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三十七話

親の顔はどれだけ絵を見ても懐かしい気持ちにはなれなかった。悲しいだとか、嬉しいだとか、そういう感情が湧く事もなく、ただ「こんな顔をしていたのね」という感想だけ。

暫くの間兄から受け取ったばかりのロケットを眺めていたのだが、それよりも長旅の疲れの方が強かった。


いつの間にか瞼は重くなり、ふわふわと意識を手放してどれ程の時間が経ったのだろう。懐かしい夢を見るだとか、そんな事すら無かった。ぐっすりと気持ちよく眠り、ふと意識が戻ると既に昼を過ぎていたようだ。


「起きた?」

「…はい」


まだ少しぼんやりとする頭。眠たい目をしぱしぱと何度か瞬かせると、レイラはゆっくりとベッドから起き上がる。

隣で一緒に眠っていた筈のロナルドは既に目が覚めていたようで、身支度を済ませてすまし顔だ。


いつも通りよく手入れをされたサラサラの黒髪。自分で結んでいるらしいのだが、背中に一本尻尾のように揺れる毛束は、リボンで飾られている。


「起こしてくださいな」

「気持ちよさそうに眠っていたから。よく眠れたようだね」

「はい、とても」


ぐいと背伸びをすると、レイラは裸足を床にぺたりとつける。毛足の長い絨毯が何だかくすぐったかった。


「服はクラリス嬢が用意したらしいけれど…どうする?」

「折角ですからお借りします」


自分のドレスもデイジーが荷物に詰めてくれていた筈だが、クラリスが好意で準備してくれていたのなら、その優しさを有難く受け取るべきだろう。

ロナルドが手にしたドレスは、普段レイラが選ばないような華やかなもの。言ってしまえば派手なデザインだった。


真っ赤なドレスは腰元で大振りのリボンを結ぶらしい。自分に似合うだろうかと不安気な顔のレイラをよそに、ロナルドは早く支度をしようとレイラの手を引いた。


「デイジーを呼びます!」

「遠慮しなくて良いのに」


昨晩は疲れていて任せてしまったが、よく考えれば夫に着替えの手伝いなどさせるものでは無い。羞恥心よりも早く眠りたいという感情の方が勝ってしまった昨晩の自分を恥じながら、レイラは壁に取り付けられていた紐を引いた。


◆◆◆


きっちりとメイクを施されたレイラは、着慣れない派手なドレスにもじもじとしながら階段を降りる。

屋敷の主であるクラリスの父、ウェセター男爵に挨拶すらまだしていない。流石に失礼にも程があるとレイラとロナルドは反省しているのだが、階下で待っていた男爵本人は全く気にしていないのか、朗らかに笑って迎えてくれた。


「長旅でお疲れでしたかな?食事の支度は出来ておりますよ」


初対面の筈なのに、レイラに対してとても朗らかな男爵に、レイラはありがとうございますと頭を下げた。

娘のドレスを着ている客人に対し、男爵はうんうんと嬉しそうに頷いている。食堂へと二人の客人を案内しながら、男爵は自分の娘について話し始めた。


「娘は人付き合いが下手でしてね。きっと既にご存知でしょうが」


苦笑いをしているロナルドに、男爵は何かやったんだなと察したらしく、小さく溜息を吐いた。

男爵曰く、昔からはっきりと物を言いすぎるせいで揉める事が多かったそうだ。やれそのドレスは似合っていないだの、流行遅れ、髪型はこっちの方が良い等々。本人はちょっとしたアドバイスのつもりだったようなのだが、言われた側からすると余計なお世話なのだ。

まして、クラリスは少々口調がキツイ。歯に衣着せぬというよりも、素直すぎるのだ。


「娘が友人を招くのは初めてなのです。どうか、よろしくお願いします」

「クラリス様はとてもお優しいですわ」

「そう言ってくださる方は初めてですよ」


確かに少々物言いがキツイと感じる事もあるが、普段仲良くしているアイリスとて同じなのだ。キツさの度合いはクラリスの方が遥かに上だが、心根の優しい人だという事は理解しているつもりだ。


散々疑われたのは、ローガンの身の上を知っているからこそ。疑いながらもレイラに会いに来たのは、もしも本当にレイラが本物のレイラ・コリンズで、生きているのなら会わせてやりたいと思ったから。

レイラが本当にコリンズの娘であると分かれば、いつでも来るように言い含めて帰って行った。

今回突然の訪問も喜んで受け入れてくれたし、到着が遅くなったにも関わらず起きて待っていてくれるような人なのだ。

ゆっくり休めるようにと部屋を整え、寒くないようにと温めておいてくれた。朝渡されたドレスも、クラリスお気に入りの仕立屋に作らせた特注らしい。折角来てくれるのだからと、クラリスなりのおもてなしだったようだ。


「クラリス嬢は今どちらに?」

「ここよ」


食堂の入り口で待っているクラリスは、レイラが着ている真っ赤なドレスの出来に満足げだ。髪も綺麗に編み上げ、金色の薔薇のようにされている事がクラリスの機嫌をより良くさせたらしい。にんまりと笑うクラリスは、レイラとロナルドに向かって「おはよう」と声を掛けた。


「おはようございますクラリス様。ドレス、とても素敵ですわ」

「貴方の好みではないでしょう?」


ぎくりと表情を強張らせたレイラに、クラリスはふふんと鼻を鳴らす。言葉の通りなのだが、正直にそれを伝えて良いのか分からない。困り顔をして曖昧に笑っているよりは、正直に言った方が良いのだろう。


「そうですね。今度は私からドレスをお贈りしても宜しいですか?」

「構わないわよ。交換したみたいで楽しいわ!」


今までこういった返しが来た事は無いのだろうか。嬉しそうに笑うクラリスは、レイラと同じ赤い生地を使ったドレスを身に纏い、さあ早く座れとレイラの手を取った。


「クラリス、レイラを転ばせないでくれよ」

「分かっておりますわ」


中で座っていたローガンは、楽しそうにしているクラリスに向かって注意する。可愛い妹を転ばせてくれるなと睨みつけてはいるのだが、クラリスは怯むどころかフンと鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

随分と仲良く会話をするのだなと感心するレイラの隣で、ロナルドは男爵と何やらこそこそ話をしている。何を話しているのかまでは分からないが、ロナルドが笑っている様子を見るに何か楽しい話をしているのだろう。


「ねえレイラ様、お食事が終わったら私と二人でお散歩しません?お庭を案内したいの」

「素敵ですわね。是非お願いいたします」


庭を自慢する友人は二人目だ。色味や見た目の雰囲気は随分違うが、はっきりと物を言うところは似ている。

アイリスに何かお土産でも持って帰らなければ。何も説明せずに屋敷を出てしまったし、あれだけ楽しみにしていた船上ダンスにも参加していない。きっと心配しているだろう。


「久しぶりに妹と再会したっていうのに…」

「真夜中に沢山お話したじゃありませんか。少しくらい譲ってくださいませ」


まだ話したい事があると拗ねるローガンに、にんまり笑うクラリスは譲らないとレイラの腕に自身の腕を絡める。まだそう深い仲ではないと思っていたのだが、随分と気に入られたようだ。


「俺は男爵と商談を。兄上様にも是非ご同席願いたいのですが」

「俺も?構わないけれど、俺に商才は無いからね」


義理の弟にどう接したら良いのか分からないのか、ローガンはぎこちなく笑う。これから何度も会えたら良いのにと思うのだが、ローガンは国には戻らないと言う。それならばレイラが会いに来るしかないのだが、現実的では無いだろう。


「ささ、食事が冷めるとコックから叱られる」


そう言って席に座るよう促す男爵は、隣に並んで座るローガンとレイラを見て目を細める。

八年ぶりの再会。かつては当たり前のように並んで座っていたであろう二人が、漸く再会出来た事をこの場にいる誰もが喜んでいた。


◆◆◆


「どう思います!」


ぐいぐいと距離を詰めてくる人間をたった一人だけ知っていた。夫だ。

そして今二人目を知った。クラリス・アンネ・ピノアという女性だ。

綺麗な顔を不安げに歪めながら、自慢の庭の片隅で誰にも見られないように隠れてレイラに縋りつく。


庭の隅に小さな家があった。クラリス曰く庭仕事の道具が入っているそうだが、外から見ると農村の小さな家のように見えた。

実際中に入って少しお茶をするくらいは出来るそうだが、今は家の影でクラリスに迫られている。二人きりになったのは失敗だっただろうか?と若干の後悔をしながら、レイラはクラリスを落ち着かせるように肩をぽんぽんと優しく叩いた。


「あの、申し訳ありません…話が飲み込めませんでした」

「ですから、ローガン様がこのまま我が家に留まってくださる為にはどうすれば良いと思いますか?」


親切にも屋敷の前で倒れていたローガンを保護し、世話をしてくれていた事には感謝している。だが、今後ローガン本人がどこでどう生活するのかは本人次第だ。

クラリスはこのままピノア家で一緒に生活したいと言うのだが、ローガンはレイラに一目会えたら出て行くと言っているらしい。それが嫌だ、どうにかして引き留めたいと必死で訴えるクラリスは、まるで恋する乙女のように見えた。


「本人を説得するしかないと思いますけれど…」

「分かってるわ。でもローガン様は絶対に出て行く、これ以上迷惑を掛けたくないと仰るのよ!」


迷惑なんて!と呻くクラリスは、何度もローガンを引き留めようと説得したのだろう。がっくりと肩を落とし、レイラが帰ったらきっとローガンもこの屋敷を去ってしまう。それが嫌だと静かに涙を流した。


「何故、そのように兄を引き留めようとなさるのですか?」

「…初恋なの。私の言いたい事を汲み取ってくださるし、とてもお優しいお方だわ。辛い思いを沢山されたのに、強く生きようとしているところが素敵なの」


はらはらと涙を流しながら、クラリスは言う。ローガンのおかげで、退屈な毎日に彩が与えられた。自分の知らない国の話や、会った事の無い妹の話。辛い出来事について詳しく話す事は無かったが、逃亡生活の途中であった楽しい話をあれこれ話してくれる時間が好きなのだと言う。


「自分でも分かっているの。何でも正直に言葉にしすぎてしまうから嫌われるんだって。でもローガン様はそれが私の悪い所だけれど、良い所でもあると言ったわ。咎められる事はあっても、認めてくださったのはローガン様だけなの」


手の甲で涙を拭うと、クラリスは真っ青な瞳を真直ぐにレイラに向けた。

薔薇色の唇をきゅっと引き結び、絶対に譲らない、譲れないと固い意志を持った顔をしているように、レイラには見えた。


「私は欲深いの。初恋の相手をあっさり見送るなんて事は出来ないわ」

「でも、どうするか決めるのは兄ですわ」

「そうよ、だから私を選んでもらいたいの」

「難しいのでは…」

「どうしてそう思うの」


キッとレイラを睨みつけるクラリスの表情は恐ろしい。容姿が美しいと、怒った顔はとても迫力がある事を初めて知った。

うろうろと視線をさ迷わせるレイラに苛立ったクラリスは、早く言ってと急かす様に溜息を吐きながら両腕を組んだ。


どう言ったらクラリスは納得するだろう。考えるから少し待って欲しいと手で制しながら、レイラは小さく声を漏らしながら考え込んだ。

過去の記憶は無い。かつての兄がどんな人だったか覚えていないし、朝方八年ぶりの再会を果たしたばかりだ。兄がどんな人間で、どんな性格をしているのかさえ分からない。

だが確実に分かる。クラリスに説得されても、ローガンはそう簡単には頷かない。


「兄は…家族を持たないと思います」


素直に零れ落ちた言葉に、クラリスは大きく目を見開いた。

身を引き裂かれるような思いをした。あっという間に家族を失った。そんな経験をしたローガンが、家族を持つ気は無い。それは、クラリスにも何となく分かっている事だった。


「私は記憶を持ちません。兄がどのような性格で、どのような方なのかは存じません。きっと、クラリス様の方がよくご存知でしょう。クラリス様から見て、兄はどのような人ですか?」


静かに問いかけるレイラの声に、クラリスはゆっくりと俯いていく。受け入れたくない現実を、今ゆっくりと受け入れようとしているのだろう。今はこれ以上何も言わない方が良いのかもしれない。

だが、クラリスはとても優しい女性だ。見ず知らずの行き倒れ、まして隣国の罪人の息子を屋敷で保護し、世話をしてくれたピノア家に兄がいてくれるのなら、レイラとしても安心だ。ネルソン家に戻った後も、手紙を出せるようになるかもしれないのだ。安心できる場所に居てほしい。安心して生きていてほしい。そう願う妹の気持ちを、兄はどう考えるのだろう。


「クラリス様がお傍にいてくださったら、私はとても嬉しいのですけれど」

「今貴方が言ったのよ。無理だって」

「難しいと言ったのです」


むっとした表情を浮かべるレイラに、クラリスは濡れた頬をゆっくりと持ち上げる。無理をして微笑むクラリスは、もう涙を浮かべる事は無い。ゆっくりと二人で庭を回り、赤くなってしまった目元が元に戻った頃、レイラとクラリスは屋敷へと戻り始める。


商談とやらが終わったであろう男衆の元へ、何の話をしていたのか問い詰めようと笑い合いながら。


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