二十話
ネルソン家の妻として恥じない人間になろうと決めてからのレイラは、行動に移すのが早かった。
翌日には義母であるクローディアを捕まえ、妻としての仕事を教えて欲しいと懇願したのだ。
クローディアは面食らっていたが、どうしてそう思ったのか、助けてほしいのかを説明すると、それはそれは嬉しそうに顔を綻ばせ、快く頷いてくれた。
「少し厳しい事も言うけれど…嫌いにならないでちょうだいね」
そう言ったクローディアは、言葉の通り厳しかった。
普段はとても優しい人なのだが、勉強となると厳しい。今まで特に何も言われなかった些細な事ですら、細かく駄目出しをされるのだ。
立ち上がる時の所作、お辞儀の角度、テーブルでのマナー等、一通り出来ていると思っていた事ですら、レイラは指摘を受けた。
「折角綺麗な容姿をしているのだから、より一層自分を魅力的に魅せるようにしなさい」
それがクローディアの意見だった。
また、所作だけでなく容姿を更に磨く事にも拘りを見せる。レイラの輝くような金の髪を、もっと手入れをして更に輝かせようとしたし、肌の手入れももっと念入りにするようにメイドのデイジーに言いつけた。おかげで最近のレイラの入浴時間は伸びている。
「大丈夫?」
「はい…」
ここ数日のクローディアの扱きに、体力に自信のないレイラはぐったりと疲れ切っていた。座って出来る事は沢山あるが、手紙の練習をすれば、もっと丁寧に字を書きなさいと叱られたし、もっと沢山本を読んで会話に幅を持たせなさいと数冊の本を手渡されたりもする。
正直逃げ出したくなるのだが、やると言い出したのはレイラ自身だ。自分でやると言ったのだから、中途半端に投げ出す事はしたくない。なんとしてでも食らい付き、クローディアに認められたい、ロナルドの役に立ちたい。ただそれだけの思いで、レイラは日々努力している。
「ちょっと休憩しましょう。お茶の時間に丁度良いわ」
眉尻を下げたクローディアがパンパンと手を叩くと、部屋の隅に居たメイドがそっと部屋を出て行く。お茶の支度をしに行くのだろうと見送りながら、レイラはだらしなくテーブルに突っ伏した。
今日は朝から手紙の練習をしていたのだ。ペンを握り続けていた手がじんじんと痛む。指先のあちこちにインクが付き、随分と汚れてしまっているのが何だか恥ずかしかった。
「いつまでも不出来なままで申し訳ございません…」
「あら、そんな事ないわよ。この間より丁寧に書けているし、季節の挨拶だってばっちりだわ」
ニコニコと微笑みながら練習で書いた手紙を眺めるクローディアは、今日よく出来た部分を丁寧に褒めてくれる。いつもこうなのだ。出来ない部分は練習中に口煩く指摘するが、練習時間でない時には良い部分を沢山褒めてくれる。褒めてもらえるからレイラは何とかやっていけているのだ。
「私がこの間話した事をよく覚えていたのね。行った事も無いお屋敷の庭の話なんて、私なら覚えていないわ」
先日クローディアが招待された集まりでの話を、レイラはたまたま覚えていた。
庭の薔薇が見事に咲き誇る庭園が自慢の屋敷との事で、冬薔薇が楽しみな季節になりますねと書いただけの事。
それを、クローディアは「きっと喜ぶわ」と褒めてくれた。
「人間は誰でも、自分に興味を持ってくれて、それが自分の自慢だったなら嬉しいものよ。あのお屋敷の奥様はね、冬薔薇が一番のお気に入りなの」
「そうなのですね、覚えておきます」
手の汚れを隠す様にしながら、レイラは突っ伏した体を起こす。恐らくクローディアはレイラの手がインク塗れになっている事に気付いているのだろうが、今はそれに関して何も言わない。
「それにしても、今日は良いお天気ねぇ」
のほほんとした声色で、クローディアは窓の外を眺める。どこまでも広がる青空。流れる風は少々冷たくなってきた。本格的な冬が来れば、厳しい寒さと荒れた海が待っている。これから忙しくなる。そうともなれば、ロナルドも義父であるルークも屋敷を留守にする事がこれまで以上に増えるだろう。
社交のシーズンも、今年はそろそろ御終いだ。和やかに集まっているよりも、家を守る事の方が大切な仕事になる時期が来る。
「我が家もそろそろ冬支度をしないとね。石炭を切らさないようにしなくちゃ…」
「また値上がりしないと良いのですけれど」
「そうねぇ…近頃は何でも値上がりしているから。使用人部屋の石炭も充分に用意するとなると、結構な物入りなのよね」
ふうと小さく溜息を吐くと、クローディアは悩ましいと頭を抱える。
クローディアの言う通り、最近は何かと物価が上がっている。ネルソン家は裕福とはいえ、際限なく金があるわけではない。抱えている使用人を路頭に迷わせる事無く。勿論会社の社員たちにも生活するに困らない程度の給金を出さねばならない。
物価が上がっているのなら、給料もそれなりに考えてやらねばならない。
経営について考えるのはルークの仕事だが、家の財政について考えるのは妻であるクローディアの仕事だ。
「少し節制すべきですね」
「そうね。でもあんまり気にしなくても大丈夫よ。レイラが困らない程度の蓄えと収入はあるつもりだから」
にっこりと微笑むクローディアだったが、レイラは困ったように視線をうろつかせる。元々贅沢をしたがるような性格をしていないつもりだし、高価な物にも興味は無い。ただ穏やかに、家族と生活出来ればそれで良い。
その為に、夫ないしは義母の助けになれたら良いなと思った。
「節制するのなら、薪も用意した方が宜しいでしょうか?管理は面倒かもしれませんが、石炭よりは安く済みます」
「そうねぇ…」
「それからお茶も…お客様にお出しするものは今まで通りでも良いかと思いますが、家族で楽しむものならば、先日ロナルド様と一緒に飲んだお茶も美味しかったです」
ぺらぺらと喋り出したレイラを前に、クローディアは嬉しそうに微笑み続ける。
あれもこれも、もっとこうすれば少しは節制出来る。浮いた金で現物支給になったとしても、仕えてくれている人達に還元出来る。
使用人や社員を大切にする事は、未来への投資となる。
そう力説していたレイラの声は、徐々に小さく消え行った。
「申し訳ありません…出過ぎた事を申しました」
「あら、良いのよ。レイラは節約上手かもしれないわねぇ」
うふふとクローディアが笑うとほぼ同時に、お茶の支度を終えたらしい使用人が戻って来る。何やら楽しそうな雰囲気を察したのか、僅かに視線だけを走らせ、二人の様子を伺った。
「その、以前は限られた物だけで生活しておりましたから…」
「そうなの。でも限られた物をやりくりできるって素晴らしい事だわ」
義母はレイラのやってきた事を否定しない。裕福な家庭の妻として長らく生活し、生まれ育った実家も裕福だったクローディアは、貧乏くさいと馬鹿にしたって仕方のない人の筈だ。だが、それを素晴らしいと褒めてくれる。レイラにはそれが嬉しかった。
「少しずつ、屋敷の女主人の座をレイラに譲っていかないとね」
「そんな…私には荷が重いです」
「でもいつかはそうしなければならないのよ?私がまだまだ元気なうちに任せなくちゃ」
女主人にも引退する日がいつか来るのよと微笑みながら、クローディアはテーブルに用意されたお茶を優雅に飲む。
いつかレイラに任せるようになった時、どんな屋敷になるのか楽しみだと微笑みながら。
◆◆◆
静かな部屋で黙々と針を進めていくのは楽しい。何も描いていない真っ白な布に、色鮮やかな糸で絵を描いていく。ひと針ひと針、じっくりと進めていくこの作業が楽しい。
指を突かぬように気を付けながら、しかしリズム良く、テンポ良く針を進め、思い描いていた通りの絵を形にしていく。
夫に頼まれたハンカチを、なるべく早く仕上げたい。ただ渡すだけでなく、可愛らしく包んで渡したらもっと喜んでくれるだろうか。大事にしてくれるだろうか。たった一枚のハンカチを、彼はどんな顔をして受け取るのだろう。
まだ半分しか刺せていない。あと半分。あとどれだけの時間が掛かるだろう。修道院にいた頃ならば、きっと三日と経たずに完成していたであろうハンカチの刺繍。今はやる事が増えたせいか、半月が経ってもまだ完成していなかった。
「レイラ、入っても良い?」
「少々お待ちくださいませ」
すっかり部屋が暗くなってしまった事に漸く気付き、レイラは部屋の扉をノックする夫を出迎える為、裁縫箱にハンカチを仕舞い込む。作業に集中していると、時間が過ぎ去るのが早いようだ。
「どうぞ、お待たせいたしました」
「何をしていたの?」
ひょっこりと扉から顔を覗かせたロナルドは、レイラが大事そうに裁縫箱を仕舞っているのを見ながらそっと部屋に入って来た。
仕事が終わるのが少し遅くなってしまったとぼやいてはいるが、レイラが約束通りハンカチに刺繍を刺してくれているのが嬉しいらしく、表情は明るい。
「お約束の物を」
「少し見ても…ああ、駄目か」
駄目ですと腕の中に裁縫道具を抱えるレイラに、ロナルドは諦めたように小さく溜息を吐く。何度見せてほしいと強請っても、レイラは完成するまでのお楽しみだと言って絶対に見せようとしないのだ。
「そういえば、母上から聞いたよ。今年の冬は石炭よりも薪を優先して使うんだって?」
「ああ…本決まりなのですね、そのお話」
つい調子に乗ってぺらぺらと喋ってしまったのだと恥ずかしそうに話すと、ロナルドは小さく声を漏らしながら笑った。
「母上はレイラが大好きなんだよ。大好きなレイラが、未来の女主人として一歩踏み出そうとしている!って最近大喜びなんだ」
「喜んでいただけているのは嬉しいですが、私はやりたいと思った事をやらせていただいているだけです」
裁縫箱を棚に仕舞うと、レイラは先にソファーに座っているロナルドの隣に腰かける。
いつか胸を張ってネルソン家の妻として立って行けるように、ロナルドの役に立てるようになりたくて必死なだけなのだ。
「すっかり我が家の妻になってくれたね」
「そうでしょうか?」
「うん。嫁いで来たばかりの頃は…こう、コリンズ家の令嬢って感じだったから」
「令嬢でなくなってから長い時間が経っている筈なのですけれど」
クスクスと小さく笑い、レイラは嫁いで来たばかりの事を思い出す。何を話しても、何をしてもらってもにこりとも微笑まなかった。夫がいなくても、静かで良いとしか思わなかったのに、今では帰りが遅いと寂しいとさえ思うようになっていた。
「俺に何か出来る事があったら何でも言ってね。協力するから」
「ありがとうございます。頼りにしておりますね」
にっこりと微笑むと、ロナルドの頬がうっすらと赤く染まる。いつの頃からか、レイラはよく微笑むようになった。柔らかく、幸せそうに。それがロナルドにとって嬉しくてならないのだ。
少しずつ、甘える事も覚えてくれた妻を出来る限り甘やかす事が、ロナルドの幸せでもある。
「ハンカチ楽しみだな。どんな柄になるんだろう」
「秘密ですと申し上げているではありませんか。もう暫くお待ちください」
「待ちきれないんだよ」
レイラの頭に自身の頭を当てながら、ロナルドは静かに目を閉じる。冬支度に追われ始め、疲れていても、この静かで穏やかな時間を噛み締めたい。そんな思いを感じ取りながら、レイラもロナルドに体を預けた。
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