大事であるという言葉に、クローディアの眉がぴくりと揺れる。だが、息子の言葉を最後まで聞いてやるつもりなのか、口を挟むことは無かった。
「今回私が全てを投げ出してレイラと共に屋敷を出たのは、レイラが一人でダラム伯の元へ行くつもりだったからです。レイラを一人で行かせてしまったら、もう二度と私の腕の中には戻って来ないと思った。だから逃がさないように付いて行きました」
やっと手に入れた唯一の人を、簡単に逃がしてやれる程欲の無い男ではない。そう笑うロナルドに、クローディアは呆れたように溜息を吐いた。
息子の事なのだから、母であるクローディアならばよく分かっているのだろう。
「利益を投げ出して、手に入ったものは何かしら」
「レイラの望みが叶いました」
「会社にとっては無益だわね」
無益どころか赤字だろう。何も言えないまま俯いているレイラの隣で、ロナルドは堂々と母に向かって微笑んだ。
「ダラム伯の訃報はもう?」
「ええ、半月ほど前にね。間に合ったのかしら?」
「はい、しっかりと」
馬車で移動しているうちにそんなにも日が経っていた事を知り、レイラはごくりと喉を鳴らす。つまりそれだけの間、ロナルドは仕事を投げ出し、その穴埋めを義父であるルークがしているのだ。
自分の勝手でどれだけの人に迷惑をかけてしまったのだろう。ネルソン家の妻になると決めたくせに、そんな事も分からずに飛び出した自分の行動が恥ずかしくてたまらない。
「レイラ、言いたい事は言えたのかしら」
「はい…言えました」
「そう。それで?お兄様にはお会い出来たのかしら?」
思っていたよりも穏やかなクローディアの声。恐る恐る顔を上げると、穏やかに微笑むいつものクローディアがそこにいた。
何故、夫と共に出かけてきますとしか書かなかった書置きで、何処に行っていたのか知っているのだろう。ぱちくりと目を瞬かせるレイラの言いたい事に気付いたのか、クローディアは小さく声を漏らして笑った。
「デイジーを連れて行ってくれて良かったわ。あの子は貴方のお世話係だけれど、私たちのメイドだもの」
「つまり…デイジーが居場所を報せていた、という事ですか?」
声を震わせるレイラに、今度こそクローディアは声を上げて笑いだす。
何て優秀なメイドなのだろう。ロナルドはそれを知っていたのだろうかと横目に夫を見れば、そっと視線を逸らされてしまった。これは、知っていたという事だろう。
「全く…行くなとは言わないけれど、心配させないでちょうだい!」
「申し訳ありません…」
「まだまだお説教したいところだけれど、心配している人が沢山いるのよ。きちんと謝っておきなさいね」
お説教はおしまい!と手を叩くと、クローディアはテーブルに置かれていた小さなベルをチリチリと鳴らす。少し待てば、傍にいたらしい執事が恭しく頭を下げて部屋の扉を開いた。
「お腹が空いたでしょう?何か食べて、叱りに来る人達を大人しくお待ちしていなさい」
一体誰が来るのだろう。思い浮かぶのがルークくらいだが、まだまだしっかり叱られる事になりそうだ。
顔を見合わせたレイラとロナルドは、揃って眉尻を下げて溜息を吐いた。
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