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十九話

アイリスとお茶をしてから暫く、レイラは一人で考えこむ事が増えた。

修道院にいた頃は、何か考えたところで全て無駄だった。どこにも行けない、誰か頼れるような人もいない。何かしたい、何処かに行きたいと考えてみた所で、それが叶う事など無いのだから、考えるだけ無駄だと思っていたのだ。


だが今は違う。

まだネルソン家に嫁いできてから半年も経っていないが、夫や義理の両親はとても良くしてくれる。夫の隣は居心地が良い。夫からは愛されていると思えるし、大切にされているとも思う。夫の事を愛したいとも思うし、夫の為に何かしてやりたいと思う。


何をどうすれば良いのか分からない。

そもそもどうすれば良いのか考えて来なかったのだから、分からなくて当然なのだ。


「レイラ、どうかした?」


普段家族が集まる談話室で、レイラは静かに刺繍を刺していた。ロナルドに頼まれたハンカチに刺繍を刺している最中だったのだが、考え事をしているうちに手が止まっていたようだ。

隣で本を読んでいたロナルドは、レイラの動きが止まった事に気が付き、レイラの顔の前で手をひらつかせた。


「考え事?図案に悩んでいるのかな」

「いえ、別の事を…」

「刺繍をしながら考え事か、器用だね。でも針を刺したら危ないから気を付けないといけないよ」


心配そうな顔をするロナルドに微笑みながら、レイラは手にしていた針を裁縫箱に収める。まだ刺し始めたばかりのハンカチも一緒に収めると、ロナルドも読んでいた本を閉じた。


「何か悩み事?」


小首を傾げ、話ならいくらでも聞くよと言いたげに微笑むロナルドに、レイラはじっと視線を向ける。

今日も夫は優しく微笑んでくれる。黒目黒髪という平凡な見た目だが、仕事柄なのか人好きする笑顔。左目の下にある小さな黒子が、どことなく穏やかそうに見えるのは何故なのだろう。


「悩み…なのでしょうか」

「うん?」

「最近、色々と考えてしまうのです」


夫の黒子をじっと見つめながら、レイラはぽつぽつと言葉を零す。

頭の中で話したい事を纏める事も出来ない。だが、それでも彼なら、ロナルドならきちんと話を最後まで聞いてくれるだろう。不思議な程すとんと落ちてくる安心感。きっとそれは、普段からロナルドがレイラに向き合ってくれて、真直ぐに愛してくれているからなのだろう。


「私は、ネルソン家の…貴方様の妻に相応しいのでしょうか」


レイラの言葉に、ロナルドは目を見開く。

何を、と言葉にされる前に、レイラは言葉を続けた。


「以前もお話したかと思いますが、私は何も持っていません。持参金すら無く、嫁入り衣裳も、普段の生活に必要な物も全てご用意いただきました。嫁いできてから半年近く経ちましたが、私は妻としての役割を果たしておりません」


何も持っていない。

小さな鞄に押し込めるだけの服や靴、そして一冊の本。それだけを持ってこの家に嫁いで来た。

嫁いできてから家業を手伝うだとか、社交の場に参加する事はしていない。それどころか、跡継ぎを生む為の行為すらしていない。たった一度、初夜を義務的に行っただけだ。


「相応しい人になりたいの?」


ロナルドの問いに、レイラは僅かに迷いながら頷く。自分でもどう思っているのか分からないのだが、きっとそう思っているから色々と考えてしまうのだろう。


「妻というものが、どういう存在なのかを私は知りません。お義母様のなさっているように、夫の帰りを待ち、夫の為に家業の手伝いや、社交の場に出る事が役目の一つである事は理解しているつもりなのです。ですが、私は一つも出来ておりません」


夫の帰りは屋敷で待っている。だがそれは、他に行くところが無いから。ロナルドの帰りが遅ければ、先にベッドに入って休んでいる事すらある。寝顔だけ見て自室に帰って行く夜が多いロナルドは、一度だって文句を言った事は無い。


だがあまり良くない事であるとは理解している。クローディアは、どれだけ遅くなっても夫の帰りを起きて待っているらしい。無理に待たなくて良いと優しく言ってくれるロナルドの言葉に甘えているし、クローディアの無理は長続きしないからという微笑みにも甘えている。


「色々考えてくれているのは嬉しいけれど、俺はレイラに対して不満は一つも無いんだ。俺の妻になってくれただけで、それだけで充分だから」

「ですが、私はそれで満足していただきたくないのです」


ぎゅっと拳を握りしめながら、レイラはロナルドに迫る。

何も持っていないのなら、持っていないなりに何かしたい。

何をしたら良いのか分からずとも、何か返したい、夫の役に立ちたい。そう思うようになったのは、レイラがロナルドに対して心を開いている証拠なのだろうか。


「どうしてそう思ったの?」


元々考えていた事ではあるのだ。

とても良くして貰っているのに、何も返せない事が心苦しかった。

先日アイリスとお茶をした時、その思いは更に強まった。アイリスは婚約者であるオリバーの話をする時はとても幸せそうに見えたのだ。


彼の誕生日が近いから、贈り物を考えるのが大変。彼の好きなものはこんな物。贈り物の候補は幾つかあるがどれが良いだろうか。彼が愛してくれるから、幸せでいられる。


そう話すアイリスを羨ましく思ってしまった。

自分もアイリスと同じように、一人の男性に唯一の女性として愛されている筈なのに、アイリスのように心の底から幸せだと胸を張っていられない。


自分もアイリスとオリバーのように、愛し愛される関係になりたい。

愛してもらえている。それならば、あとは自分がロナルドに愛を返す番。


そう思ったのだとロナルドに話すと、彼は困ったように眉尻を下げて小さく唸った。


「自惚れてしまいそうなんだけれど…」

「と、言いますと?」

「だって、その言い方だと、レイラは俺の事を愛してくれているみたいじゃないか」


照れ臭そうに笑いながら、そう思っても良い?と言葉を続けたロナルドに、レイラは言葉を詰まらせた。


一瞬の間。カッと熱くなった顔。

何を言っているのだろうと恥ずかしくなったが今更だ。口にしてしまった言葉はもう元には戻らない。嬉しそうにニコニコしている夫に向かって否定の言葉を口にする気は無いが、待ってくれと顔を俯かせるしかなかった。


「そうだなあ…レイラがどうしても妻として何かしたい!って言ってくれるのなら、まずは社交の場に少しずつ出てみるのはどう?」


ロナルドの提案に、レイラはこくこくと何度も頷く。

正直公の場に出るのは少しだけ怖いが、ロナルドが一緒なら何とかなる。というよりも、ロナルドがレイラ一人で外出する事を嫌がるのだ。


もし万が一、ダラム伯の手の者に何かされたら大変だから。子供だからという理由で生かされた命。成長し大人になったら自分の息子と結婚させる予定だったから生かされていた。だが、もうそのどちらの理由ももう意味を持たない。


成人した女性で、結婚相手はダラム伯の息子では無い。もう必要のない、邪魔な存在となったであろうレイラは、守られていなければ危険なのだ。


「あの…若い女性たちの集まりに参加しないかと手紙をいただく事があるのです。そちらには…」

「駄目」


ですよね。そう言葉にする事はしなかったが、レイラはきゅっと唇を引き結んだ。


「ごめんね。一人で出かけたい時もあるだろうけれど…危険な目に遭ってほしくないから」

「心得ております。ですが、ずっとこのままなのでしょうか…?」


守られているのが嫌なわけでは無い。それだけ大事にされているという事だし、レイラだって恐ろしい目に遭いたいわけでは無い。

だが、この先長い人生を、ずっと守られ続けていくのかと思うと、何だか嫌だった。


「ダラム伯と、現ライトリー男爵が完全にレイラから興味を失ったと確証が持てるか、二人が死ぬか。そのどちらかが確認出来れば、一人で出かけても良いよ」

「いつになるか分からないお話ですのね」

「ごめんね」


申し訳なさそうに眉尻を下げるロナルドに、レイラはそっと首を横に振る。

正直、住む場所が変わっただけで幽閉生活と変わらないでは無いかと思う時もある。

上等な服、温かくて美味しい食事。ふかふかの寝床。修道院にいた頃よりも随分生活レベルは向上したし、大事にされているおかげで孤独を感じる事も無い。


たった一つ、一人で外に出てはいけないという約束以外は、何も文句など無い。


「社交の場に出る他に、何か私に出来る事はありませんか?」

「そのうちで良いけれど、仕事の手伝いをしてもらえたら嬉しいかな。そのうち跡を継ぐから、レイラはネルソン夫人として客人のもてなしをするだとか、女性客相手に手紙のやりとりをするだとか…そういう事を手伝ってくれたら助かるよ」


女性の扱いって苦手なんだよねと笑うロナルドに、レイラは再びこくりと頷く。

客人を持て成す事、手紙のやり取りに関しては、現在クローディアがやっている事だ。少しずつ教わっていけば、ロナルドが跡を継ぐ頃には多少出来る様にはなっているだろう。


「お義母様に教わろうと思うのですが、ご迷惑では無いでしょうか?」

「きっと喜ぶと思うよ。レイラが前向きに、我が家の妻として生きようとしてくれているって事だから」


ロナルドの言葉がスッと胸に落ちていく。

ここ最近あれこれ考えてしまうのが何故なのか自分でもよく分からなかった。普段してもらっている事への恩返しのつもりだとか、してもらっているだけでは申し訳ないだとか、そういう理由なのだと勝手に結論付けていたのだが、ロナルドの「ネルソン家の妻として生きようとしている」という言葉がしっくり来たのだ。


「ネルソン家の妻に、私はなれるでしょうか」「なれるよ。レイラが望んでやってくれるのならね」


そう笑ったロナルドは、嬉しそうにレイラの頭を撫でる。

何となく子供扱いをされているような気がするのだが、きっとこれがロナルドの愛情表現なのだろう。嫌だとは思わないし、大きくて温かい手が何度も頭を撫でてくれるのは嬉しかった。


「もう一つ、考えている事があるのです」

「何?」

「ロナルド様の妻にはなれるでしょうか」

「それはネルソン家の妻になるのとはまた別って事かな?」


レイラの言葉の意味を理解出来ていないロナルドは、どういう事かと首を傾げる。まだレイラの頭を撫で続ける手は、規則正しく動いていた。


「ロナルド様は次期当主になられるのです。であれば、そのうち更なる跡継ぎが必要になりますよね」

「…そういう話?」

「大事な事です」


真面目な顔をしたレイラを前に、ロナルドは動かし続けていた手を止める。

どういう反応をすれば良いのか分からないようで、僅かに赤くなった顔をレイラから逸らした。


「あー…追々で良いと思うんだけれど」

「追々とはいつのお話ですか?」

「それはまだ分からないけれど…だって、まだ結婚して半年も経っていないんだよ?そんなに焦る事は無いと思うんだ」


どこか落ち着かない様子のロナルドは珍しい。だが、レイラは真面目に話しているのだ。


妻として嫁いで来た女の一番の大仕事は跡継ぎとなる子を生む事。現状子を生む為の行為すらしていないレイラは、役目を果たす事など出来る筈も無かった。


「跡継ぎ、必要ではありませんか?」

「いや、必要だけど…でも、今じゃない」

「ではいつなのですか」

「…それは、分からないけれど」


煮え切らない態度のロナルドに、レイラは僅かに眉間に皺を寄せる。今まで何もせずにいたのだから、突然こんな話をされても困るのだろうが、真面目に話しているつもりだっただけに、この反応は予想していなかった。ロナルドも乗り気だと思っていたのだ。


「その話はもう少し落ち着いてからにしよう。いきなりあれこれ始めようとしたって、レイラが疲れてしまうと思うから」


そろそろおやつにしようかと話を逸らし、ロナルドはぽんぽんとレイラの頭を撫でながら立ち上がる。使用人の誰かを捕まえてお茶の支度をさせるつもりなのだろう。


先走りすぎた事を反省しながら、レイラは部屋を出ようとするロナルドの背中を見つめる。髪の隙間から見えたロナルドの耳は、普段よりも赤い気がした。


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