五回表
ほんの少し一塁側寄りな、センター方向への鋭い打球が飛ぶ。打者は曙高の八番打者だ。
「お姉ちゃん!」
ノーアウト一塁、ダブルプレーの取れるこの場面。二塁手である私、甘城四季に妹の六花はそう呼びかけた。意味は"お前が捕球をしろ"と言ったところだろう。
だから、私は一つバウンドしたその打球に対して、グローブをつけた左手を伸ばす。そして、彼女は二塁ベースに足を触れさせて私の送球を待つ。
良い当たりだったが、ついてないな。
問題なく捕球できると感覚が告げていたので、不運な相手を労わるように心の内でそう呟いた。
「あっやべ」
口からそう漏れたのは、私のグローブに弾かれたボールが呑気に二塁ベース後方へコロコロと転がり始めた時だった。
…後で三谷先輩から大目玉だな。そう頭によぎる。
「ベース!」
そう叫び、二塁で待機していた六花はボールの方へ駆ける。
彼女のやりたいことが瞬時に理解できた私は、二塁ベース付近で待機することにした。
一塁ランナーは既に二塁へと到着し、打者の方も一塁に到着するまで二、三歩程度の距離。
素手で転がるボールを捕球した彼女は、背を向けていた一塁方向に左足を強く踏み込む。
その位置は、ちょうど遊撃手の定位置辺り。
「ファースト!」
そう声をあげ、ボールを持っていない手を大きく腕を振るった。
私は、ボールが飛んでいるだろう方向を目で追う。
しかし、二塁ランナーはそれを見ても飛び出そうとはしなかった。
白球がグローブに収まる。しかし、その持ち主は一塁手の三谷先輩ではなく、二塁のベースカバーをしている私。
二塁に到着した走者に対して、"一塁方向へ送球をした"と誤認させて、飛び出しの誘発を狙ったプレー。
先ほどの六花のプレーを改めて説明すると。まず、素手での捕球後、グローブを付けた左手にボールを持ち替える。当然、騙す相手には見えないように体でその行動を隠して。
そして、ボールを持っていない右腕で、送球したフリをした。偽の送球後に、一塁方向に目線を外している私が捕球できる程度の、優しいけど弱くはない送球。
六花はそこらの野球女子を凌駕する強肩を持っているが、間もなく到着の一塁走者を刺そうとは流石に考えなかったのだろう。
まぁ、もし送球したとしても絶対に間に合わなかっただろうと、私も思う。
しかし、流石は兵庫県四傑の一角。そこらの中堅校とは違い雑な走塁はしてこないようだ。
「すみ…ません。もう限界です」
今試合重垣先輩の代理投手として投げ続けていた笹原が、この回二人の打者と対戦した後にそう漏らした。正直、審判のタイム宣告を聞いた直後からなんとなく予想はついていたが。
それでも、去年の夏の県大会ベスト4の曙高相手によくここまで投げ抜いたと心から思う。
たとえ4回2/3を4失点でも、褒められて当然の功績だ。
まぁ、バカスカ打たれた影響で、まだ五回途中なのにバッターは三巡目九番まで回っているわけだが。
「いや、十分頑張ったよ。お疲れ様」
私たち内野手と咲に囲まれた彼女に対してそう言ったのは、甘城四季だった。
しかし、お疲れ様と言われた笹原の表情は暗いままだ。…当然だ、彼女の懸念点は払拭されていないのだから。
「…それで、次、誰が投げますか?」
私、月樹は水を差すように言った。甘城姉妹と咲は俯いてしまう。その様子を見て、笹原はさらに表情を暗くする。
このチームには、もうピッチャーは残っていない。なんなら、彼女自身だって本職はセンターだ。
だからといって、彼女がこの試合のための急造投手なのかと問われれば、違うとは答えられる。彼女が左利きというのもあって、元からピッチャーとしての練習は一応していたからだ。
それはそれとして、言い方が悪かったな。
当然悪意はなかったが、それが相手に伝わっていなければ意味がない。
笹原に謝らなければと口を開きかけたタイミングで、三谷先輩がニヤケ顔でこう言った。
「…助っ人に投げてもらうってのは、どう?」
「えっ、桜花ちゃんに頼むんですか⁈」
それに対して、驚きの声を上げる双葉。
「ああ、確か投手としての登板もそこそこあったんだろ?
しかも、ストッパーとして」
そこまで言ってから、相手ベンチの方をチラリと見る。暗に、"これ以上相手を待たせるわけにもいかない"と、そう言っている気がした。
「野手としてもすげぇ選手みたいだし、投球の方も今日ぐらいは乗り切ってくれるかもしれん」
「確かに、投手としても凄い子ですけど…」
困ったような表情と物言いだが、"乗り切るなんて造作もない、彼女は凄いピッチャーなんだ"と先輩に言い返しているようにも聞こえる。
「…訳ありか知らないけど、とりあえず本人に投げるか聞いてみよう?」
そんな彼女を宥めるように、私は言った。
…それに対して、"核心を突かれてしまった"と言いたげな表情の双葉。
やはり、一瀬桜花が訳ありの選手ということで間違いなさそうだ。
だが、その具体的な内容を私は知らない。むしろ、このグラウンドで彼女本人以外にその事情を知る者は、双葉咲の一人だけと考える方が自然だ。
「よし、ちょっと私呼んでくるわ」
関西の訛りがほんの少し入った言葉を放ち、レフト方向へ駆けようとした三谷先輩。
「先輩、待ってください。
あなた顔つき怖いんで、助っ人が萎縮しちゃいますよ」
私はそう言って呼び止めた後、一瀬桜花と同学年である選手にこう言った。
「六花、代わりに行ってきて」
…一応、彼女が断りやすい環境、逃げ道を作っておきたい。本当に訳ありだとしたら、彼女は投げたくないと考えても不思議ではないからだ。
「…そこまで、言う?」
三谷響は、小さく寂しげにそう呟いた。