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アナスタシアが来ないまま、時間だけが過ぎて行く。
ああ、もう何となく分かってるんだ。あいつは来ない。風邪を引いたとか、偶然今日だけ来ないとかじゃなくて、これからもずっと学校に来ないってことを。
朝から誰もアナスタシアの話題を1ミリメートルも出そうとしない。こいつらは、アナスタシアのことを覚えているんだろうか。
……何となく結果は見えていたが、聞くしかなかった。
「あのさ、井守。このクラスに転校生がいたの知ってるか?」
「え!? 初めて聞いたよ」
もっともなリアクションを見せる。そりゃそうだ。
「じゃあ、先日のシャトルランは覚えてるか?」
「うん、覚えてるけど。それがどうかしたの?」
こう返答されるのも分かっていた。昨日までの事実がなかったことになっていたらと思って聞いたのだ。カレンダーで確認もしたが日付に狂いはない。シャトルランがなかったことになっていたらそれこそ恐怖だったが……さて、これから俺は出題者不明の謎を解かないといけないらしい。
「すまん。寝ぼけてたみたいだ。忘れてくれ」
井守だけでなく、周りも変な目で俺を見ていた。どうやら俺だけがアナスタシアのことを覚えているらしい。
外を見ると、雲が一つだけ浮かんでいる。風に流されているわけでもなく、考え事をするには絶好の雲だ。加えて、晴天の霹靂たるアナスタシアもいない。それなのに、心にぽっかり穴が空いたようで、頭が回らなかった。
「どうした姉堂。さっさと昼飯食うぞ」
やけに強い口調、裾川だった。
「もう昼か」
「おう、お前朝からずっとそんな感じじゃねえか。いつもおかしいけど、今日はなんかヤバいぞ」
普段眠っているこいつにそう思われるってことは、相当なんだろうな。ん?昨日までの俺はどうだったんだ?
「昨日も一昨日も考え事してたけどよ。今日は何か違う」
昨日は確か、午前中はずっと寝ていて、午後からは起きていた。だが、一昨日は違うと言い切れる。アナスタシアがまだこのクラスに存在し、俺は寝続けていたはずなのだ。
「さっき、転校生って言ってたよな? あれ何なんだ?」
聞いていたのか。獲物を狙うチーターの目をしている。この目つきの時は執拗に知りたがろうとする。
「あれは寝ぼけてたんだ」
「嘘つけ、今日はお前寝てなかったぞ」
速攻でバレてしまった。仕方がない。
「金髪の美少女が転校してくる夢を見たんだよ」
「なんだ。タイプじゃねえやどうでもいい」
裾川はそっぽを向いてまた弁当を食べる作業に戻ってしまった。
そう言えばこいつは年上のお姉さんがタイプがタイプだったか。転校生にはすっかり興味をなくしたらしく、それ以上は聞いてこないようで安心した。
弁当を開けると、卵焼き、昆布、レタス、ハンバーグが待ち構えていた。それとご飯。至って普通だ。
ところで、なぜ弁当の卵焼きはこうも非日常的な破壊力がうまさがあるのだろうと噛みしめていると、体育教師の江崎が仏頂面で教室にズカズカと入ってきた。
江崎は教卓の後ろで立ち止まり、破壊するほどの勢いで拳を振り下ろした。鈍い音が簡潔に響く。
教室は一瞬で静寂に包まれた。
「よく聴いてほしい。昨日、誰かが屋上の鍵を開けて悪戯をしていった。朝、職員室に来た時には屋上の鍵はもう無くなっていたから、昨日の内に事件が起こったと考えていい。心当たりのある者は手を上げなさい」
誰も手を上げない。そりゃそうだ。やったのはアナスタシアで、あいつは既にいない上に、誰からも覚えられてない。完全犯罪だ。
いや、そんなことより、あいつが実在した証拠があったのだ。こんな話を長々と聞いている場合じゃない。すぐにでも教室を飛び出したい気持ちで山々だった。
「犯人は屋上に落書きをしていきました。これは立派な犯罪です。高校生にもなってこんな幼稚なことをする生徒がいると私は信じたくありません」
江崎の顔が興奮で紅潮し始めている。説教は長くなりそうだ。
俺は今すぐにでも手を上げてトイレに行くふりをして出ていきたいのだが、犯人だと疑われるのも敵わない。頼む。早く終わってくれ。
「胸に手を当てて考えてみろ。落書きした犯人のことを知っている者が出てくるまでお前たちに昼休みはない!」