二十九話
鼻を擽る潮の香り。髪を躍らせる潮風。いつか夫と行ったネルソン社を思い出しながら、レイラはコリンズ社の入り口に立っていた。すぐ後ろにクローディアが立っているが、今のレイラはただじっと、昔の記憶を辿ろうと周囲の景色に目を向けていた。
「お嬢様、皆待っております」
「ええ…今行くわ」
門の向こうで待っているオズモンドに従い、レイラはゆっくりと足を進める。外出用の紫色のドレスをゆったりと揺らしながら、レイラは辺りを見回しながら歩いた。
だが、何も思い出せることは無い。記憶の引き出しをどれだけ漁っても、かつての記憶は欠片も出てきてはくれなかった。
「お嬢様がお戻りになられた!」
オズモンドが叫ぶ。作業をしていた男たちが、わらわらと出てきてはレイラを見て歓声を上げた。奥様によく似ておられる、お嬢様、お帰りなさいお嬢様。
あちこちから聞こえる歓迎の声に、レイラは目をぱちくりと瞬かせた。
「お嬢様、覚えのある顔はいますか」
「いいえ、いないわ。ごめんなさい」
誰もがレイラの事を覚えていてくれるのに、レイラは誰の事も思い出せない。この場所の事も、海すらも。それがどうしようもなく苦しく、悲しかった。
「お嬢様、おかえりなさいませ」
「ただいま…というべきかしら。ごめんなさい、昔の記憶は殆ど無いの」
「それ程お辛い思いをされたのでしょう。お助けする事が出来ず、申し訳ございませんでした」
そう詫びる男に倣うように、他の男たちも口を揃え、一斉に頭を下げた。
目の前に広がる、男たちの頭。大勢の男に頭を下げられる日が来るなんて思いもしなかった。
「頭を上げて。お願い」
もう謝られるのは嫌だ。謝ってほしいのはただ一人。家族を、父を陥れた男ただ一人だ。謝られたところで家族は戻って来ないが、それでも少しは留飲を下げられるかもしれない。
「お嬢様は既に、ネルソン家の立派な奥様になられた。もうコリンズ家の御令嬢ではない」
頭を下げ続ける社員たちに、オズモンドは静かに告げた。息を飲んだ男たちが驚きの表情と共に頭を上げると、レイラは困ったような顔を男たちに向けた。
「時々、遊びに来ても良い?」
レイラの遠慮がちな言葉に、男たちは歓迎すると笑って答えた。
「お嬢様、まだ船はお好きですか?今新しい船を作っているんです」
「まあ素敵。見てみたいわ」
男はレイラが何度も船を作っている場所を見に来ていたと言うが、レイラの記憶には無い。生まれて初めて見る光景全てを楽しむように、レイラは男たちに連れられながらあちこちを歩き回った。
◆◆◆
歩き回りすぎて流石に疲れたレイラは、建物に入りお茶を楽しんでいた。レイラがコリンズ社に居ると知らされたロナルドが少し前に合流し、不満げな顔で一緒にカップを傾けていた。
「そんなにお怒りにならないでくださいな」
「俺に黙ってコリンズ社に来るなんて」
「ごめんなさい。でも私の実家のようなものですもの。お義母様も一緒でしたし…」
ちろりとロナルドの横で黙ってお茶を飲んでいるクローディアに視線を向けると、ロナルドは何故止めなかったのだと母を睨んだ。
「ロナルド様、オズモンドおじ様が来年も船上パーティーをするのなら、専用の船を一隻作ってくださるそうですよ。私の結婚祝いだそうです」
にこにこと微笑みながら、レイラは嬉しそうに夫へ報告をする。今年は突然の話でネルソン家所有の船を少し手直ししただけとなったが、来年以降も同じ催しをするのであれば、少し豪華に飾った船の方が良いだろうというオズモンドなりの配慮だった。
「あのオズモンド氏がね…どれだけ懇意にしている相手でも、絶対にタダで仕事をしてくれるような人じゃないのに」
苦笑したロナルドは、どんな手を使ったの?と冗談っぽく笑ってみせた。レイラは何もしていないが、可愛がっていた小さな女の子が結婚をして、幸せに暮らしているのならささやかなお祝いをしたいのだと言い出したのはオズモンドを始めとしたコリンズ社の男たちだ。それを断る事は、レイラには出来なかった。
「オズモンド氏はまだ戻らないのかな」
「お仕事の話があると言っていましたから…もう少しで戻られるかと」
「お忙しい方だから。ゆっくり待ちましょう」
出されていた茶菓子を摘まみながら、クローディアはレイラにも同じものを勧める。思っていたよりも呑気な女性二人を前に、ロナルドはどうしたものかと困り顔で溜息を吐いた。
初めて会った筈のオズモンドをおじ様と呼んでいる事も気になるが、この場所に馴染んでいるレイラが穏やかに微笑んでいる事の方が嬉しい。コリンズ家は失われた。もう二度と戻らない家族との生活。せめて少しでも家族の事を思い出せる場所になるのなら、時々コリンズ社に遊びに来る程度は許しても良いだろうかと、ロナルドは美味しそうに菓子を頬張る妻を見つめて口元を緩めた。
「お待たせいたしました。おや、若様も」
呑気に部屋へ入って来たオズモンドに、ロナルドは立ち上がって頭を下げた。頭を下げられたオズモンドも小さく頭を下げると、手にしていた布の塊をレイラに向かって差し出す。
「これは?」
「以前お嬢様が此方に遊びに来られていた時にお忘れになったものです。少し汚れていたので、綺麗にしてからお返ししようと思っていたのですが…」
手渡された布を広げてみると、それは可愛らしい花柄の刺繍が施されたストールだった。子供が使うには大きすぎるそれは、今のレイラが使うには丁度良い大きさだった。
「何故大人が使うサイズの物を使っていたのかしら」
「奥様の物だったのですよ。どうしてもこれが欲しいと言って、根負けした奥様がお嬢様に差し上げたのです」
「子供の頃の私は、本当に我儘な子供だったのですね」
苦笑するレイラは、広げたストールを肩に掛ける。その場でくるりと回ると、ロナルドに向かって「似合いますか?」と微笑んだ。
花のように微笑むレイラ。笑顔を向けられ、幸せそうに微笑むロナルド。幸福に包まれた若い夫婦を前に、オズモンドはまた目尻に涙を溜めた。
「お嬢様は幸せなのですね」
ぽつりと落とされた言葉に、レイラは満面の笑みをオズモンドに向けた。
「ええ、幸せよ」
それは、レイラの心からの言葉だった。
「ねえロナルド様、私海が見たいです。一緒に行ってくださいませんか?」
「良いよ。構わないかな?」
「ええ勿論。お嬢様にお声がけ出来なかった者が群がってくるかもしれませんが、この場にお嬢様に危害を加える馬鹿者はおりませんのでご安心を」
ロナルドやネルソン家の人々が、ダラム伯の手の者を警戒している事を知っているオズモンドは、心配する事は無いと力強く頷いて見せた。コリンズ社の敷地にいる者は、全てレイラを愛し、いつか戻って来る事を待ち望んでいたのだとも言った。
もうコリンズ家の娘として戻る事は無くとも、嫁いで行った娘として戻って来る事を心待ちにしていると。いつでも帰ってくると良いとも思っていると。
「さあ行こうレイラ。今日は天気が良いから、きっと海が綺麗に見られるよ」
「私はここで待っているわ。行ってらっしゃい二人共」
若い夫婦に挟まれて散歩するのは嫌なのだろう。クローディアはしらっとした顔でカップを傾けると、早く行けと手をひらつかせた。
ロナルドは幸せそうに微笑みながらレイラに向かって手を差し出す。その手を取ると、レイラは反対の手でストールが落ちないようにしっかりと掴む。その姿を見たオズモンドは、今度こそほろりと涙を流した。
◆◆◆
「本当にレイラは愛されていたんだね」
げっそりと疲れ切った表情を隠す事が出来ないロナルドは、隣でにこにこと機嫌よさげに海を眺めるレイラの肩を抱く。
海風に髪を躍らせ、日の光を反射する海に眩しそうに目を細めるレイラは、作業場を抜けて海辺に出てくるまでに何人の男に声を掛けられたか分からない。
すっかりぼけてしまっているという老人には、奥様と呼ばれたりもしたが、殆どの者がお嬢様とレイラの帰りを喜んでくれた。
「お嬢様と呼ばれるのは何だか気恥ずかしいですね。もうそのような年齢ではありませんのに」
「まだ二十歳だよ。まだまだお嬢様で良いんだ」
「もう既婚者です」
子供ではありませんよとむくれるレイラに、ロナルドは小さく詫びた。
もう大人だと自分で言っているうちはまだまだ子供。そう言いたいのをぐっと堪えたロナルドは、そっとレイラの頭に自身の頭を寄せる。
「勝手に来てしまってごめんなさい」
「それは少し怒っているけれど…父も少しはレイラの好きなように外に出してあげようかって話をしていたから。少し早まっただけだよ」
微妙そうな顔をしてはいるが、ロナルドはあまりレイラを責める気は無いらしい。というよりも、叱ったところでレイラが大人しくしているとは思えないのだろう。それよりも、今は機嫌良さげに海を眺めているレイラの横顔を堪能している方が重要だった。
「最近レイラ宛に贈り物をしてくれる人がいるだろう?」
「はい。随分沢山いただきました」
「贈り主が分かったよ」
ロナルドの言葉に、レイラはじっと海を見つめ続ける。誰が贈ってきているのか気になってはいた。だが、知ってしまった結果家族の持ち物がもう戻って来なくなる事が恐ろしかった。
「現ライトリー男爵様でしょうか」
「知ってたの?」
「いいえ、そうではないかと思っていただけですわ。いつかお会い出来たら、お礼をしなければとも」
静かに告げるレイラの肩をしっかりと抱き寄せながら、ロナルドはぐっと何かを堪えるような声を絞り出す。
「会いたい?」
「出来る事なら。家族の物を大切に保管し、こうして私に返してくださっているのですから」
「彼の父は、君の御父上とご家族を陥れたんだよ?」
「それでもです」
現男爵ブルック・モーガン。彼の父親は恨んでいるが、息子であるブルックはもしかしたら父の悪事に加担していないかもしれない。加担していないから、悪いと思っているからレイラに家族の品を返してくれているのかもしれない。そう思うと、レイラはブルックを恨むことが出来ずにいた。
家族はそんなレイラを恨むだろうか。仇をと言うだろうか。どうすれば良いのか分からない。遠く離れた場所で生きている兄に手紙を出して相談すれば良いだろうか。手紙の返事をくれるだろうか。考えれば考える程、家族とどう向き合えば良いのか分からなくなってきていた。
「ロナルド様、私今は楽しい事だけを考えたいですわ」
「楽しい事?」
「お祭りです。あと二日でお祭りなんですもの。お祭りがどのようなものか存じませんし、夜にはロナルド様と船上でダンスをするのが楽しみなのです。踊ってくださいますか?」
可愛らしく微笑むレイラに、ロナルドはとろけた目を向ける。勿論だと微笑み、優しくレイラの頭に唇を落とすと、二人はまた体を寄せ合う。すっかり冬の冷たさを纏った海風は、若い夫婦二人の体をひやりと冷やした。
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