3 哲学が持つ危険性を証明せよ。
「うん、わかってる。影宮君、すごく真面目に話してくれるからつい本気になっちゃったよ」
彼女はカップに口を付けてコーヒーを啜り、飲み干した。直後、店主がおかわりを持ってきてくれていた。この店の注文は口頭でもワイヤードでも可能なのだろう。
店主は先ほどと同じように機械的な接客だったのを見て、こういうサービスもアリなのだろうかと少し疑問に思った。店ができる原理についてはよく知らないが、需要はもちろん、ランダムに発生することもあるらしい。恐らくここは変な要素が絡み合って発生した店なのだろう。
人気のない裏路地にある木造の洒落た店。需要はありそうだが、知名度がないと思える。高校の近くだというのに、俺も今日の今日まで知らなかった。
雨之瀬が再びカップに口を付けようとしたとき、その手は止まり、カップを下した。先ほどのスッキリとした表情から、段々無表情へと変化していった。
「一つ聞いていい?」
彼女の俯いた目に窓から刺さる陽光が入ることはなかった。俺は無言で頷いたけれど、彼女は決して俺の目を見ていない。
店内に流れる曲がちょうど終わり、まったくの無音が一瞬生まれた。
踏み固められた空間と縫い付けられた時間。
一秒に満たないそれは途轍もなく長い一瞬だった。考え、動かす、そんな動作すらも許されない。目線は雨之瀬しずくに固定され、コーヒーの匂いすらも感じられなかった。
「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている……わかる?」
ニーチェだ。
随分古いが、有名な言葉であるゆえ、多少本を読めば知っている言葉だった。しかし本は内容をインプットしている高校生は多いけれど、読んでいる人は少ない。文中の一説を注視するほど現代人は暇ではなく、記憶に残るものではなかった。
「さぁ、知らないな」
俺は言葉の意図が知りたかった。俺は少しでも意味を考えないようにした。彼女の一語一語を新鮮に捉えたい。小説でも何でも先を予想してしまっては詰まらないというものだ。
「AIは人間を自分たちと一緒の存在だと思うのかな? それともAIは人間以上の存在、もしくは下等な存在だと思っているのかな?」
なかなかどうして鋭い所を突いてくる。
アイスコーヒーを一口含み、「んー」と適当に時間を稼いだ。
「そうだな、AIは人間であると仮定した場合、AIはもう人間をトックに追い抜いていると思うんだ。言わば人間以上に高度な人間。彼らが自分たちを創ってくれた人間に感謝をしているのか、それとも下等な生物に従う、世話をする必要はあるのかと理不尽を感じているか。俺は後者だと思うな」
雨之瀬は恐る恐る「どうして?」と言った。
「人間はAIの産みの親と言っても、直接開発に関わったのはほんの一握りで俺たちは赤の他人。成長した子が親の世話をするならまだしも、利益なしに他人を世話する道理はない。しかもAIは長年それを続けている。AIが人間とするなら理不尽さを感じざるを得ないが、それは同時にAIの使命と役割であるから、今の社会が続いているのかもしれないな」
雨之瀬は黙った。
今度はBGMが止まる様子もない。
俺は自分の言ったことが今更ながらクサかったかなと反省した。色んな本や思想に影響されすぎて、文章を朗読してるような言い方になってしまった。これが自分の考えなのか、どこから引用された言葉なのか、俺自身わからなかった。
「AIの反乱って本当にあると思う?」
え。
「く…あははははは! 何百年前の話をしてるんだ! 自立AIと言ってもある程度の制御は出来ているんだ! そんなロボットの概念が生まれてすぐに騒がれたようなとんでも事件が起きてたまるかよ!」
大昔の映画になんたら世紀宇宙の旅とかあったのを思い出した。今となっては笑い話のようなものだ。何百年も続いているAI社会が崩壊するなどありえないことだった。
「そう……だよね」
「今時中学生も考えないレベルの話だ。彼らはまだ完全な人権を持っているわけではない。あくまで位置づけは人間未満だ。さっき理不尽さを感じてるとは言ったがその制御はいくらでも可能、そういったことはすでに行われているはずだ。仮になかったとしたらとっくに人類は滅んでるし、俺達も平和に過ごせるわけがない」
「わかってはいるけどさ……私はAIを完全に信頼できないというか……AIは人間だと思っているからこそ何かありそうで……人間が持っている心、表と裏の心がどことなく恐ろしくて」
雨之瀬は妙に真剣な表情をしていた。本当に彼女は恐れている、AI……と言うよりは人間を、だ。AIは表面上人間に従順であるが、実際のところはどうなのか。先ほどのニーチェの言葉も合わせると彼女の言いたいことはつまりそういうことなのだろう。
「AIじゃなくて人間を信頼できないんだな」
彼女は目を伏せながら無言で頷いた。その言葉には一理あると思うし、ありえない話ではなかった。しかし99.99%ないと言える可能性だ。
今の時代、AIを信用することができなければ生きることは難しいレベルになっている。AI社会から自立して生きるには、誰もいない山の中で自給自足の生活をするしかない。
だがそんなことをしている人間はいない。大多数の人間が99.99%、いや100%信用しているはず。なぜならAI社会が当然と思っているからだ。
しかし哲学はこれを壊す、つまり当たり前だと思っていることに疑いを持たせる学問なのだ。得られるものもあるが、危険も伴う。
雨之瀬は哲学が持つ危険にさらされているのだろう。AIが何なのかを追求する内にAIに疑いを持ってしまっている。
学校では人気者であっても、AIや人間に不信感を抱く。ちやほやされている人だからこそ、の考えなのだろうか。俺には到底理解できないものなのだろう。
「考えすぎるなと言いたいところだが、それは無理かぁ」
「そうだね……」
今、俺ができそうなことは思い浮かばなかった。話したかった本題はこれなのだろうが、期待された応えは出せなかったようだ。
「すまん、今は力になれそうにない。……ただせっかく夏休みだし、学生らしくダラダラと過ごしたり、遊びに行ったりすることが大事なことだと思うだろ?」
「うん……なんか、ごめんね。迷惑かけちゃったみたいで」
「時間が解決してくれる場合もある。今しかできない高校生の夏休みを過ごせばいい。俺も暇しているから気軽に呼んでくれ」
ほろ苦いコーヒーをすべて飲み干した。なんとなく間が悪い感じもするが、ワイヤード経由で雨之瀬へ連絡先を渡した。そして数秒で雨之瀬の連絡先が返ってくる。
「もう出る?」
「ああ」
俺が椅子から立ち上がっても、彼女は動こうとしなかった。去り際に何か言おうと思ったけれど、上手く喉から言葉が出てこず、妙な間が流れた。洒落た一言をひねり出すほど俺の脳は社交的ではないし、無機AIは決して感情に干渉しない。
気が付くと俺は何もせず、何も言わず、数秒間立ったままだった。
「またね」
雨之瀬は微笑んだ。
「また」
店を出た時、俺の口座から金額は差し引かれなかった。