6回表
投手としてのレベルは確かに高い。だけど、どこか迫力に欠ける。少なくとも、ネットニュースで特集が組まれたことのあるほどの投手とは、到底思えない。それどころか、野手としての彼女の方が数倍魅力的に感じられる。
私、甘城四季は、一瀬桜花という選手を心の中でそう評した。
…ただ、どう見ても様子がおかしく本調子でないことは分かる。むしろ、意図的に手を抜いているのではと思える。腕が振り抜けていないし、体重移動もぎこちない。
そして、いくらブランクがあるだろうとはいえ、球速が売りの投手とは思えないほど致命的に球が遅い。
五回裏、こちらのチームが二人凡退したところ。ベンチに腰掛けている彼女は、足元の一点のみをずっと見続けている。隣に座っている若葉の方も、試合を眺める最中にチラチラとその様子を伺っている。
そんな状況なのもあって、ギスギスしているというか、険悪なムードが流れているというか、とにかく居心地が悪い。
金属音が響いた、白球は外野手の手前で一つバウンドする。
…五回の裏は、まだ続きそうだ。
どうすれば良いんだろう。
私、双葉咲は自分自身に問いかける。
憧れの人が明らかに苦しんでいるのに、何もできていない。
二年前の威圧感が完全に消え失せている桜花ちゃんは、私の理想とはかけ離れていて、見ているだけで辛くなってしまう。
三谷先輩だけでなくチームメイト全員が、彼女が投手だったことや、全国大会に出場したことを知っていた。というか、私が勝手に広めてしまった。
しかし、彼女の状態だけは誰にも伝えていない。
…私が、止めるべきだったんだ。
ボールが桜花ちゃんから飛んでくる。またボール球。これで、この回フォアボール二つ目。そして、まだワンアウト。
キャップのつばの影に隠れてしまい、彼女の表情が見えない。それでも、"鉄仮面"と呼ばれた彼女なら、きっと今も無表情のままだろうと思えた。
…そして、それが心からの表情でないだろうとも。
しかし、今の状況を五回表の私に伝えられたとしても、その時の私はきっと今と同じ状況にしてしまうだろう。
そして、怒りを吐き出すようにこう呟くのだ。
「だって、桜花ちゃんが投げられないなんて、信じたく無かったんだもん」
「双葉、前見ろ」
三谷先輩の声が聞こえた、反射的にその方向を見ると、ファーストの彼女がサードの方を指さしている。
サードの方へと目線を動かす最中に、私が見るべき場所と彼女の指がさしていた場所が正しく理解できた。
「タ、タイムお願いします」
そして、私はキャッチャーマスクを外しつつ、指の先にいた桜花ちゃんの方へと駆け寄る。
「ごめん、ちょっとボーッとしちゃってて」
「いえ、別に構わないですよ」
そこから沈黙が生まれた。
それは、呼び出し主の桜花ちゃんが、胸に手を当て呼吸を整えているからだろう。走り続ける緊張は、恋愛ドラマで見たことあるような告白シーンを思い出させた。
この二つの明確に違うところを挙げるとするなら、その告白の内容に見当がつくかどうかの一点のみだ。
「…えっと、どうしたの?」
緊張感に耐えきれなかった私は、つい口から声を漏らしてしまう。
だけど、返事はない。
そこからさらに数秒後。ため息が一つ吐いて、意を決した目つきと共に言葉を紡ぎ始めた。
「双葉さん、ど真ん中に構えててくれませんか。できれば、この回が終わるまでずっと」
その質問の意図を読み取れなかった私は、1秒2秒と考える。
もしかして、私のリードとかキャッチングに悪いところが…。
「…精一杯の、全力のストレートを投げ込むことだけに集中したいんです。
だから、コースへのコントロールとか、そういうのは不要なんです」
考え込む私にそう伝えた彼女の顔は、どこか暗い。だから、"なるほど"と納得できたし、"どうして"って違和感も覚えた。
「うん、それは分かった。けど…」
一度小さく首を傾げた桜花ちゃんは、言葉に詰まった私をじっと待っている。
私には、彼女がどこか不安を感じているように思えた。それも、光の見えない暗闇の中に取り残されたような、そんな途方もない不安を。
しかし、彼女は再び歩き出そうとしている。
一度絶望で立ち尽くしたはずの闇から、光を見つけ出すために。
パチン。
すぐ近くから響いた音を、耳が拾いあげた。それに続いて、私の右頬がジンジンと痛み出してきた。手のひらもちょっと痛い。
「…あの、何やってんですか」
疑問と同時に、隠していたであろう不安が表情に大きく漏れ出た。小さくこちらの方に差し出した手は、ほんの少し震えている。
「気合いを入れたんだよ。
だって、桜花ちゃんの全力を受け止めないとダメだから」
言葉の最中に、桜花ちゃんは目を大きく見開く。差し出されていた手は、ボールの入っているだろうグローブの中にゆっくりと吸い込まれた。
…もしかしたら、彼女に無駄なプレッシャーを与えるだけかも知れない。でも、言わないといけないと思ったから、だから、まだ続ける。
「だから、桜花ちゃんは私のミットだけを見て。
それで、思いっきり投げてきて」
「…そう、そういうこと」
言葉に遅れて、彼女は小さく笑った。それは、何かを嘲笑うような邪悪で不敵な表情だった。そして、豪快でも、うるさいわけでもない。ただただそれは、本能的な恐怖を与えてくるのみ。
不安なんて、もとより存在していなかったと言いたげな顔と風格の彼女は、私の目を見てこう言った。
「ボールぶつけても、謝りませんからね」
その様子を見た私は、興奮で体が震えている。
当然だ、私の知っている彼女は打席に立つことさえ愚かしいと思えてしまうほどの、"魔王"だったのだ。
私は、"魔王の再臨"を間近で体感してしまったのだ。