一話
いつも通りのお約束、ふわっとお楽しみください。
結婚式ってもっと心躍る物だと思っていたわ。
朝から続いた儀式を漸く終え、新婦である女は寝間着に着替えさせられると、ベッドの脇に置かれたソファーに腰かけた。ぼんやりと窓の外を眺めるその瞳は深い青のサファイアのように輝き、月夜に照らされた髪もまた、金色に輝いていた。
初めて見る景色。初めて見る部屋。生まれてから二十年、女は恵まれているとはいえない人生を送って来た。
これから先の人生も、どうせ今までと大差無いのだろう。今日初めて見た男の妻となり、子供を生み育て、家を守る為良き妻であれと求められる。それが当たり前の世界なのだから。
どうせいつかはこうなっていたのだ。その相手がどんな男だろうと、女にとってはどうだって良かった。自分で自分を殺すことは許されない。いつか優しい人が自分を殺してくれる事を願っているが、今の所そんな人間が現れる事は無かった。
「やあ、お疲れ様」
与えられた部屋に現れた黒髪の男。にこやかに微笑みながら入って来た男こそが、今日初めて顔を見た夫である。真っ黒な寝間着姿で、嬉しそうに微笑みながら妻に向かって歩いてくるその姿をぼうっと見ながら、女は黙って座ったままだった。
「改めて、ロナルド・ネルソンだ。よろしくねレイラ」
立ち上がりもせず、返事すらしない妻に気分を害する様子すらなく、ロナルドはうっとりと頬を赤らめながらレイラの足元に跪く。
艶やかな黒髪を背中まで伸ばし、ゆったりと結んだ男の瞳は、髪と同じように黒かった。その黒い目が、じっと此方を見つめているのが気持ちが悪かった。
「何故、私を妻にしたのですか」
「君以外考えられなかったから」
当たり前の事を言っているつもりなのか、ロナルドはレイラの手を取りぎゅっと握りしめる。ひやりと冷たいレイラの手を包み込むロナルドの手はとても温かかった。
君以外考えられないと言われても、レイラはロナルドに会った記憶は無い。何処かで会っているのかもしれないが、残念ながらそんな記憶は無かった。それを伝えるとロナルドは少しだけ残念そうな顔をしたが、すぐに気を取り直したようにレイラの手を自身の頬に寄せてにっこりと微笑んだ。
「苦労はさせない。俺を愛してくれとも言わない。恋人を作ったって良い。でも、俺から離れる事は絶対に許さない」
ぞくりと背中に走る何か。
真っ黒な瞳がじっとレイラを見つめるのが、とても気味が悪く思えた。
「私の何を気に入られたのか分かりませんが、私は何も持っていません。持参金すら。ドレスも装飾品も貴方に用意していただきました。ですので、離れる事は出来ないでしょう」
淡々と告げるレイラに、ロナルドは嬉しそうににこにこと微笑み続ける。何処にも行けない、何も持っていないというのは本当の事だ。かつては大金持ちの男爵家令嬢だったレイラだが、現在はすっかり没落。それどころか、爵位は剥奪され、一家離散している。
「全部知っていて君を妻にしたんだ。俺は貴族では無いけれど、君に不自由させない事は約束するよ」
「何故?」
「君を愛しているから」
恥ずかし気も無く、堂々とそう言い放つロナルドに、レイラはそれ以上何も言う気にはなれなかった。
初めて会った男が、何故自分を愛していると言えるのか。何を思って妻にしようと思ったのか。何も分からないが、今までの生活よりはマシだろう。
両親と爵位を継ぐ筈だった兄は既にこの世にいない。親戚たちとも連絡は取れず、誰にも頼れないレイラにとって、ロナルドは縋りつくたった一つの希望なのだ。
「貴方の傍から離れなければ、それで宜しいのですね」
「出来れば妻として役目を果たしてくれると助かるけれどね。俺はこの家を継がなければならないから、跡継ぎが必要なんだ」
「子供を生めという事ですね。分かりました」
あっさりと了承された事が意外だったのか、ロナルドは僅かに目を見開く。だが、すぐにその顔を蕩けさせると、ゆっくりとレイラの体を抱きしめる為両膝を床に付けた。
ゆっくりと近付いてくるロナルドの体。優しく抱きしめてくるロナルドを拒否する事無く、レイラは黙ってそれを受け入れた。抱き返す事はしない。この男に縋らなければ生きていけないのだから。
◆◆◆
レイラの生活はこれまでと大きく変わってしまった。今までは朝を告げる鐘の音に起こされると身支度をし、質素な食事を済ませるとすぐに一人きりにさせられていた。
家族と離れ離れになってから、レイラは住んでいた屋敷のすぐ近くにあった修道院で軟禁されていたのだ。修道院の中は自由に動き回る事が出来たが、自室の外に出る時は必ず誰か見張りとして一緒について来た。中庭に出るくらいは許されたが、修道院の外に出る事は許されない。
どうしてこんな生活をと何度も考えたが、まだ幼かったレイラには何も分からなかった。大人になり、修道院の大人たちから聞かされた話では、父は大きな罪を犯していたらしい。
国を裏切る程の大罪を犯していたから、父は捕らえられ爵位も取り上げられた。そして、父の悪行を黙って見ていただけではなく、手助けをしていた母も同じように捉えられ、成人していた兄も加担していたと疑われて捕らえられた。
まだ幼く、跡継ぎでもないレイラは、修道院に軟禁されるだけで済んでいた。だが、捕らえられた三人はそうはいかなかった。数年の間に、劣悪な環境に置かれた三人は順番に命を落としたそうだ。
修道院から親戚に向けて何度も手紙を出したが、一度も返事は来なかった。もしかしたら親戚の元まで手紙が届いていないのかもしれないが、家族は皆いなくなり、誰も助けてくれないという状況が理解出来るようになると、レイラはただ一日が何事も無く過ぎ去るのをじっと待つだけになった。
それが、着替えをするだけでもメイドが世話するようになった。ボタンを自分で留めようとしたのだが、生憎ボタンは背中に付けられており、大人しく立っているしかない。
髪も美しく飾られ、これから何処かに出掛けるわけでもないのに毎日のように美しく飾り立てられるのだ。
「おはようレイラ。今日も綺麗だね」
「おはようございます旦那様」
「うーん…まだその旦那様ってやめてくれないの?」
ロナルドに嫁いでから早一月。世話をされる生活は久しぶりだが、屋敷での生活にも慣れて来た。ロナルドの客人がレイラを一目見ようと屋敷を訪ねてくる事もあったし、きちんと客人の前で妻らしく振舞っている。様になっているかは分からないが、屋敷の使用人たちは皆一流だし、もてなしに満足した客人たちは皆笑顔で帰って行く。
元貴族であるレイラは立ち居振る舞いやマナーに問題は無い。
ただ、ロナルドに心を開く事は出来ず頑なに旦那様と呼び続けていた。
昼間顔を合わせた時も、眠る前の僅かな会話の時間も、体を重ねる時も。どれだけ名前で呼んでと訴えられても、それは嫌だと突っぱねる。
「一回だけ」
「嫌です」
「今日は諦めるよ…」
今日は諦めても、どうせまた明日も同じ事を言われるのだ。いい加減しつこいと怒ったら、ロナルドは諦めてくれるだろうか。
だが、名前で呼べと願われるのは一日一回程度だし、一度拒否すればその日はそれ以上何も言われない。普段は仕事で忙しくしているし、朝と夜以外は殆ど顔を合わせる事も無い。一緒に過ごしているのは、義理の母が主だ。
「今日もお帰りはいつも通りでしょうか」
いつも通り、無表情のままレイラは夫に問う。帰ってくる時間に合わせ、着替えて玄関まで出迎えに行かなければならないからだ。
「今日は仕事には行かないって昨日言っただろう?」
毎晩恒例となった、眠る前の夫婦の時間。レイラは早く寝たいのだが、ロナルドは昼間仕事で忙しくしているから、夜眠る前の少しだけでも妻と接する時間が欲しいのだと言う。
昨晩の夫婦の時間にロナルドは仕事は休みにすると言っていたらしいのだが、眠いなとぼうっとしていたレイラはそれを聞き逃していた。
「眠たかったのかな?もしかしてその後の話も聞いてない?」
「…申し訳ございません」
「良いよ、遅くまで起こしていてごめんね。今日はレイラの首飾りを選ぶから、幾つか持ってこさせる事になってるんだよ」
結婚する時に散々用意してもらったのだが、これ以上用意する意味が分からない。
言葉を発さず固まり続けるレイラに、ロナルドは少しだけ困ったような顔を向けた。
「…もしかして、一緒に参加するパーティーの話も聞いてなかったのかな?」
「初耳です」
「話したんだけどな…まあそういう事だから。今日持ってこさせる首飾りはパーティー用だよ」
「結婚する時に充分ご用意いただきました」
「あれは普段使いとか、ちょっとしたお呼ばれ用っていうか…結婚して初めて夫婦で参加するパーティーだから、とびきり綺麗なレイラを見せびらかしたいんだ」
キラキラと輝かんばかりの笑顔を浮かべるロナルドは、ダイヤが良いか瞳に併せてサファイアが良いかなんて考え始めているようで、微妙に嫌そうな顔をしているレイラには気付いていないようだ。
もうこれは何を言っても無駄だろう。この一か月で、それはよく理解している。ロナルドは一度こうすると決めたらなかなか自分を曲げない。本気で嫌がれば引き下がってくれるが、基本的にロナルドは自分の希望を叶える男だ。
軟禁されていた元貴族令嬢を妻にしてしまうような男なのだから。
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