画皮 ~新釈聊斎志異~
交通と聞いて何を思い浮かべるだろうか。帰省ラッシュの高速道路? 話題のリニアモーターカー? それとも奮発して買ったけど最近はご無沙汰なロードバイク?
間違いではないが、しかし語源は違う。交通と言えば、もとは『コミュニケーション』という意味だ。交わって、通わせる。それだけの言葉だから、それが車でも自転車でもリニアモーターカーでも、そして人の心でも言葉でも構わないというわけだ。そう思うと結構懐の深い言葉に思えてくる。
さておき、今年で大学二回生になる太原王生はそういう意味で交通事故を起こしがちだった。
大勢で話している中に合流するのも、会話を譲り合うのも、上手く話題を路線変更するのも、話を終わらせて駐車するのも、彼はことごとく上手くいかなった。
ならばペーパードライバーでいいやと決意したのはいいが、時すでに遅し、「点数」を限界まで失ってしまった彼は、もはや私道以外で走ることも出来ない始末。独り言しか発せないのであった。
高校までは、コミュニケーションを強制されるあの空間を憎々しく思ったものだ。しかし大学へ入ったらそれも終わりだと一層受験勉強に身が入り、今や太原はいっぱしの書生だ。
ただし現状は非情であり、大学府であっても人との交流は不可欠であり、実際は牢獄からカクテルパーティへ場を変えただけのようであった。
そうなると益々孤独と肩身の狭さが際立って、あの三十畳だか四十畳の教室の方がまだ温もりがあるように感ぜられる。
『孤独はいいものだと認めざるを得ないが、しかし孤独はいいものだと話し合える相手を持つことも、一つの喜びだと言えよう』
彼の敬愛するフランスの文豪バルザックの言葉だ。
名言だ、美言だ。
そんな相手がいたらどんなにかいいだろう。
憲法の講義を独り聴きながら、太原はそう思った。
そんなある日、食堂で独り焼きサバ定食と向き合っていると、太原は賑やかな食堂にあって自分と同じように一人で席についている人間を見つけた。なぜか不思議な親近感を覚えて目を凝らせば、そこにいるのは容姿端麗な男子学生だった。
おかしい。
あれほど清潔感のあり目鼻立ちの整った人間が一人で食事をするなどあり得ない。誰かを待っているのか。それにしては目の前の五目丼は半分も空いていて不自然だ。だとすれば相当に性根のねじ曲がった人間なのか……
いやいや……
よく知りもしない相手の事情をあれこれ詮索して性格を妄想するなど下品ではないか。
太原は己を恥じた。それから太原は地蔵のように押し黙って定食を平らげた。
さて、ごちそうさまと軽く手を合わせて席を立てば、視界の隅にはやはりあの男がいる。
盆を片隅へのけて何やら読書に励んでいるようだが……いったい何を読んでいるのだろう。
太原が目を凝らすと、それはどうやら黒岩涙香翻案の『巌窟王』のようだった。黒岩涙香と言えば初めてヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を『噫無情』と題して翻案した人物だ。ユゴーと『巌窟王』の原作者アレクサンドル・デュマはともに太原の敬愛するオノレ・ド・バルザックの親友であり、ユゴーに関してはバルザックの弔辞を読み上げているほどである。
一気呵成にそこまで考えて、しかしそれを吐き出す相手はいないので、太原は仁王のような表情でぶるりと体を震わせるにとどまった。爽やかな人間というものを僻みや妬みによって八つ当たり気味に嫌っていた太原であったが、そんな人間が今は『モンテクリスト伯』を読んでいる。しかも黒岩涙香版だ。同好の志がすぐそこにいるというのに、しかし太原は歩み寄って話しかけることはしなかった。ただでさえまともな会話ができないのに、これほど興奮しているときに会話など試みたらまた無用の大事故を起こすに違いなかった。
困惑と僻みと歓喜とでただならぬ形相となりながら盆を返却しに来た太原を見て、皿を洗っていた食堂の従業員はギョッとして皿を取り落した。
太原はフランス語の講義を取っている。彼は見て通りの真面目な男だから、毎回最前列の中央に陣取って有り難そうに教授の話を聞いていて、周りの学生など路傍の石とも思っていない。そんなことだから班課題の際に誰も組んでくれないのだ。
さておき、その日の講義も滞りなく終わり、さて片付けようと太原が教科書を手にしていると、
「あのう、もし」
と声がかかった。
誰かが教授に質問でもするつもりなのか、殊勝な心掛けだ、と内心頷く太原だが、教授はさっさと教科書を鞄にしまって À plus tard! などと言い残して講堂から出て行ってしまった。
「太原君」
あまりに呼ばれることがないので一瞬太原とは誰かと思案したが、太原とは間違いなく太原のことだった。
ぎくりとして振り返るとそこにいるのは先日食堂で見かけた容姿端麗な男子学生ではないか。
「この前食堂にいたよね」
柔和な表情にホトトギスのさえずりのような声音だ。こんな丁重に扱われてはたまったものではない、太原は俄かにしどろもどろの様相となった。
「黒岩涙香と言えば初めてヴィクトル・ユゴーの『レ・ミゼラブル』を『噫無情』と題して――」
もう無茶苦茶である。
しまった! またしくじった!
そう考えてももう口から迸ってしまった言葉は回収できない。初めて相手とかわす言葉が「黒岩涙香」とは突飛が過ぎる。
これはまたこの整った容姿を苦笑で歪ませることになるのか。太原は戦々恐々としたが、驚くべきことに相手は相変わらずの柔らか表情で、
「君も涙香が好きかい? 食堂では随分熱心に僕の本を睨んでいたけど」
などと返してくる。
これには太原の無駄な気勢もそがれて、ようやく言葉を選ぶ余裕が出てきた。
「正確にはバルザックが好きだ」
「ああ、『ゴリオ爺さん』」
そのときの太原の心情を誰が察せよう。永久凍土もかくやという孤独は雲散し、この憐れな書生はこのいっときの、一言二言の会話を墓場まで持って逝こうとまで覚悟した。
「話が合う人が少なくてね、同じフランス語の講義を取っているし、もしかしてと思って君に話しかけたんだ。僕はこの後が空きゴマでね。どうだい? 君も次が空きゴマなら一緒に喫茶店にでも行かないかい?」
太原は民法の講義をサボタージュした。
それからの展開は想像に難くない。
男子学生の名は木羽と言い、太原と同じく法律を専攻としているらしい。小さな頃より読書を何よりも愛し、見識も深かった。
大学横の喫茶店ですっかり意気投合した二人は、店主が在庫を心配するほどにコーヒーを空け、しかしあのバルザックも毎日のようにコーヒーを牛飲したものだと思うとそれもなんだか粋な行為のように思えて、ますますコーヒーが進むのであった。
その後も太原と木羽の親交は続いた。暇さえあれば太原の下宿に集まり、酒もつまみもなしに延々と語り合った。
誠不思議なことに、この木羽と言う男は人の会話をリードすることに関しては無類の達人であり、あれほどの口下手で世を震撼させた太原でさえも自分を咄家もかくやという語り上手だと錯覚するほどであった。実際にそれは「教習所」の役割を十全に果たし、木羽以外ではやはり交通事故を起こしっぱなしの太原も、だんだんとその頻度を減らした。
このまま暗黒の未来がつづくのだと半ば諦念の域に達していた太原は、この突然舞い込んだ幸福を持て余し、これは夢なのではないか、もしかして木羽は孤独の極致にたどり着いた自分が生み出した幻影なのではないかと疑い始める始末だった。
それをある日バーで木羽に伝え、「君は本当にこの世に生きる人間か」、と太原は酒のせいもあって聞きようによっては深淵で哲学的、まるでデカルトの引用のような、しかし実のところただ頓珍漢なだけの質問をした。
木羽は苦笑し、
「その気持ちは分かるな。僕も人付き合いは苦手でね、もうなんだかこの世は僕一人、あとの人間は僕の妄想の産物でしかないのかもしれないと真剣になってしまった時期があってね」
「馬鹿を言うな、俺ならともかく、君のような人間が、そんな、まさか」
運慶快慶が仕事の片手間に作った不動明王の木像ような容姿をしている太原と違って、木羽はダビデ像もかくやという美しさと心地のよい緊張感とに溢れていた。それに加えてあの聞き上手と来ればもはや人付き合いが苦手な要素はないと言えよう。
「それでも苦手なものは苦手なんだよ。もしかしたら君以上にね」
「まったく、厭味ったらしいことだ」
もういい時間だったので、その日はそれでお開きということになった。
木羽のお陰もあって、太原も段々と他の学生と交流を持てるようになった。
言葉を交わらせて心を通わせるのは刺激的で愉しかった。それもこれも木羽のお陰だと思うと感謝の気持ちはいよいよ昂り、まこと友人の恩は山よりも高く海よりも深いと太原は心中で木羽に頭を下げた。
ある日宗教学で同席した女学生と会話をしていると、ふと木羽が話題に出た。太原は彼の魅力を不器用ながらも脚色せずに語ったが、女学生の表情が若干曇った。
「木羽を知っているのですか」
「実際に会ったことはないけど、噂は」
そう言いつつ、やはり女学生の表情は晴れない。
「どういう噂なんです」
噂と言うのはきっと良いものではないのだろう。あの木羽に限ってそんなことはありえまい。太原は追究した。
「うーん……」
はばかるように女学生から語られた噂は、それはとても受け入れがたいものだった。
我が校のイベントを運営するだとかなんだとかのサークルに木羽という男がいて、右も左も分からない入学したばかりのいたいけな女生徒を毒牙にかけて云々……とにかく、その悪名は女学生の内で知らぬものはいないほどだというではないか。
「まさか!」
やや声を張り上げてから、これはいけないと太原は声を潜めて、
「木羽は上品な男だ。紳士という他ない。まかり間違ってもそんなことをする人間ではない」
「太原君の話を聞く限り、多分別人だね」
「全くだ」
木羽という名は、あまり見かけるものでもないが、しかしこの世に一人というわけでもあるまい。これだけの学生のいる大学だ、聖人のような木羽もいれば山賊のような木羽もいよう。つり合いが取れてよいではないか。
それがとんと腑に落ちて、太原と女学生の話題はユダヤ教を取り巻く誤解と偏見に対するお互いの見解へと移った。
しかし、同様のことが他でも起こるではないか。
心理学で実験を共にした男子学生によれば、木羽という男は探検部たる団体に所属していて、前人未到の風穴を富士の樹海にて発見し、その筋では有名な人間らしい。
動物行動学の講義において、ニホンザルのイモ洗いの様子を興味なさそうに眺めていた先輩によると、木羽とは間違いなく去年の学園祭の後夜祭にて行われた格闘ゲーム大会で完勝を果たし、そのインチキじみた戦法に激高して無粋にも現実の拳を振るおうとした決勝戦の相手を一捻りでステージに沈めた本人だという。
哲学の講義で――
どうしてこの大学の木羽という奴はどいつもこいつもあちらこちらで伝説になるのだ。太原は極めて混乱した。
奇妙なのはどの木羽も容姿がまるで違うことだ。
山賊の木羽は褐色に肌の焼けた金髪のチャラついた男だし、探検部の木羽は無精髭に覆われた荒々しい男で、多次元格闘チャンプの木羽は銀縁の眼鏡で七三分けの冴えない容姿だという。
いずれも太原の知る木羽とは似ても似つかない。
木羽の噂を聞くたびに、木羽と会うたびに、太原はその差に困惑を増していった。
ある日、またいつかと同じようにバーで酒を酌み交わしていた太原と木羽だが、その日は酒が悪かったのか太原はよくない酔い方をし、すっかり正体を失くしてしまった。
仕方なくより近い木羽の下宿へ泊ることになり、太原は木羽に支えられながらも下宿の玄関をくぐった。木羽の下宿に来たのはこれが初めてだった。
簡素な部屋だった。
木羽に煎餅布団を引っ張り出してもらい、太原はそこに横になった。ここぞとばかりに睡魔は降りて来て、瞬く間に太原の意識は酩酊と混濁の内に沈んだ。
深夜、ふと太原は目を覚ました。
酔いが醒めたのかもしれなった。
こめかみのあたりを片手で擦って、鈍い頭痛を誤魔化しながら太原は上体を起こした。水が飲みたい。
辺りを見渡すと、今寝ている部屋と玄関の間。洗面所の扉が薄く開いて明かりが漏れている。なかから何やら音がする。大方木羽が歯でも磨いているのだろう。終わって洗面所から出て来たなら、どこかに飲み水はないかと尋ねよう。太原は目を擦った。
しかししばらく経っても木羽は出てこない。随分丁寧に歯を磨くものである。
それにどうも洗面所から流れている音は歯を磨いているそれではない。
なにか、そう、ぺたりぺたりと湿った音だ。これでは歯磨きというよりもお歯黒ではないか。
そのとき猛然と、正体の不明な疑心が太原の心中に湧いて出て、彼は突き動かされるように布団から抜け出して洗面所へと歩いて行った。
今木羽が行っていることが、最近自分が聞いている彼に対する様々な噂と関係のあるものだと、半ば確信に近い気持ちがあった。
警鐘のように高鳴る心臓を押さえて、太原はそっと洗面所の扉の隙間から中を覗いた。
「げッ!」
思わずそう叫ぶと、太原は腰を抜かしてどさりと廊下に尻もちをついた。
洗面所の中では、見たこともない金髪で褐色の肌の軽薄な雰囲気の男が立っている。
男は筆を持って、一心不乱に布のようなものになにかを描き込んでいた。
それは紛れもなく木羽の顔だった。
目を、鼻を、耳を、描きかけの口はまだ唇の半分が塗られていない。
よく見れば辺りには木羽の手や足と思われる『部品』も散らばっている。それは人間の皮のように見える。
男はギョッとして座り込んだ太原の方を振り向き、手に持った『木羽の皮』を取り落した。
「太原君、起きたのか」
訊いたこともない声で名前を呼ばれて、太原は混乱もそのままに激昂した。
「だ、誰だお前は! 木羽はどうした!」
憤然と立ち上がって軽薄な男に掴み掛ると、ずるりと軽薄な男の皮が剥がれ落ちた。
「何ッ!?」
現れたのは無精髭を生やした男だった。
もしやと思い太原が男の耳を掴んで引っ張ると、やはり無精髭の男の皮もずるりと剥がれて、次に現れたのは冴えない七三分けの男だ。
「どれが『本物』なんだ!?」
興奮のままに太原は男の『皮』をはがし続けた。
はがして、
はがして、はがして、
はがして、はがして、はがして、
はがして、はがして、はがして、はがして、
はがして、はがして、はがして、はがして、はがして!
そしてついに男は消えてなくなってしまった。
あたりには太原がはがした『皮』が散らばっている。
静まり返った部屋で、太原はようやく冷静になった。
冷静になって、そして太原は己の浅慮を恥じた。
自分は、自分の求める『木羽』しか見ていなかったのだ。
山賊であれ、探検部であれ、多次元チャンプであれ、どれも間違いなく木羽だった。しかし自分は『聖人のような木羽』しか認めようとしなかった。なんと狭量なことか。彼は間違いなく『孤独はいいものだと話し合える相手』だったというのに!
人の性格に『本物』などというものはないのだ。
ようやくそれを理解して太原は己の短絡的な行動を悔いたが、しかしもう遅い。木羽はタマネギのようにバラバラになってしまった。ああ南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏……
祈るような気持ちで、太原は辺りに散らばった皮をかき集めて一枚一枚重ね合わせていった。
ようやくそれが一人の人間分の厚さになったのは、夜が明けて部屋が朝日に照らされてのことだった。
残り一筆のところで太原に邪魔されたのであろう『聖人』の木羽の皮を最後に重ねたとき、今までただの線だった瞼がぱっくりと開き、太原の肝を潰した。
「やあ」
「木羽か」
「そうだよ」
木羽はあくまであの柔和な表情だった。
「驚かせたね」
「すまなかったな」
「いいんだ。いずれ君にだけは打ち明けるつもりだったから」
ならんで朝日を眺めて、木羽はそう言った。
「君といる時が一番素直だったよ」
「そうか、そうか」
太原はぐんぐんと登っていく太陽を見て、ひとりでに頷いた。
「もう一つ謝らせてくれ」
「なんだい?」
「山賊みたいな『皮』は生ごみと一緒に出した」
「おや、どうして」
太原は不器用に微笑んだ。
「お互いの間違いを正すのが友というものだからだ」
「全くそうだね」
木羽も笑った。
それから、太原は冷たい水を一杯飲み干すと、木羽の下宿を後にした。
完
(原典:蒲松齢著『聊斎志異』は手に入らなかった上に文語体で読めそうになかったため、今作においては羊春秋、陳蒲清他訳の『白話聊斎』を参考文献とした)