第29話 追跡者
目の前にハリル様が降り立ちました。
彼の腰にぶら下がった剣が仮にオシャレ目的であったとしても、刃物であることには違いないんですよね。丸腰の私を傷つけるのは容易でしょう。
目を離さないままジリジリと後退しますが、さすがに森の中ですから足元が安定しません。
「おとなしくしてください。もうすぐ仲間も来ますから逃げられやしませんよ」
その言葉に耳を澄ませば、確かに遠くから馬の足音が聞こえるような気がします。
「仮にあなたの言い分通りなら、一層ついて行くことはできません」
「殿下の足手まといになりたくないと? 健気ですねぇ。囮に使うような男のために死を選ぶと言うのですか」
「私が勝手にウルサラ様に成り代わっただけで――きゃっ!」
一歩後ろへ下げた足が、木の根に引っ掛かってしまいました。私は咄嗟にバランスをとろうとしたものの、くじいた足ではそれもかなわず尻もちをついてしまいます。
無様に倒れた私を見下ろして、ハリル様が口元だけで笑いました。
「もう逃げるのはおしまいです。おとなしくついて来てください」
「ハリル様って結婚しても奥様をいじめそうですね」
打開策はないかと考えながら時間稼ぎをする私に、背後から馬の足音が近づきます。っていうかすごいスピードですね。
木々が鬱蒼と茂る中、ハリル様は速足でしか馬を動かせなかったのに、この足音はほとんどトップスピードと言える勢いで走ってます。
「いじめやしませんよ。結婚なんて、それによって得られるメリットのための契約にすぎません。いじめるのは非効率です。……私に構わず好きなことをしていればいいんです」
「え……?」
「ほら、もう諦めてください」
土の上に座ったままの私に、ハリル様が手を伸ばしました。
仲間が近づく気配に勝ち誇ったお顔です。一瞬見せた寂し気な表情は気のせいでしょうか。
「嫌だって言ってるでしょう」
その手に触れられるのが嫌で、掴んだ土を投げつけてやりました。それで彼が逆上したら殺されるかもしれませんけど、それでも国の、いえアーベル様の足を引っ張るよりはずっとマシですから。
アーベル様に「幸せになれ」とお伝えできていないのが心残りではあります。が、そのへんはラシャード様がうまい具合に伝えてくださると信じましょう。
他力本願は好きな言葉のひとつです。
「……下手に出れば調子に乗って! そんなことをしていたら後悔しますよ!」
わぁ怖い!
本性が出てきましたよ! やっぱり結婚したら奥様を苛めたり叩いたりとかするタイプですって絶対!
こういうのを鬼の形相と言うのでしょうか。
血走った目と歯を剥きだしにしたお口、くっついてしまいそうなくらい中央に寄った眉。お顔も火事みたいに真っ赤です。こうなったらイケメンも台無しですね!
目が血走ってるのは私の投げた土が目に入ったのかもしれませんけど。
「来ないで!」
せっかくなので、石や枯れ枝など手に触れたものを手当たり次第に投げつけることにしました。正当防衛。
さすがに堪忍袋の緒が切れたのか、ハリル様は腰から剣を抜きました。
文官ですから、恐らく技術的に強いということはないと信じているのですが、いまの状況では武器さえ持てば技術など問題ではないですね。
「大切な交渉材料ですから殺しはしません。そもそもこの剣は貴女を脅すために抜いただけで、傷つけるつもりもありません。……私の言葉が信じられるなら、ね」
ハリル様のお顔は狂気をまとったまま微笑みを浮かべました。すり足で小さく一歩近づいて、切っ先をこちらへ向けます。
いや普通に考えれば信じられるわけないですよね?
状況と立場についてちゃんと振り返ってから発言してもらいたいものです。
他に投げるものはないかと後ろに回した手で地面をまさぐりましたが、目ぼしいものはあらかた投げてしまったみたい。
ああでも、そんなに抵抗する意味はどこにあるんだろう。
ほんの数秒、傷つくのが遅くなるだけです。今もなお彼の仲間はこちらに向かっていて、この森の中で逃げ切るのは無理。
アーベル様を釣る餌として死なせてももらえないのなら、せめて顔を守っているほうが有意義なのではないでしょうか。はい、やっぱりお顔は傷つけたくないですし。
そんな現実逃避にも似たよくわからない思考が脳をよぎって、私は抵抗をやめました。
帝国に着くまで、または帝国に着いてからも、逃げるチャンスはどこかにあるかもしれません。今は体力を温存し、できるだけ傷を増やさないようにしましょう。
切っ先が迷うように揺れるのを見つめながら、細く長く息を吐き出します。
地面に置いた手の平から響く馬の足音が強く感じられました。もうすぐそこまで来ていますね。
剣先がゆっくりと降りて、頭の上のほうからハリル様が息を吐く気配。
「そうそう、最初からおとなしくしていればいいんです……よっ?」
強い風と気配が私の真横を通り過ぎ、直後に馬のいななきがほとばしりました。
慌てて瞳を開けて状況の把握に努めます。
黒い馬が興奮したように足を踏み鳴らしていて、馬の前方には放り投げられたように転がるハリル様。馬から降り立ったのは……黒髪と青い瞳の男性です。
「気づかないままゴミを蹴飛ばしてしまったようだが、まあいいか」
「アーベル様……!」
鋭くて冷たくて深い青の双眸が私をじろりと睨みました。
怒られる。
そう思ったけれど、それだけのことをした自覚はあるのでバツが悪くて、目を伏せます。
視界には汚れたドレス。もしものときの替えの衣装とはいえ、ウルサラ様の披露宴用に仕立てられたドレスですから、この一着でマリーンの年収の数年分にもなります。
裾に飾られた宝石や銀の粉が泥を被ってもなお光を求めて微かに煌めいています。
まだ披露宴の最中だと思うのに、アーベル様は妹姫のめでたい席に座っていません。これは私のせいです。
礼装用の磨き上げられたブーツがすぐ近くまでやって来ました。一歩踏み出すごとに、綺麗な靴が汚れやしないかとひやひやします。
「ヴィヴィアンヌ」
「え……」
目を見ることもできず俯く私を、跪いたアーベル様が柔らかく抱き締めてくれました。
ライムとムスクが混じったようなアーベル様の香りがなんだか懐かしく思えます。
「何も言わずにいなくなるのは何度目だ」
息を深く吐いて呟く声音からは、彼の感情はいまいち読み取れません。怒っているようにも、悲しんでいるようにも、ほっとしているようにも感じられて。




