二十五話
我慢をしないと宣言した通り、ロナルドは本当に我慢をしなかった。一晩中離してもらえず、朝になってもレイラはまだ起き上がれない程ロナルドは好き勝手をしてくれたのだった。
「大丈夫?」
心配そうな顔をするロナルドの腕の中、レイラはふるふると首を横に振り、恨みがましい目を向ける。何をしてくれたんだと文句を言いたいのだが、今は声を出す事すら出来なかった。
「水を貰ってくるよ。起きられそうなら服を着ておくんだよ」
輝かんばかりの笑顔のロナルドが、ぽんぽんとレイラの頭を撫でながらベッドを抜け出していく。てきぱきと手早く寝間着を着直して、足早にレイラの部屋を出て行った。
「何があったのかしら…」
体のあちこちが痛い。喉がひりひりと微かに痛む。沢山話しをしようと思っていたのに、殆ど話せないまま夢を見せられてしまった。幸せそうに微笑むロナルドを見る事には慣れている筈なのに、それを下から見上げる事には慣れていない。
組み敷かれる事も、深く甘く愛される事にも慣れていない。たった一度経験しただけの事を、突然もう一度経験する事になるとは思わなかった。
いい加減服を着なければ。そう思い体を起こそうとするのだが、レイラの体はひどく重い。きっと体が鉛になってしまったのだろう。そう思ってしまう程、今のレイラはぐったりと疲れ切っていた。
「レイラ、服は着られ…無理だったか」
水と軽食を乗せたカートを押して戻ってきたロナルドが、ひょっこりと扉の隙間から顔を覗かせる。まだベッドの上から動けないレイラは、恨めしい目をロナルドに向ける。
「ごめんね、無理をさせたみたいだ」
優しくレイラを労っているが、無理をさせたのは労っているロナルド自身だ。満足げに微笑んでいる顔がこんなにも恨めしいと思う日が来るとは思わなかった。
「お仕事に向かうお時間ではないのですか?」
「午後から行くから大丈夫」
仕事をおざなりにするなと怒るべきなのかもしれないが、今はろくに動けもしない。
服を着せてやろうと奮闘しているロナルドに大人しく世話をされながら、レイラはぶすっとした顔でロナルドから顔を背けた。
「昨日沢山話をしたかったんだけど…出来なかったから」
「ロナルド様のせいでしょう」
「そうなんだけどね。今から少しでも話が出来たらと思って」
たったそれだけの理由で、仕事の時間を遅らせて良い物か。大人しく服を着せられたレイラは、差し出された水をちびちびと飲む。カラカラに乾いていた喉がゆっくりと潤っていく。冷たく冷えた水が心地よかった。
「お祭りの準備も大変なのに、他にも色々やらなければならない事があるだろう?無理してない?」
「無理はしていません。ですが、やりたい事ができました」
「何をしたいの?」
小さく切られた林檎を咀嚼しながら、ロナルドは小さく首を傾げる。一口お食べと林檎を口元に押し付けられると、レイラは大人しく口を開いた。しゃくしゃくと瑞々しい音が口の中に響く。優しい甘さが、寝起きの体に染み渡ってくれた。
「船上パーティーがしたいのです」
「船上パーティー?陸じゃ駄目なの?」
「船の上でやりたいのです。沢山のランタンで飾られた船の上でダンスをするのです」
ごくりと林檎を飲み込み、キラキラとした目をロナルドに向けたレイラは、どうしてやりたいのかを必死でロナルドに訴える。
町の若いカップルにも人気になるだろうし、自分がロナルドと一緒に踊りたいのだと。
「きっと素敵な夜になると思うのです。素敵な思い出を、素敵な方と一緒に作りたいと思っても宜しいでしょう?」
「それは…午後も仕事に行けなくなりそうだ」
やめてくれ。眉間に皺を寄せ、胸元まで布団を引き上げたレイラに、ロナルドは冗談だと良い笑顔を向ける。本当に冗談だろうなと疑いの目を向けるレイラの膝に、ロナルドは笑いを堪えながら朝食が乗った盆を乗せた。
「少しお腹に入れようね。レイラはもっとふっくらして良いんだよ」
「ふっくら…ですか」
「俺の子を生んでくれるんだろう?」
いつかそんな事を言った。跡継ぎが必要だろうと。だがあの時はまだ先で良いと断られた筈だ。今になって気が変わったのだろうか。
「子供を生むのなら、あまり痩せていてはいけないよ。というより、レイラは細すぎるから」
「ふっくらしていた方がお好みですか?」
「レイラならどんなレイラでも好きだよ」
そういう事ではないと文句を言っても、きっとロナルドはにこにこと微笑み続けるのだろう。これ以上何も言うまい、腹は減っているのだから、持って来てもらった食事を有難く食べる事にした。
柔らかくほんのりと甘いオムレツ。ほんのりと湯気を立てる温かいスープ。バターがたっぷりと塗られたパン。甘いジャム、先程口に押し込まれた林檎。朝はあまり食べられないレイラの為、全て少量ずつ用意されていた。
「美味しい」
「オムレツが良い出来だ」
レイラが座っているベッドの脇でカートをテーブル変わりにしながら、ロナルドはレイラよりも多い量の同じメニューを腹に収めていく。
二人でのんびりと、穏やかに食事をするのは好きだ。使用人の誰も世話をしに来ないのは、ロナルドが何か言ったのか、それとも気を遣っているのかどちらなのだろう。後者だった場合、この後顔を合わせるのが恥ずかしい。
「そうそう、船上パーティーだけれど、もし本当にやりたいならうちの船を使おうか」
「宜しいのですか?」
「勿論。レイラがやりたいと思った事は、俺に出来る事なら何でも叶えてあげたいからね」
当たり前だと言いたげな顔で言うロナルドは、一口大にちぎったパンをぱくりと口に放り込む。焼きたてだと嬉しそうに微笑むその顔は、いつもよりも穏やかで幸せそうに見えた。
「普段使っている商船は警備上の問題で難しいけれど、昔使っていてお役御免になっている船なら、少し修繕して使えると思う」
「修繕の手間までかける程の事では…」
「元々母上も、お祭りがいつも同じ内容でつまらないって言ってたんだ。新しい事をするのは楽しいだろうし、修繕費もそんなに莫大な金額になるわけじゃないと思うよ」
気にしないでと簡単に言えるのは、それほどネルソン家の資産が潤沢だからなのだろう。節制すべきだと少し前に義母に偉そうにあれこれ言った癖に、ちょっとやりたいというだけでお金を掛けるのは、何だか気が引けた。
「修繕するとなったらコリンズ社にもお願いしないとね」
「…コリンズに、ですか?」
かつての実家。父が経営していたという会社に頼むとなれば、家族の痕跡を見る事が出来るだろうか。かつての、幸せだったあの頃の記憶に、欠片だけでも触れる事が出来るだろうか。そう期待してしまうのは、悪い事だろうか。
「私も行かせてください」
「え…それは、ちょっと」
「私の実家ですもの。ほんの少し見に行くだけでもいけませんか?ロナルド様の傍を絶対に離れないとお約束しますから」
お願いと懇願するレイラに、ロナルドはどうしたものかと頬を掻く。
元の家族を奪った伯爵の、その息子が現在の経営者となっている会社に、レイラを近付けたくはない。出来るだけダラム伯の手の者に近付けたくないのだ。
もう子供ではない。息子の妻になる事もなくなった。利用価値の無い、邪魔でしかない女を未だに生かしている事の方が不思議である程、ダラム伯という男は恐ろしい。それが、ネルソン家のダラム伯の印象だった。
「どうしても、行きたい?」
「行きたいです」
「…帰りたい?」
「はい?」
ぽつりと落とされたロナルドの言葉。その言葉の意味が理解出来ない。帰りたいと思うには思うのだが、もう今更かつての家族と共に過ごしていた屋敷に帰りたいとは思っていない。
「私の帰る場所はここですよ、ロナルド様」
きっと、ロナルドの言いたい事はこういう事だろう。もう帰る場所は此処しかない。深く、甘く愛してくれる夫の腕の中。此処が自分の帰る場所、帰りたいと思う場所。
「何処にも行きませんから、連れて行ってください」
「…ちょっと、考えさせて」
ロナルドなりの歩み寄りなのだろう。普段ならば、すぐさま駄目だと跳ね除けられていただろう。危ないから、守りたいんだと。
「良いお返事が頂けると期待しておりますね」
「うん、分かってる」
もうこの話は終わりにしよう。午後からロナルドは仕事に行くのだ。仕事の前に、困らせたくはなかった。
◆◆◆
クローディアは今日も忙しそうだ。くるくるとよく動き、てきぱきと的確に指示をしていく。良家の女主人なのだから、これくらい出来て当たり前なのだろうか。
いつか自分もクローディアのようになれるだろうか。ならなくてはならない。そう思いながら、レイラは今日もクローディアの後を付いて回る。
「レイラ、招待状の準備をしたいの。去年の記録から招待状リストを出しておいてくれる?」
「はいお義母様」
せっせと記録の書かれた本を捲り、クローディアに言われた通り招待状を送った家のリストを探し出す。
祭りに参加するのは自由だが、ネルソン社で行われるパーティーには招待状が必要だ。簡単な立食パーティーなのだが、今年も一年よろしくお願いしますと得意先を持て成しているのだ。
「ありました、お義母様」
「ありがとう。それじゃあ、今年は何処に出すか考えないと…」
「奥様、花屋が来ました」
「ええ、今行くわ」
使用人が業者が来たぞとクローディアを呼びに来る。急ぎ足でそちらに向かうクローディアを見送りながら、レイラはどうすれば良いだろうと考え、その場に立ち尽くした。
ふと、昨年の招待リストを見た。きっちりと並べられた数々の名前の中に、見た覚えのある名前があった。
「エドワード・パーカー様…いらっしゃるかしら?」
結婚したばかりの頃、ロナルドに連れられて参加したパーティー。昔からの友人だと言っていた彼は、今年も招待されるだろう。あれから一度も会っていないし、手紙のやり取りもしていない。アイリスと仲良くなれたのだから、エドワードとも少しは仲良くなれるだろうか。
「レイラ!ちょっと手伝ってちょうだい!」
「はい!」
廊下の向こうからクローディアの声がする。そんなに大きな声を出して良いのかとソワソワしてしまうが、それよりも義母を待たせてはいけない。慌てて小走りで義母の元へ向かうと、玄関ホールでは花束を抱えた若い男が立っていた。
「レイラ・ネルソン様ですね。お届け物です」
お祭りで使う花を持ってきた業者だと思っていたのだが、クローディアと花屋の反応を見る限り違うらしい。
「可笑しいと思ったのよ。お祭りで使うお花はアイリスに任せたんだもの」
「お花…私にですか?」
「はい、ネルソン家の若奥様にと仰せつかっております」
さあどうぞと花束を差し出す花屋に、レイラは困惑の色を隠せない。花を贈ってくれるような相手に憶えは無い。ロナルドならば、自分で手渡す筈だからだ。
「ありがとう…」
ずっしりと重たい、大きな花束。真っ白なガーベラをメインにした、白い花束。誰からのプレゼントなのか分からないが、小さなカードを添えられたそれは、とても美しかった。
「ジェフリー…ジュニア?」
「知り合いじゃないわよね?」
「初めて見るお名前です」
カードを裏返すと、細かな文字で簡単な挨拶が書かれていた。遅くなったが結婚おめでとう。どうか幸せに。そう書かれたそのカードの隅に、本当に小さな文字で「ごめんなさい」と書かれていた。
何故謝るのだろう。この花束の送り主は、謝る様な事をしたのだろうか。贈る人を間違えたのだろうか。分からないが、この綺麗な花が萎れてしまう前に、綺麗に花瓶に活けてやりたい。
「お義母様、お部屋に飾ってきても宜しいですか?」
「勿論よ。行ってらっしゃい」
花屋とクローディアにぺこりと頭を下げると、レイラは足早に自分の部屋へと向かう。部屋から呼べば、すぐにデイジーが来るだろう。花瓶はガラスが良い。何か良いものがあるだろうか。この家ならば、ガラスの花瓶なんていくらでもあるだろう。
「みゃう」
「あら、お昼寝してなかったのねジェマ」
部屋でのんびりと日向ぼっこをしていたらしい子猫が、小さく鳴き声を上げながら近付いて来た。ぬいぐるみにそっくりで、ついなんとなしにジェマと呼んで返事をされたから、そのままジェマという名前で落ち着いてしまった。
すりすりとレイラのドレスの裾に頬を寄せるジェマに、レイラの頬が緩んだ。
「蹴ってしまうわ、ちょっと通らせてねジェマ」
小さな体を蹴ってしまわぬよう気を付けながら、レイラは壁に下がっている紐の元までそろそろと歩く。くいくいとその紐を引っ張れば、あとはデイジーが来るのを待つだけだ。
ベッドに腰かけ、抱えている花束を覗き込む。白い花で美しく纏められた花束。香りはそう強くはないが、目を楽しませるには充分な美しさだ。
「あら…?」
花束の中に、小さな箱が収まっている事に気付き、レイラはその箱を引っ張り出した。花びらが少し散ってしまいそうで怖かったが、まだ新鮮なせいか散る事は無かった。
「何かしら」
茶色の小さな箱。見覚えのない箱に、初めて見る名前が書かれた小さなカード。一体誰からの贈り物なのだろう。この箱は何?恐る恐る箱を開けば、中に収められていた大粒のエメラルドのブローチが目に飛び込んできた。
中心に大きなエメラルド。それを飾る細やかな金の装飾。レイラが付けるには少々大きすぎるそれを手に取り、なんとなしに裏面を見た。
消えかけの刻印。何が書かれているのか読み解こうと、レイラは小さく声に出しながらそれを読む。
「一族の誇りを忘れるな…?」
レイラが付けるには大きいが、それでも手の中に収まる程度の大きさのブローチにこんなにも細かい刻印をするなんて、どこの職人の作品だろう。そもそも誰なのかも分からない相手からの、女性への贈り物にしてはミスチョイスだ。仕舞っておこう、ロナルドが帰ってきたらすぐに報告しなければ。
そう思い、手に取ったブローチを箱に戻そうとした時だった。箱の蓋、その裏面に描かれた紋章。コリンズ家の紋章だった。
ぱさりと音を立て、床に花束が落ちる。落ちた花束にジェマがくんくんと鼻を寄せた。ふるふると小刻みに震えるレイラの手の中で、小さな箱が静かに収まっている。
誰の物だろう。コリンズ家の紋章が描かれているのだから、きっと家族の誰かの持ち物だったのだろう。母の指輪は記憶の片隅にあったが、このエメラルドのブローチは記憶にない。いくら思い出そうとしても、何も思い出せなかった。
「レイラ様、お呼びですか?」
「あ…花瓶を、用意してちょうだい。ガラスが良いわ」
ノックと共に顔を覗かせたデイジーに、レイラは震える声で花瓶を用意してくれと頼む。落としてしまった花束を抱きしめ、落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせた。
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