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三十二話

どうして楽しい気分のまま一日を終える事が出来なかったのだろう。ロナルドの言う事を聞いていれば、こんなにも心が重たくなることは無かったのだろうか。それとも、ああしたのが正解だったのだろうか。

どちらにせよ、ブルックがレイラに接触してきた時点で楽しい気分で終われる事は無かっただろう。


何も話さないまま別れず、きちんと向き合った。それで良かった。良かったが、家族の仇が病に倒れている。いつか復讐をと考えていたのに、何も出来ないまま相手は永久の眠りに落ちようとしている。恨み言の一つも言えないまま、頬を張り倒す事も出来ないまま。ただ、守られ閉じ込められたままその時を待つだけだなんて。


なんて惨めなのだろう。

なんて悔しいのだろう。

家族の仇の顔すら知らない。どうせ後悔などしていないのだろうが、父を陥れた事をどう思っているのだろう。


ベッドでじっと熊のぬいぐるみを抱きしめ横になっているレイラの背中に寄り添うように、小さな猫が丸まっている。

じんわりと伝わる熱。小さくて温かい子猫の体温が、今は一人ではないと教えてくれているように思えた。


「おいでジェマ」


ぬいぐるみを手放すと、レイラはころりと寝返りを打って子猫を抱き寄せる。折角寝ていたのにと不満げだが、ジェマは大人しくレイラの腕の中に収まった。


小さくみゃあと声を上げると、すりすりとレイラの頬に頭を擦り付ける。すっかり懐いてくれたようで嬉しいが、ジェマの体温とぐるぐると鳴らされた喉の音に、レイラの目頭が熱を持つ。


いつまで泣いて暮らすのだろう。ツンと痛む鼻の奥。涙を零すまいと必死で唇を噛み締めるのだが、ぽろぽろと流れてしまう涙は止まってくれない。

落ちて来た水滴をジェマがぺろりと舐める。ざらざらとした舌が痛い。都合の良い解釈をしているのだろうが、小さな子猫なりに「泣かないで」と慰めているような気がした。


「ねえジェマ、家族ってどんなかしら」


こんな事を子猫に聞いてどうするのだろう。ふっと自分の言葉の馬鹿馬鹿しさが可笑しくなり、口元を緩ませた。


「私ね、家族の顔を覚えていないの。あなたはどう?」


大きな欠伸をしているジェマは、レイラの問いに答える事はない。当然の事なのだが、今のレイラにはそれが心地よかった。


「寂しいわ。とても。会いたい」


心からの言葉。家族に会いたい。

これから先の人生は、新しい家族であるネルソン家の人々と生きると決めた。決めはしたが、元の家族を忘れられたわけでは無い。一度で良い。たった一度で良いから、名前を呼んで抱きしめてほしかった。


「お母様ってどんなかしら。本で読んだお母様は皆優しい人だったわ。お父様も、厳しいけれどお優しい方だとか、娘に甘い方だとか、色々な方が出て来たわ。私のお母様とお父様って、どんな方だったのかしら」


ゆるゆるとジェマの小さな背中を撫でながら、レイラはぽつぽつと呟く。

父は困った人には手を差し伸べる優しい人だったと何度も聞いた。他人にそれだけ優しかったのなら、家族にはどれだけ優しかったのだろう。もしかしたら厳しかったのかもしれない。

顔も思い出せない両親を想いながら、レイラはジェマの背中を撫で続ける。


兄はどんな人だろう。生きているのなら会ってみたい。兄ならば両親の事を覚えているだろうか。会いたい。会って聞きたい。かつての家族の話を。


「レイラ、起きてる?」


コンコンとノックの音。

相変わらず夫は、朝になるまで放っておくことはしてくれないらしい。再び眠りを妨げられたジェマは、今度こそ不機嫌そうに起き上がると、ぴょんとベッドから飛び降り扉をカリカリと引っ掻いた。


「こらジェマ、出してあげるから引っ掻くんじゃないよ」


そっと開かれた扉の向こうから、ロナルドがジェマを嗜める声がする。さっさと出て行ったジェマがその言葉をきちんと聞いたようには思えず、レイラは小さく笑った。


「起きていますよ。どうぞお入りください」


部屋へ入って良いと許可を出されたロナルドは、眉尻を下げながら部屋を覗き込む。

祭りから逃げるように帰ってきたレイラがそのまま部屋へと引きこもってしまった後、ロナルドはそわそわと自室でどう励まそうか考えていたようだ。顔を見るだけでそこまで分かるようになるとは、随分と夫婦らしくなったという事なのだろうか。


「レイラ…」

「お話がしたいです」

「ああ、勿論」

「冷たいレモネードが欲しいです。沢山、お話したい事がありますの」


ぽつぽつと呟くレイラは、祭りに出掛けた時の恰好のままだ。余所行きのドレス姿のまま、ベッドの上に座っているレイラは、真っ暗な部屋の中月明りに照らされている。

すぐに持ってくるよと微笑んだロナルドが部屋を出て行くと、レイラはほうと小さく息を吐いた。


何から話そう。頭の中がまだ纏まらない。自分が何を話したいのかも、どうしたいのかも分からない。分からないが、今はただロナルドと話がしたかった。


◆◆◆


さあ、何を話そう。何から話そう。

二人で並んで座るソファーはふかふかと柔らかい。出て行ってしまったジェマはまだ戻って来ない為、今はレイラの部屋で夫婦二人きりだ。

よく冷えたレモネードが注がれたグラスが二つ、小さなテーブルの上に並んで置かれているのをじっと見つめながら、レイラは膝の上でぎゅっと拳を握りしめた。


「あの…ごめんなさい」

「うん?」

「ロナルド様の言う事を聞きませんでした。挙句帰ると言い出し帰りました。折角のお祭りでしたのに…お義父様とお義母様にも申し訳ない事をいたしました」


しょんぼりと肩を落とすレイラに、ロナルドは小さく笑う。

レモネードを取りに行ったロナルドを待っている間、着替えさせろと言われたらしいデイジーが着替えを手伝ってくれた。すっかり寝間着姿にされたレイラは、ふわふわと柔らかい寝間着の少し長い袖をぎゅっと握りしめた。


「うーん…ちょっと寒いな。火の傍に寄ろう」


俯くレイラの肩を抱きながら、ロナルドは赤々と燃える暖炉の炎の傍へ寄る。真冬のソルテリッジは非常に冷える。屋敷の中は過ごしやすいように温められているが、それでも夜になればじわじわと体を冷やした。


「謝らなくて良い。あの時のレイラは、きっとああするのが一番だと思ったんだよ」

「でも…」

「でも?」

「もう少し、冷静であるべきでした」


いくら怒りに震えていたとはいえ、興奮しすぎた。夫の目の前で怒鳴り散らすような真似をしてしまった。冷静になるととても恥ずかしい事をしたと頭を抱えたくなった。


「レイラがあんなに大きな声を出すなんてね。少し驚いたけれど、あれは当然の事だ。むしろ、止めようとして悪かった」


怒る権利がある。話をする権利がある。好きにして良かった。そう呟くロナルドは、何かを決めたような、まだ迷っているような目をレイラに向けた。


「私は…酷い事を言いました。いくら家族の仇であっても、あの方にとってはお父様ですのに」

「あれは仕方ないよ。それに、言われて当然だと思っていて男爵は話をしようと言い出したんだ。言って良いんだよ」


優しくレイラの背中を撫でるロナルドは、落ち着かせるような低い声色で語る。

八年もの間修道院に閉じ込められていた。仇である男の息子に嫁がせる為に生かされていた。全ては、金になるソルテリッジの領主である為に。民を従わせる為に。


怒って当然。恨んで当然。それだけの事を、あの者たちは行った。


そう声を震わせたロナルドは、すうと大きく息を吸い込んだ。


「レイラは、俺に何か話があったんじゃなかったの?」

「少し…いいえ、暫くの間、ソルテリッジを離れたいのです」


レイラの言葉に、ロナルドの返事は無い。ぱちぱちと薪が跳ねる音がした。石炭を使おうという話はしていたが、祭りの支度に追われているうちにあっという間に冬になってしまったのだ。

言ってしまったは良いが、何も答えてもらえないのは何となく気まずい。肩を寄せ合い、床に座って火に当たる二人は、ただ黙って暖炉を見つめる。


「何処か行きたいところがあるの?」


先に口を開いたのはロナルドだった。

レイラに何か考えがあるから言い出した事だと分かってくれているらしい。優しい声色で問いかけると、こつんと頭をレイラに寄せた。


「ダラム伯様のところへ」

「死の床へ?」

「はい。恨み言を並べ立ててさしあげなくては」

「俺の妻は思っていたより血の気が多いな」


クスクスと笑うロナルドは、駄目とは言わなかった。


「良いよ」

「…本当に?」

「うん。どうせレイラの事だから、駄目って言っても一人で行ってしまうだろう?だったら、俺も一緒に行く」

「でもお仕事がありますし」

「仕事も大事だけれど、今はレイラの方が大事」


支度をさせないとねと笑ったロナルドは、レイラの金色の髪を愛おし気に撫でる。

行くなと言われる事は想像していたが、一緒に行くよと言われるとは思わなかった。

ぱちくりと目を瞬かせ、レイラはロナルドの真っ黒な瞳を見つめた。どこまでも深い黒い色。大好きな色。安心する色。


「来てくれるの…?」


震えたか細い声。レイラの声に、ロナルドはにっこりと微笑んで答えた。

本当は一人で行くのが怖かった。いくら死にかけているとはいえ、相手は親の仇なのだ。ネルソン家の人々も、恐ろしいと散々警戒していたし、近寄ってはいけないと言い含められていた。そんな男に一人で会いに行くのは怖かった。


絶対の味方である夫が一緒に来てくれるのなら、どれだけ心強いだろう。どれだけ安心していられるだろう。


一緒に行くと言ってもらえただけでこんなにも安心してしまうのだから。


「当たり前だろう?レイラは俺の大事な奥さんで、この世界で唯一、俺が愛した人なんだから」


ああ、また泣きそうだ。

ぐっと唇を噛み締め、くしゃりと顔を歪ませたレイラを、ロナルドは困ったように笑いながらそっと抱きしめた。

トントンと、ゆっくりと一定のリズムで背中を叩く大きな手。何度も繰り返し、同じように叩いてくれる手が、大好きだ。


「ロナルド様…私、恐ろしいのです」

「何が?」

「一人になる事が。もう、独りぼっちは嫌です」


震えるレイラの声。背中を摩るロナルドの手。ひくりと引き攣った喉で、レイラは言葉を続ける。


「結婚した時、お願いした事を覚えていらっしゃいますか?」

「ご家族の亡骸を集める事?」

「いいえ、家族と共に暮らす幸せを叶えてくださるというお約束です」


あの時は、かつての家族の傍に居たかった。生きている家族と共にいられないのなら、せめて亡骸の傍にいたかった。だが今は違う。


「私の家族は、今の家族はネルソン家の方々です。そして、貴方なのです」


心の底からそう思っている。いつだって優しくて、大切にしてくれるネルソン家の人々が大好きだ。深い深い傷を心に負った。それは今更覆らない。死んだ家族は戻って来ない。だがその傷ごと優しく包み込んでくれる人々が傍にいる。


今はそれで良かった。


「ずっと、ずっとこの先も、私の隣にいてください。私に出来る事ならばなんだっていたしますから…お傍に置いてください」


約束を違えないで。


そう呟くと、レイラの言葉はもう続かなかった。涙が滲んだ顔をぐりぐりとロナルドの肩に押し付けると、細い腕で力の限りロナルドにしがみ付いた。


もう二度と、家族を失う経験をしたくない。あんなに悲しい思いはしたくない。ただ幸せを噛みしめて生きていたい。幸せだと思えるのは、愛する夫が隣に居てくれねば叶わない願いなのだ。


「結婚した日、俺がレイラに言った事覚えてない?」

「傍から離れる事は、許さない」

「そうだよ。離れる事は許さない。それは、俺がレイラの傍から離れないって事だ」


耳に響くロナルドの声が心地良い。

すんすんと鼻を鳴らし、まだ顔を上げる事の出来ないレイラは、ロナルドの背中で拳を握りしめた。


「ずっと一緒だ。何があっても、ずっと。もう二度と独りぼっちになんかしないって約束する」


ロナルドの言葉に、今度こそレイラは声を上げて泣いた。

家族と離れ離れになってから初めてこれだけ泣いた。家族の死を告げられた時でさえ、声を殺して泣いたというのに、今になって漸く思い切り泣いた。


「大好きだよレイラ。俺の可愛いお姫様だ。今までも、これからも、いつまでも」


その日、泣きつかれて眠るまでレイラは声を上げて泣いた。

前を向いて生きると決めた一人の女は、夫の腕の中から出て行く事は無かった。

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