第18話 王子様とハンカチ
「すごい汗ですね」
近くへ寄ってみると、アーベル様はまるで水を被ったように汗を流していました。何か拭くものはないかと探して見つけたのはハンカチ。
手を伸ばしかけて、ハタと動きを止めました。
このハンカチは以前に手慰みに自分で刺繍をしたものです。エスパルキア王国の紋章でもある、伝説の神獣ユニコーンがモチーフなのでデザインは問題ではないのですが……。
「どうした?」
「いえ、これはこの場にふさわしい物ではありませんでした。メイドに何か用意させ――」
「いい。それを」
キョロキョロする私の手から、アーベル様がほとんど奪うようにしてハンカチを持って行ってしまいました。
また観客席の一部がざわつきます。
この国において、未婚の女性が刺繍を施したものを、同じく未婚の男性が受け取るというのは特別な意味を持ちます。
「わっわっ。広げないでください!」
別に観客席にいる女性たちの目にはハンカチに刺繍があるかどうかなんて判断できないでしょう。
そうかもしれないという程度の、疑惑のままにしておけばどうとでもなるというのに。広げてしまったら、少なくとも近くにいるメイドや騎士団の面々にはバレてしまいます。
「これは、鹿か? 角が足りないようだ」
「ユニコーンですけど!?」
しまった。
これじゃ自分で刺繍をしたことが会話だけでバレてしまうじゃないですかー!
「不器用だとは知らなかった」
「今すぐ返してください。刺繍を受け取る意味くらいご存知ですよね?」
そう。まだ焦るような時間じゃないのです。
ここでハンカチを返していただければ、「殿下にはその気はなかったのだ」という意思表示になります。私が身分もわきまえず王子殿下に恋慕しただけ。
それはそれで腹が立ちますけど、私がちょっと我慢すれば問題な――。
「知っている。だから返さない。ありがたく頂戴しよう」
「はぁぁあああ?」
知る限りの罵詈雑言を浴びせたいのに、こういう時に限って私の口はハクハクと動くだけで、なんの言葉も発することができません。
いえ、わかりますよ。ここでハンカチを返してしまったら「特定の誰か」の振りをしてきた意味がなくなってしまいます。ええ、それはわかります。
でも。
刺繍のやり取りは女性からの愛の告白なのです。男性はこれを受け取ったなら、婚約に向けて具体的に動き出す必要があります。
貴族の世界にだって、恋愛から結婚に至る人々は多くいらっしゃいます。
何度かデートをしたり、夜会に一緒に参加したりしながら愛を深め……ほんの少し気の早い方々はもっと先のステップもご経験されているようですけれど。
そうしてお互いにこの人しかいないと思った時、女性からそれを伝える場合には刺繍を贈るのです。
王子殿下が刺繍を受け取ってしまったら、これ、王国全体がひっくり返ってしまう大問題になるんですけどっ!
私の焦りを知ってか知らずか、アーベル様は心から残念そうな表情を浮かべて私の手を握りました。
「だが残念なことに今は時期が悪い。サラの婚姻の儀が終わるまでは動けないことをわかってもらいたい。待ってくれるか」
そう来たか、です。
この男、ほんと、許せない。
私が殿下にとっての「特定の誰か」であることをこれ以上ないほど印象付けた上で、今は婚約ができないと言って逃げきるおつもりのようです。
ほとぼりが冷めたら、ハンカチは返したとか、受け取ってないとか言って誤魔化すのでしょう。
なるほど、なるほど。
そっちがその気なら、私にだって考えがあります!
「これ、さすがにオプション料金発生しますよね?」
アーベル様の耳元で囁いてやりました。私が刺繍を捧げたという噂が飛び交うわけですから、お父様やお兄様の出世くらいじゃもう納得できません。
私の清い経歴を汚した罪を贖っていただかなければ。
「そうだなぁ。俺がいつか他の女と婚約すると決めたら、いくらでも払ってやる」
殿下もまた、いつかのように私の髪を一房手に取って、その髪にキスをするように顔を近づけて囁きました。
観覧席がざわついたように感じましたが、それよりぼそぼそと耳をくすぐるバリトンが心地良くて、耳や髪に意識が集中してしまいます。
「詐欺じゃないですか。あなた結婚しないって言いましたよね?」
「どうかな、明日のことは俺にもわからない」
もう開いた口が塞がりません。なんだこの詐欺師は。王族というのはみんなこんなに腹黒いものなのでしょうか?
やっぱり背後でクスクス笑っている気配のラシャード様にも腹が立つし、ぶん殴ってやりたい衝動に駆られて右手の拳を握ったとき、別の声が響きました。
「団長ー。あんまりイチャイチャされるとチームの士気に関わるんですけどー」
「ヴィヴィアンヌ様が可愛いのはわかりますけど、モテない男連中ばっかりだってこと忘れないでくださいよー?」
黒の騎士団の皆さんですね。完全に勘違いしていらっしゃいます。
勘違いさせるために私たちは演技しているんですから、それはそれでめでたいことなのですが、現在に限っては癪に障りますよね。
「イチャイチャしてま――」
「よし、それじゃあ嫌でも士気を上げてやろう。だがしばし待て」
アーベル様は汗にぬれた衣類を着替えようと、無造作に脱いでいきます。
私がいること完全に忘れてますよね? これ女性として意識されてないんだと思うんですよ。うん、間違いなく。
「殿下、それ……」
「ん。ああ、おまえは見なくていい。へんなものを見せて済まなかったな」
すぐに新しいシャツに包まれて見えなくなった殿下のお肌には、おびただしい数の傷痕がありました。
刺し傷、切り傷、それに恐らく蒸気銃が原因と思われる痕も。生死を彷徨ったことも一度や二度ではないかもしれない。
帝国との争いでは常に前線にいらしたと聞きます。帝国の侵攻がある前だって、国内、国境を問わず騎士団として数多くの戦地に赴いていらっしゃいました。
お城に滞在するより遠征に出ているほうが多かったと聞きますし。
傷がないはずがないのですよね。このひとつひとつは、国民が受けるはずだった傷。
それをこの人はずっとひとりで――。
「あーあー、これでは僕がヴィヴィアンヌ嬢に求婚するタイミング作れないじゃないですか。解放するなら早めにお願いしますね」
ラシャード様が他の騎士に聞こえないくらいの声で言います。ニコニコしているし本気ではないのでしょうけど。
あ、そうか、私をいつまでも拘束するべきではないっていう優しさですかね! やっぱり性格までイケメンなのはラシャード様ですよねぇ。
「は? ほらラシャード、おまえも剣を持てよ。士気をあげてやろう」
ニヤリと笑って木剣を投げつけるアーベル様に、ラシャード様は吹き出して大笑いし始めました。
よく笑う人ではあるのですが、たまに笑うきっかけというかツボがわからないときがありますよね……。むむむ。




