〜罪〜
朝起きると、僕は血だらけでリビングに居た。
手には包丁を握り、ピクリとも動かない。
母さんが大声で泣いている。声を聞きつけて父さんも起きてきた。
弟は…弟は……ああ、あいつは何であんな顔をしているんだ?
「おや、やっとお目覚めですか?」
僕のすぐ後ろで誰かの声がした。
恐る恐る振り返るとそこには全身黒ずくめの男が立っていた。
マジシャンのような黒いシルクハット、そして黒いマントに身を包んでいる。顔は良く見えない。
「おっと失礼。‘やっと’という表現は正しくありませんでしたね。こんなに目覚めが早いとは驚きですよ。」
「アンタは誰なんだ?」
「紹介遅れました。私はこの世とあの世を繋ぐ役割を持つものです。そうですね、貴方方の知っている言葉で言うと‘死神’といったところですかねぇ。」
死神だと?
僕は死んだのか?
「ええ死んでいますとも。」
僕の思考を読み取り、黒ずくめの男はそう告げた。
「しかし、死にきっていないようですね。」
「死にきって…いない?」
「はい。完全に死んだ魂というのは貴方のように自我を持ったりはしませんからね。いいですか?死んだ魂というものは無垢なのです。この世の全ての柵から解放され、一番美しい状態ともいえましょう。貴方のように生前の形をもったり喋ったりは決してしない。彼らは白い光の玉となり漂うのです。それを回収し、あるべき場所へと持っていくのが私の役目なのですが……貴方はまだ私の手には掛からないようですね。」
死んでいないのに死人、死人なのに死んでいない。
わけが分からない。一体この男は何を言っているのだろう。
ただ一つだけ分かるのは、この男の話によると僕は中途半端な存在だということだ。
「そうです。貴方は中途半端な存在といえましょう。よく怪談話などで語られる幽霊などと貴方はまったく同じなのです。この世に未練がある魂は貴方のような状態で現れる。死して尚も彷徨う、今の貴方のように中途半端なのです。しかし、貴方がその姿という事は――どうです?何かこの世に未練でも?」
未練、それは沢山ある。育ててくれた母さんと父さんに感謝も出来ず、友達とちゃんとした別れをしないままあの世に行くなんてとんでもない。
けど、この男が言っている意味は何か違う気がする。
幽霊と同じ?やつらはこの世に未練を持っている。でもそれはきっと僕の考えているようなものとは違う理由でだ。
きっとそれは深い悲しみ。言い表すことの出来ない怒り。何故悲しむのか?何故怒るのか?
答えは簡単だ。誰かを怨んでいるからだ。
そう誰かを――!!
「ほう、思い出したようですね。では、貴方をこの世へとお返しいたしましょう。どうぞ、再び私に会う日まで、貴方の思い通りの悔いのない人生をお過ごしくださいませ。」
顔の見えない男が、ニヤリと笑った気がした。
*
「…ち、…いち…昇壱、気が付いたのね!!」
目を開けると一番最初に入ったものは泣きじゃくりながらこちらを見ている母さんの顔だった。
あの日から何日が経ったのか僕には分からない。
けど母さんが長い事僕に付き添っていてくれた事だけは隣にある簡易ベットやその脇に置いてある必要最低限の生活用品で分かった。
「ごめん…母さん、俺……」
「いいのよ。いいの。でも、謝るくらいならどうして自殺なんかしようとしたの!?」
自殺――?
一体誰がそんなことをするというのか。
僕は絶対自殺なんてしない。するものか。それに僕は自殺で死んだわけじゃない。
そうアイツが、アイツがやったんだ!
「母さん、僕は――」
「昇壱、目が覚めたか!良かった、皆心配してたんだぞ。」
自殺なんかじゃない。そう伝えようとした丁度その時、病室のドアが開き、父さんが入ってきた。
心配そうな顔をしていたけれど、僕が目を覚ましたことを知り少しだけ安堵していたようだ。
「ああ良かった。目が覚めてくれて。母さんも私も心配してたんだよ。もちろん誠司も。ほら、誠司。お兄ちゃんの目が覚めたよ。こっちにきなさい。」
父さんの背中に隠れていた弟の誠司がそこからひょっこリと顔を覗かせた。
弟の顔を見た瞬間、僕は吐き気と眩暈に襲われた。
そうだ、僕は弟に!!
「ちょっと、昇壱!大丈夫?昇壱!!」
嗚呼、吐き気が止まらない。
視界はぐるぐると回り、父さんの顔も母さんの顔も良く見えない。
そんな中、弟の誠司の顔だけがはっきりと見えた。
焦るわけでもなく、誠司は僕の顔をしげしげと覗き込み、そして笑った。
*
夢を見ている。
そう自覚しながら見る夢は何だか不思議な感じがした。
泣いている男の子が見える。これは小さい頃の僕だ。
お父さんが交通事故で亡くなって、あの頃は「死」というものが良く理解できなくて、でもお父さんが居なくなってしまったんだということは理解できた。
涙が止まらなくて、母の腕の中で泣き続けた。
母さんだって辛かっただろうし、思い切り泣きたかっただろう。だけど母さんは僕を安心させる為に微笑んで慰めてくれた。母さんにはこれから先悲しい思いをして欲しくない。僕が傍で支えてあげるんだと僕はその時心に誓った。
そして僕は冷たくなってしまった父さんに誓ったんだ。「母さんは僕が守るよ。だからお父さんは安心して」と。
これは夢というより昔の記憶だった。
この時、そう誓った僕が自殺なんかするはずがないのだ。そう自殺なんか絶対にしない。
全部、全部アイツのせいなんだ――!
*
「うわぁぁぁ!」
病室中に響き渡る自分の声で目が覚めた。
「どうしたの、急に大声を上げて。怖い夢でも見たの?」
隣で僕の看病をしていた母は驚いた様子でこちらを見た。
「ずっと魘されていたみたいだけど、大丈夫?」
僕は全身にびっしょりと脂汗を掻いていた。母さんはずっと僕が寝ている間額に掻いた汗を拭いていてくれたらしい。手に持っていたタオルは濡れて、重くなっていた。
「うん。大丈夫だよ。それよりさ、母さん。ずっと僕につきっきりだったみたいだし疲れたでしょ?今日は帰って休みなよ。」
「でも…」
「いいよ、大丈夫だって。」
母さんは渋々病室を後にした。
母さんは僕の具合が心配だからというのも理由だろうが、また僕が「自殺」をしないか不安だったようだ。
僕は自殺なんてしないのに。変な疑いをもたれて凄く不愉快な気分だ。
僕自身も母さんに休んで欲しいという気持ちもあったが、疑われているのを何となく察し一人になりたかったというのが母さんを帰した理由だった。
それに一人になって頭の中を整理したかった。
僕の本当の父さんは10年前、僕が7歳の時に交通事故で亡くなった。だから今の父さんは義父ということになる。弟も義弟だ。
母は僕が15歳のときに今の父さんと職場で知り合い、再婚した。
僕は別に反対はしなかった。母さんが幸せならそれで良いと思ったし、今の父さんも僕の本当の父さんくらい家族思いで良い人なのだ。反対する要素などどこにもなかった。
それにあの頃は僕に弟が出来るという事で少し嬉しかったのだ。
弟の誠司の母親という人は、酷い人だったらしい。子供の面倒も見ず、色々な男と遊び歩き、酒に溺れ、誠司に暴力を振るっていた。何故、人の良い義父がそんな人と結婚してしまったかは分からない。多分、お人好しで結婚の話を断れなかったのだろう。誠司の母の両親は縁談を無理矢理まとめ、娘である人を父に押し付けたらしい。話を聞く限り、両親でも手に負えない人だったということが分かる。
そんな母の元で育ったせいなのか誠司は言葉が喋れなくなってしまった。3歳くらいまではちゃんと言葉を話していたらしい。しかし、母親の暴力が始まってから「ごめんなさい」しか言えなくなり、とうとう何も喋れなくなった。そして今も言葉を喋れない。
息子がこんな状態になってしまい、離婚を決意したのが僕の母と知り合う3年前だそうだ。
それ以来、誠司は母親と会っていない。父も会わせない様にしているが、そんな母親のことだ。会いに来るはずもない。その方が父にとっても誠司にとっても良いのだろうが。
そんなわけで、とにかく誠司は言葉が喋れない。
けど、あの日確かに誠司は言葉を発したのだ。
あの日、とても蒸暑くて僕は中々眠りにつけなかった。眠くても眠れない気持ち悪さ。寝返りをうつ度に汗をかいていく。
僕は水を飲もうと1階の台所へと向った。
台所は人が居ないせいか、僕の部屋より少し涼しかった。どうせなら生温い水道水より冷たく冷えた麦茶が飲みたいと冷蔵庫を開けたその時、後ろに誰か立っている気配がして僕は振り返った。
そこにいたのは弟の誠司だった。
僕は誠司も僕と同じように水を飲みに来たのかと思い、誠司に声をかけた。
「誠司も水飲みに来たのか?」
「……」
当然無言。しかしコクンと頷いた。
僕は誠司に背を向け、手探りで誠司のコップを探し、麦茶を注いでいると誰かの声がした。
「お兄ちゃん、死んじゃうの?」
誰か、其処にいる誠司の声だった。僕はこの時初めて誠司の声を聞いたので背を向けた状態では誰の声だか一瞬分からなかったのだ。
「お前、声が…」
「お兄ちゃん、死んじゃうの?」
僕の言葉は意に介さずという感じで弟はさらに言葉を続ける。
「お兄ちゃん、死んじゃうの?」
次の瞬間、何かお腹に鋭いものが刺さり、僕は気を失ったのだ。
目が覚めたとき、僕は血だらけの僕自身を見下ろしていた。
そしてあの黒ずくめの男と会ったのだ。
嗚呼、僕はあの時一度死んだんだ。でもあの男が言うように未練があって戻ってきた。
なら僕はどうしたらいい?これから何をすればいい?
復讐?一体誰に?
そんなの、決まってるじゃないか!!
この手で、奴を……!
どんな扱いをされてもいい。どうせ僕は一度死んだのだ。
それに奴も僕を*した。それなら蘇った僕に*されても当然じゃないか。
『貴方の思い通りの悔いのない人生をお過ごしくださいませ。』
男の言った言葉を思い出す。
男の言った言葉の意味は僕の思っていることと同じ事を言っていたのだ。
死神さえ僕にそうしろと言ったのだ。これはもうやるしかない。
何日かして僕は退院した。
父が運転する車で家に帰る。
「具合はどうだ、もう大丈夫か?」
父は僕の体を気遣ってくれた。義父でありながら僕を自分の本当の息子のように可愛がってくれる。それがとても嬉しかった。
でも、今までは「嬉しい」と感じるだけで終わっていただろうが、今はそうではない。
父に優しくされるたびに罪悪感がつのる。
僕は父の本当の息子である弟を*そうとしているのだ。
ごめんなさい、もう決めたことだから後には戻れないんだ。
これだけが心残り。大好きな義父に恩を仇で返すような形になることが弟を*すということより罪悪感を感じること。
家に着くと、母さんがお昼の支度をして待っていた。
「退院おめでとう、今日は貴方の好きなハンバーグよ。」
そう言いながらハンバーグをこねている。
その隣では弟が母と同じ様に。
「誠司……」
僕は無意識に弟の名前を口に出していた。あの憎き弟の名を。
弟は僕が名前を口にしたのを気付かないようで、ひたすらハンバーグ作りに没頭している。
代わりに母が答えた。
「誠司ったらお兄ちゃんが帰ってくるって言ったらハンバーグ作るの手伝い始めてね、きっとお兄ちゃんが退院してくれて嬉しいのよ。だからお祝いに自分の作ったハンバーグを食べて欲しいって…そうよね、誠司?」
「うん」という代わりに誠司は笑顔でコクンと頷いた。
そしてハンバーグ作りに戻る。
くちゃくちゃ、ぐちゃぐちゃ
くちゃ、くちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ
肉をこねる誠司の顔は嬉しそうだった。
僕のため?いや、それは違う。あいつはどこかおかしい。
肉をこねるという行為に恍惚とし、その目は爛々と輝いている。
ぐちゃ、ぐちゃ
肉をこねるたび狂気を帯びたような笑顔。
何故母も父も疑問に思わないのだろうか。
僕の視線に気付いたのか弟はこちらを向いてにやりと笑った。
それを見た瞬間、僕は酷い吐き気に襲われた。
「うっ…」
苦しい。お腹の傷が疼く。
痛い、痛い、痛い!!
我慢できない激痛に思わずその場にうずくまる。
「おい、昇壱!大丈夫か!?」
父さんは慌てて僕に駆け寄る。
僕なんかよりあいつを!早くあいつを!
そう思っても声に出せないし、気付かない。
だから僕はこの場を離れるしかなかった。具合がよくない、食欲がないといい自分の部屋に行く。
これで弟の顔を見なくて済むのだ。昼食はとれないがこれで良い。得体の知れない弟が作った昼飯など手を付けたくなんかない。
何も考えたくなかった。
このままではもう一度あいつに殺されるのではないかという恐怖が押し寄せてくる。
寝てしまおうと目を閉じればあの光景が浮かんでくる。
喋れないはずの弟が口を開き僕を追い詰め僕を殺した。
だから僕は何をどうすればいい?決まっている。それを決意してこの世に戻ってきたんだから。
早く、早く、一刻も早く先手を打たなければ!
「そうだ、今夜にでも」
自分のものではないかのように口からぽろりと零れた言葉。
込み上げてくる興奮。
恐怖など訪れるものか!お前が与える恐怖より、僕が先にお前に恐怖を与えてやるんだから!
結局僕は部屋から一歩も出ず、夕食もとらなかった。
この喜々とした表情を家族に見られ、不審に思われては困るからだ。
そして、皆が寝静まった深夜、僕は計画を実行する。
あの日と同じように部屋から出て台所へ。
多分あいつは、僕の気配に気付いて僕に止めを刺しにやってくるにに違いない。
はたして、弟は僕の思惑通りに来た。
あの日と同じように僕の後ろに無言で立っている。
だから僕もあの日と同じような行動を取る。
「誠司も水飲みに来たのか?」
無言のままコクンと頷く弟。ああ、その行動もこちらは予測済みさ。
誠司のコップに麦茶を注いでいると誠司が口を開いた。
「お兄ちゃん…」
あの時と同じ。喋るはずのない弟が喋った。
振り向くと誠司は後ろでに何かを持っている。それをゆっくりと僕のほうへ向けて――
「うわぁぁぁぁぁ!」
このままではやられる!
考えと同時に体が動いていた。手元にあった包丁を持ち弟へと突進する。
グサッ!!
鈍い音と共に生温かい鮮血が僕の手を伝い床へと落ちる。
そして弟もその場に崩れ落ちた。
はは、僕は遂に復讐を成し遂げたんだ!こんな簡単に!!
その時、誠司の右手が動き握っていたものを僕に向けた。
「―――」
声にならない声。
何故か涙が止まらない。