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二十六話

エメラルドの輝きはとても美しい。母の遺品である指輪と並べ、ぼうっと眺めている時間はどれだけ過ぎていただろう。

腹が減ったと、ジェマがにゃあと静かに鳴いた。


「ああ…ごめんねジェマ。ご飯にしてもらいましょうか」


そっと子猫の頭を撫で、レイラはぼうっとしていた意識を戻す。柔らかい毛並み、温かい体温。あれだけ震え、冷たかった体をしていたとは思えない程、ジェマは元気を取り戻していた。キラキラと輝く宝石のような瞳。まだ子猫特有の色をしており、どんな色になるのか分からないその瞳で、じっとレイラを見つめている。


そっとジェマを抱き上げると、レイラはふらりと自室を出る。テーブルの上には、まだ指輪とブローチが置かれたまま。大事な物の筈なのに、誰の持ち物だったのか分からないそれを大事にしまっておく気分にはなれそうにない。


実家の紋章が彫り込まれてはいるが、記憶にないそれが本当に家族の誰かの物だったという確証が無い。ロナルドに聞けば分かるかと思ったが、流石にロナルドも家族の持ち物を全て把握しているわけでは無いだろう。


確証が欲しい。誰の物だったのかを知りたい。少しでも良いから、かつての家族の痕跡が欲しかった。もう二度と会えないのならば、何でも良いから家族を想える何かを手にしていたい。たった一つ、母の遺品だけは手に入れた。父の品は何処にあるのだろう。


「お兄様はどうしていらっしゃるのかしら」


ぽつりと漏れた言葉に、ジェマは何も答えない。ゴロゴロと満足げに喉を鳴らし、主の腕の中に収まっているだけだ。


兄には会えるかもしれない。まだその時では無いのだろうが、生きているのなら会える日も来るだろう。いつかその日が来たら、何と声を掛けよう。ごめんなさい?会いたかった?

顔も覚えていない兄に、何を言えば良いのだろう。会いたい気持ちはあるのだが、どうしても申し訳ないという気持ちばかりが大きく膨れていた。


悶々と考え事をしながら歩く事には慣れている。修道院に押し込められてからずっと、レイラが何か考える事をしない時は無かった。家族はどうしているのか、どうして自分がこんな場所に押し込められているのか。家族が死んだと伝えられてからは、どう復讐してやろうか考える事だってあった。罪人の娘と詰られようが、レイラは誇り高きコリンズ家の娘だったのだ。それも、長い時間薄暗い修道院に一人きりで押し込められている間にしおしおと萎んでしまったが。


すっかり慣れたネルソン家の屋敷の中。考え事をしていても、半分眠ってしまっていても歩き回る事が出来るようになっていた。軽い体のジェマを片腕で抱え、もう反対の手で優しく頭を撫でながら、レイラは静かに階段を降りる。昼食の支度でもし始めているのか、何処からか美味しそうな香りがしていた。それだけの時間ぼうっと呆けていた事に気付き、レイラはふっと口元を歪めて自嘲する。


新しい家族と生きなければならない。前を向いていかなければならない。そう分かっている筈なのに、いつまでも過去の家族に囚われている。それがどうにも悲しく無様なように思えてしまうのだ。


「レイラ、お花は活けられた?」

「あ…はい、お義母様。デイジーが綺麗に飾ってくれました」

「そう、良かったわね。でもジェマには気を付けるのよ。猫にお花は毒だったりするから」


そう忠告するクローディアは、優しく穏やかに微笑んでいた。何があって自室に閉じこもっていたのか気になっているようで、そわそわとしてはいるのだが、聞いても良いのか迷っているようだ。


「お義母様、コリンズ家の誰かが…エメラルドのブローチを持っていたかご存知でしょうか」

「エメラルドのブローチ?さあどうだったかしら…」


記憶を掘り起こそうと、クローディアは頬に手を当てながら考え始める。玄関ホールでは何だが、クローディアが立っていたのが此処なのだから仕方ない。それよりも、腕の中に収まっているジェマが食事の香りに反応し、降ろせと暴れるのを抑える方が先決だ。


「行かせてやりなさい。厨房でご飯を食べたら、きっとすぐに戻って来るわ」

「すっかり厨房がお気に入りですね」

「食堂で食べるよう躾けないと駄目ね」


苦笑するクローディアに同意し、レイラは廊下の影にある隠し扉を押し開く。ジェマはさっさと腕の中から飛び降りると、早く行きたいとレイラの方を振り向く事無く走り出していった。


「うーん…ブローチは分からないけれど…何かあったのかしら?」

「先程のお花の中に箱が入っていたのです。中にはエメラルドのブローチが収められておりました」


簡単にクローディアに説明をすると、クローディアはさっと顔色を変える。

誰からの贈り物なのかも分からないのに部屋に行かせるんじゃなかった、受け取るのではなかったとぶつぶつ呟いているのが聞こえるが、コリンズ家の紋章が入っているのならレイラが持っていても構わない筈だ。


「他には何かあった?」

「カードに…ごめんなさいと」

「さっきのカードね。持って来て、ブローチも。今すぐに!」


まるで怒っているかのようなクローディアの剣幕に、レイラは言葉を詰まらせる。すぐに報告しなければいけなかったと反省したが、クローディアは早くしなさいとレイラを急かした。慌てて元来た道を戻るレイラの後ろで、クローディアは静かに手を組み握りしめていた。


◆◆◆


まるで叱られる子供の気分だ。

普段よく集まる談話室で家族に囲まれ、小さくなりながらおどおどしているレイラの前に置かれたカードとブローチ入りの箱。眉間に皺を寄せるルークとロナルドは、じっとカードと箱を交互に睨みつけていた。


「あの…」

「レイラ、もう一度聞くがこれは本当に花屋が運んできたんだね?」

「はいそうです、お義父様」


先程から何度も説明している。クローディアの目の前で、いつもの花屋から受け取ったのだ。それはクローディアも同意し、夫に説明してくれていた。


「差出人のジェフリージュニアとやらに心当たりがある者は」


ルークの静かな問いに、誰も何も答えない。ロナルドだけが隣に座るレイラの手をぎゅっと握りしめた。


「まず、心当たりの無い名前の人間から贈られた物を受け取るんじゃあない。今回は敵意が無かったようだが、もし毒でも仕込まれていたらどうする?薔薇の棘に指を突き、塗られていた毒で死んだ令嬢の話を知らないのか?」


ルークが言っているのは御伽噺の出来事だが、絶対にそんな事が有り得ないとは言い切れない。命を狙われている可能性のあるレイラ宛の物であるならば、気を配らなければならなかったのだ。それを怠った事を、レイラとクローディアはしっかりとルークに叱られた。


「だが、このブローチに見覚えがある。男爵様が身に付けているのを見た事があるよ」


トンと箱を人差し指で突くと、ルークは優しい声色でレイラに告げた。

父の持ち物。全く記憶には無いが、ルークの記憶の中にはしっかりと残っていたらしい。


「確か、元は御父上の物だったそうだ。爵位を継ぐ時、代々受け継ぐものだと仰っていたよ」

「そんなに、大切な物なのですか…?」


爵位と共に代々受け継いでいたのならば、これはコリンズ家の家宝のようなものだろう。爵位を取り上げられたのならば、最後の持ち主であった父が死んだのならば、一緒に棺に入れてやってほしかった。それも叶わず、今こうして娘であるレイラの手元に戻ってきたそれは、箱の中で悲し気に静かに輝いていた。


「触れても良いかな」

「ええ…どうぞ」


静かにレイラの手を握りしめていたロナルドが、レイラに許可を得てからブローチを掌に転がした。キラキラと輝くそれは、ロナルドの手の中でも輝きを放ち続ける。


「凄いな…こんなに上質なエメラルド見た事無いよ」


目線の高さまで上げてみたり、上から覗き込んでみたりと観察を続けるロナルドは、感心したようにほうと息を吐く。

裏面に刻まれた「一族の誇りを忘れるな」という文言。それを見ると、今度は目を細くしながら唇を噛み締める。


「父は…一族の誇りを胸に抱いていたのでしょうか」

「きっとそうだと思うよ。だから今でも、ソルテリッジの人々は君の御父上を愛しているんだ」


レイラの胸が締め付けられる。誇りなんて抱かず、全てを捨て去ってでも生きていてほしかった。家族で過ごせていれば、それで良かった。だというのに、目の前にあるのは主を失った冷たく輝くブローチだけ。


「君の物だよ、レイラ。大事にしなさい」

「あなた、差出人の事を調べませんと」

「分かってる。だが、男爵様の持ち物を贈ってきた相手なら…今後も何か接触があるだろう。全て追い返せ」

「待ってください父上。もしもまだコリンズ家の持ち物を相手が贈ってくるのなら、それは全てレイラの物です。受け取るだけ受け取り、安全を確認次第レイラに渡してやった方が…」


ルークの言葉に反論するロナルドは、そっとレイラの手にブローチを握らせる。手の中に収まったブローチの固さを確認しながら、レイラはどうしたいのかを考えた。


新しい家族と生きて行く。そう決めていても、元の家族を想えるものは一つでも多く欲しい。離れ離れになってしまったあの日から、レイラはずっと一人きりだったのだ。


家族を感じられるのは、ボロボロの本一冊だけだったのだから。


「お義父様、お願いします。私の家族の物は一つでも多く手元に置きたいのです」

「うう、ん…」


ロナルドの手を握り返し、真直ぐにルークを見つめるレイラの真っ青な瞳。これは譲れないぞという強い意志を抱いたレイラの瞳から逃れられず、ルークは困ったように言葉を詰まらせた。


「レイラ、気持ちは分かるけれど…」

「ではお義母様が私の立場ならば、諦められるのですか?」

「それは…」

「私の家族はロナルド様と、お義父様とお義母様です。ですが、血を分けた家族のほんの僅かな思い出を諦められないのです」


全ては無理だ。だが、手の届く場所にあるのならば手に入れたい。何をしてでも取り戻したい。幸せだった筈のあの頃に戻れないのならば、少しでも家族を感じられる物を。お願いしますと、レイラは小さく繰り返した。


「レイラのお願いだよ、父上、母上。レイラとの結婚が決まった時に約束しただろう?レイラの望む事は、何でも叶えてあげようって」


無実の罪で囚われた貴族令嬢。一人きりで修道院に幽閉された可哀想な女の子なのだから、これからは幸せだけを噛み締められるように。傷付いた心を少しでも癒してやろう、その為にはレイラの望む事を何でも叶え、真綿で包むようにしてやろうと家族で決めたのだと、ロナルドは言った。たった一つ、一人で外に出てはいけないという決まりだけは覆せないが。


「分かった。確かに約束したな。レイラ、今後も君宛の荷物が来るようなら、まずは使用人の誰かに危険が無いか、中身を確認させるんだ。良いね」

「分かりました」

「それから、嫌かもしれないが何が届いたのかは必ず私たちに報せてほしいんだ」

「差出人の正体が分かるまでで良いわ。プライベートが無くてごめんなさいね」


それだけ心配してくれているという事なのだろうが、流石にそこまでさせられるのは不服だ。だが、今ここで嫌だと言ってしまえば、受け取る事すら駄目だと言われてしまいそうで嫌だった。仕方なく、レイラは黙って頷いた。


「まるで子供扱いだな」

「仕方ありません。私は命を狙われているかもしれないのでしょう?」


父の言葉に呆れたらしいロナルドに、レイラは小さく笑う。命を狙われているかもしれないという実感が無いのだから、正直ここまで守られる意味が分からない。

ダラム伯が恐ろしい人だとは何度も聞かされているのだが、どんな人なのかも分からないのだからどう恐れれば良いのかも分からない。ただ、家族の仇としか思えない相手。目の前に現れたら掴み掛ってしまうのかもしれないが、会った事が無いのだから想像でしかない。


「あの…私が伯爵に会いたいと言ったらどうされますか?」

「何を言うんだ」


深く考えずに出てしまった言葉に、ルークは目を見開く。レイラが何を考えているのか分からないようだが、レイラ自身もよく分かっていない。ルークの隣に座っているクローディアもまた、うっすらと口を開き、ゆっくりと首を横に振る。駄目だという無言の返事なのだろう。


「会ってどうする?」

「分かりません。報復をと考える事は今でもあります。不公平ではありませんか?私の家族は、ありもしない罪で捕らえられ、両親は死に、兄は国外へ逃れる他無かったにも関わらず、のうのうと手に入れたい物を手に入れ生きているだなんて」


普段押し殺しているどろりとした感情。こんな事を考えてはいけないと思っている筈なのに、時折抑えきれなくなる感情が、今言葉にしてしまった事で止まることなく溢れてしまう。


「一目お顔を見てみたいのです。私の家族を奪った憎き男の顔を」

「駄目だよレイラ。あの男はまだレイラを諦めていないかもしれないんだから」

「諦められなかったとして、私は既にロナルド様の妻。ネルソン家の一員なのですよ?どう手出しをするのです?」


嫁いで来たばかりの頃の、表情の無い顔でレイラはロナルドの顔を静かに見つめる。

つらつらと出てくる言葉は深く考えずに口から流れ出ていく。きっと、これがレイラの本心なのだろう。自分でも自覚のない、どろどろとした重たい憎しみ。


「無理矢理にでも離縁させるでしょうか。私の親でも親類ですらない男が?それとも、ロナルド様もお義父様お義母様も、かつての私の家族のようにするのでしょうか」


一度ならず二度までも、レイラから家族を奪おうとするだろうか。目的の為なら手段を選ばない男だというのなら、そんな事までしてみせるだろう。


「彼は、そういう事をするかもしれない男なんだよ」

「そうですか。その男が息絶えるまで、私は息を潜めて日陰に生きるのですね」


スッと細められた目。その目に、ロナルドの肩がぎくりと強張る。

修道院から助け出されても、ネルソン邸に押し込められていては場所が変わっただけで何も変わりはしない。


明るい場所で生きていたい。人間ならば誰しもそう思う事なのに、今のレイラはそれを望む事すら出来ないのが嫌なのだ。


「現ライトリー男爵は、ダラム伯の御子息なのでしょう?であれば、息子と会う為にこちらに来る可能性はありますわね」

「その場に乗り込む気なの?」

「できますわよねお義母様?だってお義母様は男爵家と繋がりを完全に絶てないからと、僅かではありますが交流がありますもの」


先日見たお祭りの招待客リストの中に、男爵家の名前がある事をレイラは知っていた。呼ばぬわけにはいかないからと、クローディアがどうレイラを遠ざけるか頭を悩ませている事も知っている。ルークと相談し、ロナルドと共に若い二人で楽しんでおいでとパーティー会場から追い出す算段になっている事も。


「仇をとは言いません。そんな事をしても、家族は戻りませんもの。ですが、恨み言の一つくらい、直接申し上げても宜しいでしょう?」


にっこりと微笑んだレイラの目は笑っていない。口元だけを歪に歪ませ、さあ頷けとロナルドに圧をかけていた。


「ダラム伯は…祭りには来ないよ」

「では男爵様だけで構いません。我が父の椅子を奪い取った一人なのですから。ですが、いずれ伯爵にもお目見えしたいものですわね」


否と言わせないレイラの雰囲気に、ロナルドも義理の両親も何も答えない。家族の仇を望む事は当然の事だが、レイラは恨み言を少し言うだけだと言う。それくらいする権利はあるのだ。


「押し込められる生活には飽きました。そろそろ自由になりたいのです。構いませんわよね?」


私の願いは聞いてくださるのでしょう?


レイラの言葉だけが、静かな談話室に響いた。


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