十七話
朝から自室に閉じこもり、誰も部屋に入れずにいれば、レイラが一人になるのは簡単な事だった。
寝間着姿のまま扉に耳をつけ、廊下の気配を探る。どうやら近くに人はいないようだ。
一晩うだうだと考えてみたが、やはりレイラは大人しく夫の言う通りにする気にはなれなかった。
全員死んだとばかり思っていた家族が、たった一人だが見つかったかもしれないのだ。
本当に兄だったら、再会出来たらどうしよう。お兄様と呼んでも良いだろうか。再会を喜ぶハグをしたら抱き返してくれるだろうか。
それとも、一人だけ修道院という命の危険の無い場所に押し込められていた事を詰られるだろうか。
そんな事を考え、レイラはふるふると首を振る。
まずはどうにかしてクラリスに接触し、本当に兄が生きているのかを確認する所からだ。生きている事が確認出来てから、その先の事を考えよう。
一人きりの部屋で小さく頷くと、レイラは部屋の収納に押し込んであった鞄を取り出す。
中に入っている服を取り出すと、慣れた手付きで寝間着からそれに着替える。
今の生活で着ているドレスに比べると、随分とボロボロで古めかしいものだが、外に出るだけならば服としての役割は機能する。むしろ、良家の子女やら妻には絶対に見えない。こそこそするにはもってこいだ。
ぼさぼさの髪に手早くブラシを通し、少々雑にリボンで結んだ。化粧は一切せず、指に嵌めている結婚指輪は少し迷いながらもドレッサーの上に置く。
鏡に映るのは、どこからどう見ても町の女。それも、少しみすぼらしいくらいの。
「上等だわ」
にんまり笑うと、レイラはそっと窓を開いて下を見る。二階にある部屋は地面まで少々距離があるが、レイラの部屋の下は普段使われていない部屋だ。多少ガサガサと煩くしていても、運悪く使用人が掃除でもしていない限りは見つからないだろう。
大きく窓を開くと、レイラは手早くカーテンを引きちぎるようにして外す。ベッドの脚に結び付け、長さが足りない分はもう一枚のカーテンとベッドから引き剥がしたシーツを繋いだ。
これで良し。あとは恐れずに伝うだけ。
これくらい出来なければ兄には会えない。そう思うと、不思議と窓の外に身を乗り出しても恐ろしいとは思わなかった。
◆◆◆
「呆れた」
目の前で心底呆れた表情のクラリスは、みすぼらしい姿で堂々と胸を張るレイラに向かって溜息を吐く。
この町で貴族の客人が宿を取るのなら、ネルソン社のすぐ近くにある高級ホテル。そう目星を付けていたレイラは、せっせと窓から脱出し、荷物が入った鞄を肩に引っ掛けて走ったのだ。
流石にホテルの中には入れてもらえず、押し問答している所にたまたま通りがかったクラリスに助けてもらい、今に至る。
「ネルソン家の奥方がそんな…何ですの、その恰好?」
じろじろと頭の先からつま先まで観察されながら、レイラはぶすっとした顔をクラリスに向ける。
そこまで怪訝そうな顔をしなくても良いじゃないかと文句を言いたかったが、客室で優雅に寛ぐクラリスはどこからどう見ても貴族のお嬢様。流行の最先端のドレスを身に纏い、髪はきちんとセットされ、華やかにメイクも施されている。
それに比べ、今のレイラはまるで下働きの若い女だ。
「そんな姿で現れて、同情で貴方のお兄様について教えてもらえるとでも思ったのかしら?」
「私が一人で着られる服はこれだけですので」
ロナルドが買い与えてくれた服は、とても一人では着られない。寝間着姿のまま外に出るよりは、今着ているボロの方がマシだ。
「お屋敷の誰にも見られずに出て来たの?私の所に来るのは反対されると思っていたのだけれど」
「窓から降りました。カーテンとシーツを繋いでするすると」
レイラの言葉に更に呆れたのか、クラリスは一瞬言葉を失ったように見えた。
目をまん丸に見開き、「はあ」と小さく呟くと、気を取り直したように表情を戻すと、クラリスはひらりと手を振った。
「まあ良いわ。何か御用かしら?」
「兄についてお教えいただきたく参上いたしました」
「貴方が本当にコリンズ家の御令嬢ならね」
すっと目を細めたクラリスは、さあ早く証明しろとばかりにレイラの動きを待つ。
それが分かっているレイラは、大事に胸に抱えた鞄の中から一冊の本を取り出した。
「私はコリンズ家にいた頃の記憶がほぼありません。コリンズ家の令嬢である事を証明する品も持っておりません。唯一、母から手放すなと言われたこの本以外には」
ボロボロの鞄から取り出した、古い本。それをクラリスに差し出すと、レイラはじっと真直ぐに視線を向けた。
黙って本の表紙を見つめるクラリスは動かない。
小刻みに震えるレイラの手。
もうこれ以上何も出せる物が無い。
これで駄目なら後は何をすれば良いのだろう。
「その本の内容は言えるかしら」
「我が家の古い造船記録です。当時は最先端の技術だったのでしょうが、現在では時代遅れかと」
「そう…」
すっと目を閉じると、クラリスは小さく溜息を吐く。
小さく何か呟いているようだが、レイラには聞き取れない。
「他には?」
「さあ…何度も読みましたが、重複していたり、頁が抜けている箇所がありますので全ては理解しておりません」
目を閉じたままのクラリスは、レイラの返事に納得したのか小さく頷くとそっと立ち上がる。
レイラの差し出す本を手に取ると、その表紙を優しく撫でた。
「この本は…大切な物なのかしら」
「母から家宝だと言われました。何があっても、絶対に手放してはいけないと」
「そう。では、今こうして私の手にあるのは良くないのではないかしら。燃やしてしまうかもしれないわよ」
「そうしたいのですか?」
じっとクラリスの顔を見つめるレイラの顔に表情は無い。
ただじっと、真っ青な瞳をクラリスに向けるだけだ。
「しないわ。お返しします。これは確かに、コリンズ家の宝ですから」
にこりと微笑んだクラリスは、恭しく頭を下げる。
貴族令嬢が頭を下げるなんてと慌てても、クラリスは頭を下げたまま動かない。
「数々の非礼、お詫び申し上げます。貴方様の兄、ローガン様について私の知る限りの事をお話いたします」
クラリスの言葉に、レイラの動きがぴたりと止まる。
たった一冊の本を見せただけでこうも態度が変わる理由が分からない。
理解するより先に、そっと姿勢を戻したクラリスがレイラを椅子に座らせようと背中を押す。のろのろとした動きで従うと、レイラはストンと力が抜けたように腰を降ろす。
「ローガン様はご無事です。我が家で保護…いいえ、お世話をさせていただいております」
クラリスが言うには、兄であるローガンは現在二十六歳。多少健康状態に問題があったが、今はきちんとした治療を受けながらピノア家本邸で生活しているらしい。
「何故、兄を助けてくださったのですか?」
「我が家の前で倒れておられたのです。こちらの国から逃げ、我が国に逃れてから慣れない環境で労働に勤しんでおられたとの事でした」
静かに淡々と話すクラリスの言葉をぼうっとした頭で聞きながら、レイラは力の抜けてしまった体を支える事に必死だった。
ダラム伯陣営に紛れ込んでいた味方によって、なんとか隣国であるバーウィッチに逃げ延びた兄は、保護してくれる筈だった親戚筋を頼りに移動していたらしい。
だが、不運な事にその親戚筋はローガンを認めようとしなかった。隣国の親戚とはいえ、罪人として捕らえられた筈の男を匿う事を良しとしなかったのだ。
頼れる筈の親戚に頼る事も出来ず、かといって自国に戻る事も出来ず、ローガンは生きる為慣れない労働をし、あちこちを点々としていたそうだ。
「あの…失礼ですが、何故兄をコリンズ家の人間であると信じられたのですか?私の事は…その、お疑いでしたのに」
「それは…ローガン様の所作が貴族のものであった事、お持ちだった荷物の中にコリンズ家の本があったからです」
たったそれだけ。たったそれだけでクラリスを始め、ピノア家の人々はローガンという男をコリンズ家の人間であると認めたのだろうか。それこそ理解が出来ない。納得がいかなかった。
「親戚筋の方々に贈られた船の事もご存知でした。自分も一緒に設計した船で、悪戯をしたのだと仰せで…」
「悪戯?」
「はい。設計図には無い収納を作ったのだそうです。マストに取り付けた見張り台の足元に、小さな収納を作ってお酒を隠しておいたそうです」
ローガンの証言により、ピノア家は船員の一人に金を握らせて確認させた。そして、ローガンの言葉通り一本の酒瓶が見つかったのだ。
高価な物では無かったが、ちょっとした悪戯、見張りをしている者がもし見つけたら、ちょっとしたプレゼントになるように入れた物だった。
「ローガン様がお持ちだった本は、レイラ様がお持ちの本の対となる物だそうです。二冊の本を合わせて初めて、コリンズ家最高傑作の船が出来上がるのだとローガン様は仰せでした」
他所に知られたくない情報だから、最初から読む気が失せるような書き方をした。抜けている頁は対の本に記されている。重複した箇所は読まなくて良い箇所。
そう教えてくれたクラリスは、レイラを見つめながらゆったりと微笑んだ。
「ローガン様にお会いになりたいのですよね。我が家はいつでも歓迎いたします」
会いたい。
すぐにそう答えたかった。生きているのなら会いたい。昨晩までは確かにそう思っていたのに、いざ会えるかもしれないと思うと勇気が出なかった。
何より、ロナルドに黙って決められなかったのだ。
ダラム伯に目を付けられるかもしれない。危険だからやめてくれと何度も言われた。それを聞かずに今こうしてクラリスの元にいる事は良くない事だ。
「元のご家族が大切でしょう?私は家族を失った事はありませんが、血を分けた家族は特別なもの。会いたいと思って当然です」
「そう、ですが…」
口ごもるレイラに、クラリスは更に言葉を投げる。
「今すぐに決断されずとも構いません。私が帰国した後、お手紙をくださればいつでも客室の掃除をしておきましょう」
クラリスがそう微笑んだ途端、部屋の外が騒がしい事に気付いた。
誰かが怒鳴っている声がする。何事かと扉に目をやった瞬間、その扉は勢い良く開かれた。
「レイラ!」
「旦那様!」
「あらあら、お早いお迎えでしたわね」
ふふふと小さく笑うクラリスは、煩いぞと人差し指を口元に当てながらロナルドを見る。
大急ぎで向かってきたのか、ロナルドの息は荒い。怒っているのがありありと分かる程、眉間に深い皺を刻みながらレイラを睨んでいた。
「レイラ、駄目だって言ったじゃないか!」
「申し訳ありません…」
「あら、レイラ様はご自分のご家族を求めて私の所にいらしたの。私のお客様よ」
何故こんなに早く夫が現れたのか分からないと困惑しているレイラに、クラリスは小さくごめんなさいと詫びた。
レイラがホテルに現れ、客室に連れ込んだのと同時に、連れてきていた使用人にロナルドに報せるよう言いつけていたのだ。きっと心配するだろうからと。
「私、ただ守られている女って嫌いなの。レイラ様はお兄様の事が知りたいという目的の為に動いたわ。窓からカーテンとシーツを使って降りてくるなんてね」
くすくすと笑いながら、クラリスは「そんな恰好までして」と付け足す。
今更ながらボロボロの姿でいる事が恥ずかしくなり、レイラはそっと俯いた。靴までしっかりボロボロで、より一層恥ずかしい。
「ローガン様に会いたいのなら、我が家はいつでも歓迎すると奥様にお伝えしたところよ。どうするかはそちらで決めてちょうだい」
そう微笑みながら、クラリスはパンパンと両手を叩く。
そっと姿を現したメイドに向かって振りむくと、レイラを指しながらにっこりと微笑んだ。
「私のドレスで良いわ。奥様のお着換えを」
そんなにみすぼらしいだろうか。
お任せくださいと微笑んだメイドにしっかりと捕まえられながら、レイラはずるずると隣の寝室に引き摺られていった。
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