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三十五話

長旅は疲れるものだ。想像はしていたのだが、実際に経験すると想像していたよりも疲れるものだった。

ぐったりと疲れ切った表情を隠す事も出来ないレイラは、二つ目の目的地に到着したところだ。


ダラム伯の屋敷を出てから七日。時々馬を交換したり、休憩を挟みながら最速で移動して七日。用事を済ませてもう一度ソルテリッジに帰る時には何日かかるだろう。


「ようこそ、ネルソン様」


恭しく頭を下げる使用人の前で、レイラとロナルドは寄り添って立っていた。予定していたよりも遅くなり、すっかり月は空高くへ昇ってしまっている。


「真夜中になってしまって申し訳ない。ご家族はもうお休みかな?」

「起きてたわ」


玄関ホールから響いた女性の声。疲れて視線を下げていたレイラは、声の主に視線を向けた。金色の豊かな髪をさらりと揺らし、品よく纏められた紫色のドレスを身に纏うクラリスだ。


以前兄を保護していると言っていたこの令嬢は、何度かレイラに向けて手紙を送ってくれていた。ダラム伯に勘づかれないよう偽名を使う等してくれていたが、七日前に見たダラム伯の様子から想像するに、そこまでしなくても良かったかもしれない。


「遅かったわね。待ちくたびれちゃった」

「申し訳ない」

「冗談よ。お食事は?それとも、少しお休みになる?」


どうしようかと視線を向けるロナルドに、レイラはふるふると小さく首を横に振った。

そんな事をしている時間がもったいない。この屋敷に、ピノア邸に来るために、わざわざ国境を越えて来たのだ。


「せめてお風呂に入った方が良いわ。二人とも猪みたい」


七日間一度も風呂に入っていないのだ。まして着替えなどする事もなかった。つまりは、そういう事だ。

ふいに恥ずかしくなったレイラは、すっとロナルドから距離を開ける。


「支度は出来ている?」

「はい、お嬢様。お二人分の湯船とお着替えのお支度を」

「良いわ。どうぞお二人共。お風呂が済んだらお食事を。厨房メイドたちが待っていたから」


クラリスの言葉に、出迎えてくれた使用人はどうぞとにこやかに手で指し示す。どこからか現れたメイドが、レイラに向かって頭を下げた。


馬車に積んできていた荷物は、デイジーとフランクが運んでいった。きっと用意されている客間に運ばれているのだろう。


風呂と食事を済ませたら、八年ぶりの家族との再会。どきどきと高鳴る胸。何を話そう。話したい事は沢山あるのだが、何から話せば良いのか分からない。


再会を喜んでくれるだろうか。それとも、一人だけ安全な場所にいて、幸せな結婚生活を送っていた事を詰られるだろうか。どんな人なのだろう。どんな顔をしているのだろう。母に似ているのか、父に似ているのか。どちらに似ていても、両親の顔は思い出せない。考えたところで無駄だ。


兄に会う為にこの屋敷に来た。逃げない。きちんと向き合うのだと決めたのだ。

大きく息を吸い込んだレイラは、見慣れないメイドの背中を真直ぐに見据えて歩き出した。


◆◆◆


どこからか男の怒鳴り声がする。誰かが怒っているという事は想像出来たが、それが誰なのかまでは想像出来ない。

もしかしたら真夜中に到着した客人が、屋敷の主に挨拶をする事も無く世話を焼かれている事に主が怒っているのかもしれない。


風呂から上がり、真新しいドレスを着せられたレイラは、濡れた髪をメイドに拭かれている最中だ。

長い金色の髪は、きちんと乾くまでに時間が掛かりそうだ。


—レイラは何処だ


部屋の外から聞こえた声に、レイラの肩がびくりと揺れた。怒鳴り散らしている男が探しているのは自分。そう察すると、レイラは困惑した顔をメイドに向けた。


「失礼致します」


申し訳なさそうに頭を下げると、メイドはそっと部屋と扉を細く開く。途端に大きく響く男の声。恐ろしいと思ってしまう程の声量で、男はレイラの名を叫んだ。


「私の妻に何か」

「妻!お前の?お前の妻がレイラだと?!」


落ち着きはらったロナルドの声。それに続いた男の怒声。一体何なのだと怯えながら、ロナルドがいるならばとレイラはそっと扉へと近付いた。


風呂上りで濡れ髪のロナルドの顔は見えた。怒鳴り散らしている男の顔は見えないが、レイラと同じ金色の髪をしている事だけは分かった。


「ローガン様落ち着いてくださいまし。まだ身支度をされてらっしゃる頃ですから」

「本当にレイラなんだろうな?俺を謀っているんじゃないな?」

「謀るだなんてそんな…お顔を見ればお分かりになられるでしょう。とてもお美しいお方です。先日ローガン様に見せて頂きましたお母様の肖像画とそっくりでしたわ」


大騒ぎをしている男を落ち着かせようとしているのか、クラリスは落ち着けと男に語り掛け続ける。

まだ興奮している男の背中。金色の髪をした、背の高いこの人がローガンと呼ばれていた。つまりそれは、自分の兄。


「…おにいさま」


思わず漏れた声。それに反応した男が、勢い良くこちらに振り向いた。

茶色の瞳をした、少し釣り気味の目をした若い男。扉の隙間から覗いている女を前に、ふるふると小刻みに唇を震わせた。


「…レイラ?」

「はい、レイラです」

「本当に?レイラ・コリンズ?」

「証明が必要ですか?お待ちくださいね、持ってまいりましたから」


そっと扉に近付いたローガンは、無理に扉を開くような事はせず、震えた声でレイラに問いかけた。

八年ぶりに会った妹。成長していて雰囲気が変わっているなり、そもそも顔を思い出せないなり理由があるだろうと考えたレイラは、持って来ていた荷物の中から一冊の本を取り出した。


以前クラリスにも見せた、コリンズ家の本。古ぼけたこの本を見せれば、信用してくれるのではないかと考えたのだ。


「これで証拠になりますか?他にも沢山持ってまいりましたの。お母様の指輪、覚えていらっしゃいますか?お父様のブローチは」


扉を開きながら、レイラは片手で本を差し出す。矢継ぎ早に他に持って来た家族の荷物を並べ立てれば、ローガンは涙を堪えながら何度も頷いて本に触れた。


「母上の指輪はルビーのもの?いつも左手の薬指に嵌めていた。父上のブローチはどれ?お気に入りは船の銀細工だった。洒落た人だったから、ブローチがどれだか分からないよ」


ぽろぽろと零れ落ちる涙が、ローガンの手を濡らす。それに釣られ、レイラの目からも大粒の涙が零れて落ちた。


「ごめんな、ごめんよレイラ」


声を上げて泣き出したローガンはその場に蹲る。無事で良かった、生きていてくれて良かった。神よ感謝します。

そう繰り返しているのだが、その場にいる誰も聞き取ることは出来なかった。


「おに、さま…ごめんなさい、ごめんなさい!私一人だけ!」


同じようにその場に崩れ落ちたレイラも声を上げて泣き出す。兄妹揃って泣き出した事で、ロナルドとクラリスはどうしようかと顔を見合わせた。今はそっとしておくべきなのか、それとも落ち着いて話が出来るよう、温かい飲み物でも支度させようか。先に答えを出し、使用人に指示を出したのはクラリスだった。


◆◆◆


ぱちぱちと薪が爆ぜる音がする。

談話室の暖炉の前で、レイラは持って来ていた大きな鞄の中からあれもこれもと荷物を取り出して床に並べていた。

すぐ隣に座っているローガンは、懐かしい物を見たなと微笑みながら一つの小箱を手に取った。父のエメラルドのブローチが収められた箱だ。


「素敵ですね」

「父のものだ。夜会に行くときに身に着けていたのを見た事があるよ。確か代々受け継がれているものだと言っていた」


コリンズ家の当主が代々受け継いで来た小さな宝。それを掌に収め、ローガンはブローチの背面を見る事なく、彫られた文章を暗唱してみせた。


「一族の誇りを忘れるな。父がよく俺にそう言っていたよ」


父との思い出を懐かしみ、ローガンはブローチをぎゅっと握りしめる。両親との思い出がある事をほんの少し羨ましく思いながら、レイラは空になった鞄を端に避けた。


「思っていたより沢山持って来たんだな」


ずらりと並べられた品々を見ながら、ロナルドは小さく笑う。呆れているのだろうが、屋敷を出る直前のレイラは必要だと思ったのだ。


少しでも、兄に家族の品を渡してやりたい。本当に妹だと信じてくれなかった時、出来るだけ証明に足る品を差し出せるように。

流石に多かっただろうかと改めて並べた品を見つめながら、レイラは恥ずかしそうに俯いた。


「私が本当にレイラ様なのか疑ったからですわね。あの時は本当に申し訳ございませんでした」

「いえ、お気になさらず。疑うのは当然の事ですもの」


眉尻を下げるクラリスに、レイラは小さく笑う。本当に気にしていないと小さく手を振ると、ローガンは妹の夫であるロナルドに視線を向けた。


「先程は気が動転していたとはいえ、申し訳ない事をいたしました」


深々と頭を下げるローガンに、ロナルドは慌ててやめてくれと言葉を返す。

どことなく妹であるレイラに似た顔をした男に頭を下げられるのは居心地が悪いのだ。


「レイラ様、これは何ですの?」


男二人の気まずいやり取りを気にしていないのか、クラリスは小さな船の置物を手にレイラに問いかける。

贈られてきた時の手紙に何と書いてあったのか思い出せないレイラが口ごもっていると、隣からローガンが「あ」と声を上げた。


「それ俺の部屋に置いてたんだ。トラヴァーが俺の誕生日にって作ってくれたんだよ」


木彫りの小さな船を懐かしみながら、ローガンは現在コリンズ社の副社長を務めているオズモンドの名を出した。

綺麗に残っていたんだなと嬉しそうに微笑み、持って来てくれた事をレイラに感謝した。


これは父の嗅ぎ煙草入れ、こっちは母のブレスレットで、あれは自分のスタンプリング。どれが誰の物なのか把握しきれていないレイラに代わって、全ての物を誰の物だと説明してくれるローガンに、誰もが視線を向けた。


「また見られるなんて思わなかった」


母の物だというシルクのハンカチを握りしめながら、再び泣き出したローガンの背中を、クラリスが静かに摩る。

すすり泣く男の声と、薪が爆ぜる音だけが真夜中の談話室に響いていた。


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