三十四話
それは夜も更けた頃だった。
眠りから覚めたダラム伯の部屋に呼ばれたレイラとロナルドは、ベッドから起き上がる事も出来ず、骨と皮だけになった男の前で立っていた。
「このような姿だが…許せ」
「ええ、起き上がっていただく必要はございませんわ」
か細い呼吸を繰り返す男は、ダラム伯デイビット・モーガンと名乗った。名前になど興味は無いが、名乗られたのならば此方もきちんと挨拶をすべきだろう。
大嫌いな、憎き仇の男を前に少々尊大な物言いになったが、呼吸を繰り返すだけで精一杯なデイビットは不機嫌そうな顔をする事すら無かった。
「レイラ・ネルソンと申します」
「ロナルド・ネルソンと申します」
「ああ…知っているよ、小さなお嬢さん」
殆ど見えていないのか、デイビットの視線は僅かにレイラから逸れている。首を動かす事も辛い様子だが、病人を休ませてやる気など今のレイラには更々無かった。
「私に何か、用があるのかな」
「ええ、貴方が死ぬ前に両親の仇の顔を見ておこうと思いまして」
あまりに直接的すぎるレイラの言葉に、隣に立っているロナルドも、案内してくれた使用人も言葉を失ったままレイラを見つめる。
「母のドレスと、父のブローチを身に着けてきましたの。きっと見えてはいらっしゃらないのでしょうけれど…よくも私から家族を取り上げてくださいましたね」
待たされている間、レイラは持って来ていた両親の遺品を身に着けていた。母の着ていたらしい銀色のドレス。父のエメラルドのブローチ。一人だけ夜会にでも出かけるような恰好になってしまったが、レイラはそうしたかった。
「ああ…素敵なドレスだ」
「お褒め頂き光栄ですわ。夜会でこれを着ていた母はどれだけ素敵だったでしょうね」
「…素敵な、女性だった」
掠れたデイビットの声。ぜいぜいと苦しそうな呼吸をしていても、言葉が途切れることは無かった。会話をしようと必死で呼吸を繰り返し、少しでもにこやかであろうとしているのか、無理に口角を引き上げる。乾いていた唇が割れたのか、うっすらと血が滲んだ。
「ご自身の欲の為に、素敵な女性を薄暗く狭い場所へ閉じ込めたのですね。どんな気分だったのかしら」
「従わない女に、価値は、無いよ」
何て傲慢なのだろう。こんな男のせいで、欲に溺れた男のせいで両親は死んだ。コリンズ家は永遠に失われた。もう二度と、あたたかな家族に名を呼んでもらう事すら出来ない。大好きだったであろう両親から引き剥がされ、惨めな少女時代を過ごす事も無かった筈なのに。
「君は、不要な物を大切にする…かな」
「いいえ?必要とする方に譲るか破棄しますわ」
「そうだろう、一緒だ」
カッと頭に血が上る。
不要な物、ゴミと同列にされたのだ。実の両親をゴミと同列に扱われ、冷静でいられる子供がいるだろうか。今にも掴み掛りそうなレイラに気付いたロナルドが、そっとレイラの手を取った。
「私が生かされたのは、まだ使えるからという事でしょうか」
「そうだ。だが…馬鹿息子は、君を金で売り渡してしまった」
馬鹿だよ。そう呟くと、デイビットは苦しそうに呻いて顔を顰めた。体が痛むのだろう。どんな病気だか知らないが、苦しんでいるところを想像するのと実際に目の前で苦しまれるのとでは違う。僅かに狼狽え、レイラはベッドの傍に立っていた使用人に視線を向けた。
「申し訳ございません、これ以上は…」
「ああ、もうお話しいただかなくて結構ですわ。私が一方的にお話いたしますから」
にっこりと微笑むレイラに使用人は面食らいながら、デイビットに薬を飲ませようと支度をし始める。
「私の家族を奪ってくださいましたね。我が父の椅子も、不当に占拠されているわ」
ぎゅっと握った拳が小刻みに震える。ロナルドが握ってくれている方の手は力を入れないようにしているが、悔しくて堪らなかった。
いざ目の前にしてみても、相手は死にかけの病人。殴り掛かるなんて勇気もなく、復讐なんてする気にもならない。そんな事をしなくても、この男はこれからすぐにでも死んでしまうのだから。
「近々その椅子をお返しいただきますわ。ご子息のブルック様がお返ししたいと私に仰いましたから」
「なにを…」
「旦那様」
喋るなと諫めようとする使用人の手を払い除け、デイビットは血走った目をレイラに向ける。
「女に爵位を継ぐ権利は御座いません。勿論、夫にもその権利はありませんわ」
「まさか」
「ええ、生きておりますの。子供にはお優しい方で、本当に良かった」
穏やかに、美しく微笑むレイラの前で、デイビットは唇をわなわなと震わせる。
レイラにとってこれは賭けだった。デイビットがローガンが生きている事を知っていれば、既にどうにかしてローガンを消そうとしていただろう。今までそれをしなかったのは、国外に逃げていて安全だと思っていたのか、それとも死んだと思っているから何もしなかったのか、そのどちらかだと踏んでいた。
「貴様…」
「…申し訳ございません」
じろりと使用人に怒りの目を向けたデイビットは、細くなってしまった手で使用人の手を掴む。よくもと震える声。ざまあみろと鼻を鳴らすレイラは、満足げににんまりと笑ってみせた。
「何も手に入りませんわ。貴方はただ、私の両親を無実の罪で訴え、殺しただけ。ああ、借金の返済は少しは進みましたか?これから先の返済は、ご自分たちでどうにかなさってね」
ふふふと小さく笑ってみせたレイラは、そっとベッドに近寄った。
悔しそうに目を見開いたデイビットの前でゆったりと微笑みながら、口を開く。
「父ほど優しくないのよ、私」
ずいとデイビットに顔を近付けると、流石に見える位置まで来ていたのか、デイビットは微かに唇を動かした。誰かの名前を呼んだようだが、あまりに小さな声で聞きとる事は出来なかった。
「お疲れ様で御座いました」
そう告げると、レイラはそっと夫の隣へ戻る。腕を絡め、満足だと微笑むとロナルドは小さく頷いて部屋を出るべくデイビットに向かって頭を下げた。
「待ってくれ…」
弱弱しい声。後ろを振り向いたレイラに、デイビットは手を伸ばした。
「私の…何が、どこが…駄目なんだ」
「知りません。貴方の事をそこまで知らないもの」
レイラの言葉に、デイビットは一筋涙を零す。何故泣くのか分からない。泣きたいのは此方だ。両親を殺され、たった一人修道院で生活してきたのだ。
幸せに過ごしていた筈。しなくても良い経験をさせられた。どれだけ恨んでも恨み切れない。
もう二度と会う事は無いだろう男の涙を冷めた目で見ると、それ以上興味の無いレイラはふいっと顔を背けてロナルドと共に歩き出す。
結局何がしたかったのか自分でも分からない。ただ顔を見られて満足した。骨と皮だけになった男を前にしてしまっては、怒りをぶつける気にはなれなかったのだ。
「旦那様、旦那様!」
後ろから聞こえる使用人の声。きっとこれからこの屋敷は騒ぎになるだろう。最期に間に合って良かった。今はそれだけで満足だった。
◆◆◆
ぼうっと呆けたまま、レイラは動かなかった。真っ青な、どこまでも遠く、広く広がる空。なんて綺麗な色なのだろう。呆けたまま馬車の中から窓の外を眺めるレイラを見つめるロナルドは、がたごとと馬車に揺られたまま何も話さない。いや、話せないのだ。
どれだけ憎んでいるだろう。
愛する家族から引き離され、愛する両親が死んだのだ。どれだけ恨んでも恨み切れない相手を前に、レイラは殆ど怒りをぶちまける事すらしなかった。出来なかったという方が正しいのだが、ロナルドから見れば、その姿はただ美しく、痛々しく見えた。
「ロナルド様」
「うん?」
「私、まだ行きたいところがありますの。お付き合いくださいますか」
「勿論」
煌びやかなドレスから既に着替えているレイラは、数時間前に着ていた余所行きのドレスに戻っていた。少々疲れた顔をしてはいるが、ロナルドに向ける表情はとても穏やかで、にこやかに微笑んでいるようにも見えた。
「大丈夫かい」
「何がです?」
「仇を前にして、緊張していたんじゃないかと思って」
「緊張はしました。ですが、思っていたよりも罵詈雑言を並べ立てる事は出来ませんでした」
ぽつぽつと呟くレイラは、静かに視線を自分の膝に落とす。軽く組んでいた手をぎゅっと握りしめ、唇を噛んだ。
爪の先まで丁寧に手入れをされた真っ白な手。修道院にいた頃は、カサカサとしていた筈なのに、ネルソン家に嫁いでからは当然のように頭の先から足の先まで、隅々まで整えられるようになった。それが当然だとデイジーは言った。そうされるべき身分に生まれたのだから、これから先の人生はその当たり前を思い出しなさいとクローディアは言った。
その当然を、母は理不尽に奪われた。
母が死にゆくとき、母は美しさを保ったまま死ねただろうか。顔も覚えていない母。貴族の妻として生きていたのだから、きっと当たり前のようにその容姿は磨き上げられた作品のように美しさを誇っていたのだろう。そう思いたかった。
「結局…私の家族は何のために奪われたのでしょうね」
そう呟いたレイラの目から、はらはらと涙が落ちる。
あの男が手に入れたかったものは、話しぶりからしてレイラの母なのだろう。淡い恋をしていたのか、それとも結婚し子供を儲けた後でも奪いたいと思う程激しい恋情を抱いていたのかは分からないが、あの男は母に執着していたようだ。
父を大罪人として貶めたのは、離縁するなりして一人になった母を囲い込む為だったのか。それとも、自分のものにならなかった母に対して恨みを募らせた結果理不尽な行動に出ただけだったのか。
何にせよ、あの男の欲望の為に家族を奪われた事だけは理解した。
何故、あんなにも酷い事が出来たのだろう。己の妻を王の愛妾として差し出し、その妻に強請らせ慈愛の男爵を大罪人に仕立て上げたなんて。信じられない、信じたくもない事をされた結果がこれだなんて。
そこまでして、デイビットは何も得られなかった。愛しいと思った筈の女も、憎いと思った男の爵位すらも、何もかも手の中からすり抜けていく。ざまあ見ろ。そう思う事は出来ても、レイラとて家族を奪われたのだ。
実家も財産も、持参金すら用意出来ない、何も持たない一人のか弱い女にされた。そんな女を愛してくれる夫は手に入れたが、それでも血の繋がった家族は失った。
「レイラ」
「はい?」
「泣きたいなら泣いたら良い。これからまだ行くところがあるんだろう?到着する前に、一度落ち着くまで命一杯泣いたら良い」
全部受け止めるから、好きなだけ泣いて良い。
そう続けたロナルドは、そっとレイラの隣に腰かける。向かいに座ったままでも良かったのだが、今のレイラはロナルドに隣に居てほしかった。
ぼろぼろと零れ落ちる涙。言葉にならない罵詈雑言を並べ立てた。咳き込む程喚いた。
何故、どうして、なんで。
何度も繰り返されるその言葉に、誰も答える者などいる筈も無い。化粧が涙で流れ落ちようが、酷い顔になろうが止まってはくれない涙を、ロナルドはただ黙ってハンカチで拭い続けてくれた。
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