十三話
ロナルドとデートと言う名のデートをして数週間。部屋に飾られた真っ黒なテディベアは、ロナルドの帰りが遅い日にはベッドに陣取り、レイラの抱き枕になりつつあった。
ふわふわと気持ちの良い手触りが、まるで雲に抱き付いて眠っているような気になって落ち着くのだ。
ロナルドはそれを知ると複雑そうな顔をしていたが、自分が贈った贈り物を大層気に入ってくれた事が嬉しいのか、ベッドから排除しようとはしなかった。
「すっかりお気に入りですね」
「可愛いじゃない」
いつも通り着替えの世話をしてくれるデイジーは、ベッドで一緒に座っているレイラとテディベアを見ながら呆れたように微笑む。
よしよしとテディベアの頭を撫で立ち上がると、レイラはそっと窓の外を眺めた。
すっかり夜の近付いた薄暗い空。夫の帰りはそろそろだろうか。まだ帰ってくるという知らせは来ないが、今日は遅くなるとは聞いていない。
出迎えの支度は既に済ませているのに、出迎えられる男がまだ現れないのではどうしようも無い。そわそわと落ち着かないレイラに、デイジーはふっと嬉しそうに口元を緩めた。
「下で待つわ。旦那様がお戻りになられたら教えてくれる?」
「畏まりました」
落ち着かないのなら下で待っていれば良い。玄関が騒がしくなったらすぐに出て行ける様に。
さっさと部屋を出て、軽やかな足取りで階段を降りた。降りてすぐのホールには、客人を待たせる為のソファーが置かれている。普段レイラがそれに座る事は無いが、一番に迎えられる場所は此処だ。
迷うことなくすとんと腰を降ろし、じっと玄関扉を見つめる。
この家に嫁いできてから約四か月。最初の頃は絶対に夫を愛する事等有り得ないと思っていた。家族と別れ、一人生き延びてしまった事への罪悪感は未だにあるが、優しく包み込んでくれるロナルドの腕の中が心地よい事を知った。
夫は未だにレイラを宝物のようにでも思っているのか、共に眠る事はあってもそれ以上の事を求めては来ないが、受け入れても良いと思える程度には、ロナルドに対して心を開いていた。
そわそわと、まるで飼い主によく懐いた犬のように玄関ホールで待ち受ける程に。
夫に何を話そう。今日は何をしたと報告するのが楽しみになった。
ロナルドも今日は何を見た、どんな話をした、仕事でこんな事があったとレイラに話す事を楽しんでくれているように思う。
眠る前のほんのひと時。一日の内のほんの僅かな時間だが、若い夫婦にとって貴重で、幸福な時間なのだ。今日はどれだけその時間を持つ事が出来るだろう。どうしたって夫の帰宅時間に左右されるのだ。
どうか願わくば、今日は仕事に追われる事無く少し早く帰ってきますように。そう願ってしまう程、レイラにとってロナルドは大きな存在となっていた。
「あらレイラ、こんな所でどうしたの?」
階段から降りて来た義母は、目を丸くしてレイラを見る。
自室か談話室にでも居れば良いと言ったが、レイラはゆったりと首を横に振ると照れたように頬を赤らめる。
「此処に居れば、旦那様がお帰りになられてすぐにお顔を見られるかと思いまして」
「あらあら、お熱いわね」
クスクスと小さく声を漏らして笑いながら、クローディアはレイラの隣に腰を降ろす。
一人では退屈だろうと笑いながら、クローディアはレイラの横顔をちらりと盗み見る。
「息子を愛してくれているみたいで、とても安心したわ」
「愛しているかは…分かりません。ですが、御帰りが待ち遠しいと思うのは本当です」
義理の母に何を言っているのだろう。何だか気恥ずかしいが、嘘は言っていない。
居なければ静かで良いとも思うが、なんだかんだ寂しいと思ってしまう事が増えた。
書庫の本を読み、これは面白いと思えばロナルドに話したくなるし、散歩をして綺麗な花を見つければ教えたくなる。何処かに行きたいと思えば、それは一人ではなく、他の誰でもないロナルドと一緒に行きたいのだ。
それを、愛と呼んで良いのかレイラには分からなかった。
「お義母様、ネルソン家の妻でいる為には何をしたら良いでしょうか」
「なあに、突然?」
揶揄われるのが恥ずかしくて話を逸らす様に、レイラは最近悩んでいる事をクローディアに打ち明ける。
何かしてやりたいとは思うのだが、レイラは何も持っていない。差し出せるものは無いのだから、せめてやれる事はやりたい。そう思っている事を告げると、クローディアはうーんと小さく唸った。
「私は会社の経営には殆ど手を出していないのよ。夫がそれはしなくて良いと言うから」
「そうなのですか…」
「でも夫はね、実は社交がとっても苦手なの」
秘密ねと人差し指を口元に持ってきたクローディアは、夫の話をしてくれた。
本当は人見知りが激しく、社交の場に出るのが苦手な事。仕事の時も必死で交渉をしたりするが、帰ってくるとぐったりしている事。だから夫婦で社交の場に出る時はクローディアがそれとなく会話をリードするし、ご婦人方との交流を積極的に行って夫の仕事の役に立てるようにしているとの事だった。
「直接的な手助けにはならないかもしれないけれど、社交って要は人脈を広げるって事でしょう?私は計算だとかそういう事は出来ないけれど、お喋りは大好きだから幾らでも出来るわ」
「私は計算もお喋りも苦手です…」
「無理をする事は無いわよ。ロナルドが帰ってきて、安らげる場所になってあげるのも手助けの一つじゃないかしら」
そう微笑んだクローディアは、ぽんぽんとレイラの膝を軽く叩いた。難しく考えなくて宜しいという事なのだろう。
だがレイラは何かしたい。何が出来るわけでもないが、今までと同じように屋敷に籠っているだけではいけないと思ってしまうのだ。
「仕事中のロナルドは怖いのよねぇ。女の子が見たらちょっと怯えるくらいに」
「そうなのですか?」
全く想像出来ない。ぱっと顔をクローディアに向けると、ニヤニヤとした笑みを隠しきれていなかった。
「社交界デビューさせてみたらね、お嬢さんたちがもの凄い数寄って来たの。パーティーなんかじゃニコニコしてるから、いつもそうだと思ったのね」
仕事の話をしに先日レイラも行ったネルソン家の事務所に、年頃の令嬢たちは自分の父親にくっ付いて現れる事が多々あったらしい。父親たちも自分の娘を見初めてくれれば大金持ちと縁続きになれる。それを期待した者たちは多かったが、パーティーのロナルドと仕事中のロナルドのあまりの違いに涙を浮かべて帰って行く令嬢が殆どだったのだとクローディアは笑った。
「あの子は最初からレイラにしか興味が無かったし、仕事とプライベートをきちんと分けたい子なのよ」
「…先日旦那様と一緒にお仕事場へお邪魔してしまいました」
「ええ、聞いてるわ。きっとあの子は、レイラに全部を知ってほしかったんじゃないかしら」
ただ海を眺めるのに丁度良かった。たったそれだけの理由かもしれないが、他の女性たちに引かれた線の内側に引き入れてもらえたような気がして嬉しい。
自分は特別。他の女性とは違う。
そう思えたのが、とても恥ずかしく、嬉しかった。
「お二人共、何をされているのですか?」
「新婚時代を思い出して、玄関で夫を待っているのよ」
何か仕事をしに行く途中なのか、執事の一人が並んで座っているレイラとクローディアに声を掛けた。
うふふと上品に笑うクローディアに、執事は何を言っているのだろうと眉をひくりと動かしたが、そわそわしたまま玄関扉を見つめるレイラを見ると、納得したように小さく頷いた。
「お帰りになられたらすぐにお報せいたします」
「良いの。待ちたい気分だから」
だからここに居させてくれ。そう言いたげな声色のレイラに、執事は深々と頭を下げて去って行く。
いつになったら帰ってくるだろう。夫が帰るまでは、ゆったりと義母とのお喋りを楽しもう。たまにはそんな時間があっても楽しいのだから。
◆◆◆
「た、だいま」
ぐったりと疲れ切った表情のロナルドが帰宅したのは、随分と夜も更けた時間になってからだった。
じっと玄関ホールで待っていたレイラだったが、流石に夕食の時間になっても戻らないとなると、しょんぼりと肩を落としてクローディアと共に食事を摂る他無かった。
「おかえりなさいませ」
ぶすっとむくれた顔で、レイラは真っ黒なテディベアを抱きしめ、ベッドの上からロナルドを睨みつける。
遅くなるなんて聞いていない。すっかり夜も更けてしまったでは無いか。まだ食事も風呂も済ませていないのに、ベッドに入る頃には何時になるのだ。
不満を露わにするレイラに、ロナルドは心底申し訳なさそうな顔を向けた。
「ちょっとトラブルがあったんだ」
「何があったのです?」
「新規の取引先が俺を気に入ってくれてね。商談が盛り上がって時間が掛かりすぎて…」
それにしては流石に遅すぎる。第一遅くなるのなら誰かに手紙の一つでも渡して屋敷に知らせるくらい出来るだろう。
それすら無かった事が何だか面白くなかった。
「お食事を先に済ませて来たら如何ですか」
「あー…それも取引先と一緒に済ませて来た」
だから遅かったのか。じろりと睨むレイラにそっと近寄ると、ロナルドはハグしても良い?と両腕を広げた。
「遅くなってごめんね」
熊を脇に除けると、ロナルドはしっかりと腕の中にレイラを閉じ込める。
本当ならばもっと早い時間におかえりなさいとハグをしていた筈だったのに、随分と遅くなったものだ。
勝手に待っていただけなのに、思っていたよりも夫の帰りが遅いだけでこんなにも不機嫌になるとは思わなかった。
鬱憤を晴らすように、レイラは渾身の力を籠めてロナルドの背に腕を巻きつけ、締め上げる。
ぐえっと苦しそうな声がしたが、ほんのりと香る酒の匂いが更に気に食わない。きっと取引先とやらに接待されたのだろう。
「遅くなるのならお報せください」
「ごめんね。遣いを出してくれって頼んでたんだけど、お邪魔した屋敷にいた御令嬢がなかなか強烈で…」
「御令嬢…?」
「そこのお嬢様らしくてね。かなり強引だったよ」
本当に良家の子女なのかなと溜息を吐き、ロナルドは疲れたとぼやきながらぐりぐりとレイラの頭に頬を寄せる。
女性もいる場所で酒を飲んでいた事を責める気は無い。そんな機会はいくらでもあるからだ。だが、強引だったという令嬢に何をされたのかが気になった。
「何かあったのですか?」
「隣国のドレスが欲しいから紹介してくれとか、お抱えの宝石商が気に入らないから誰か紹介してくれとかそういう…」
「それはお仕事になるのではないのですか?」
「う…そうなんだけど」
どこか歯切れの悪いロナルドに、レイラは静かに苛立つ。
早く吐けと更に腕に力を籠めると、観念したようにロナルドは溜息を吐いた。
「俺の見た目が気に入ったらしい」
「はい?」
思わずロナルドから体を離し、まじまじと夫の顔を見た。
艶やかな黒髪と同じ色の瞳。右目の下にある黒子で雰囲気が柔らかくなっているように思うが、少し釣り目のその顔は確かに美形の部類だと思う。
体も引き締まっているし長身。年頃の女性が夢中になるのは納得だが、この男は妻がいるのだ。それは知られている筈なのに、その令嬢とやらは何を考えているのだろう。
「気に入られて…どうなさったのです」
「怒らないって言って」
「場合によっては怒ります」
「…今度うちに来るって」
はあ!?
そう素っ頓狂な声が寝室に響いた。
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