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俺はこの一週間で何度学校に行きたくないと思っただろう。
来る日も来る日も、学校に来てはただ眠り、起きては帰る。果たして登校する意味があるのかという毎日。息を止めていても無駄。一枚千円するマスクを着けていても無駄だった。そしてついに、寝ていたら欠席扱いという悪夢の忠告を受けることになってしまった……。
チョークが黒板を叩く音が聞こえる。
どうやらまた寝ていたらしい。静寂の中、皆がこちらを見ている。
チョークの音が止んだ。
「おはよう」
数学教師も俺を一瞥し、板書に戻る。
最近、おはようばかり聞いている気がする。だが何となく、不思議な光景だった。
時計を見上げると、十二時二十四分。昼休み一分前だ。
これはどう受け止めればいいんだ? アナスタシアがまだ目の前にいる。
キーンコーンカーンコーン
しかし、終鈴が鳴ると同時にアナスタシアは立ち上がり、挨拶を待たずして教室の外に出て行った。
「どうしたのかしら? 挨拶をお願いします」
「起立、」
俺も礼を無視してアナスタシアの後を追う。
廊下に出ると、彼女の姿は階段の陰に消えた。上か、下か? 上は屋上だ。鍵がかかっている。となれば下か。
「待ってくれ!」
せっかく後ちょっとで捕まえられるって言うのに、このまま逃してたまるか。
階段を降りようとした時、上の方からガチャッという音が聞こえた。そのまま扉が軋むような音が廊下に響き渡る。
まさか屋上か!?
体を翻し、急いで階段を上る。踊り場に立って上を見上げると、扉が開いていた。
普段、屋上の扉は鍵がかかっていて立ち入りは禁止されているはずだ。一体どうやって開けたのか……。
罠なのかもしれない。だが今更もう後には引けない。
恐る恐る階段を登って行くと、やがて扉の向こうに人影が見えた。腰まで届くほどの金髪を垂らした女、アナスタシアだ。
もう逃げる素振りも見せない。むしろその顔は、俺を待っていたかのように、どこか笑っているように見えた。
いきなり何をしでかすかわからない。ゆっくりと近づいていく。
よく見ると、屋上全体に黒い曲線が張り巡らされている。マジックでも油でもなく、その黒自体が地面に溶け込み、樹木のように地面に根差している。
それはあまりにも異様な光景だった。
何をするつもりだったんだ……?
「おめでとう姉堂君」
もはや恐怖の対象でしかなくなった女が口を開く。
「まさかこんなに早く魔法が効かなくなるなんて予想外だったわ」
魔法……これを見るまでは何となくそうなんじゃないかなんて思ってたが、あまりにも常識からかけ離れた言葉に思える。
「やっぱりお前、何かしてたのかよ」
「ええ、生徒全員に弱い魔法をかけたつもりだったけれど、あなたには効かなかったみたいね」
まるで理解不能な日本語が華奢な体から飛び出してくる。
何なんだよ。こいつと相対しているだけで恐怖に駆られる。
「……耐性ができたということかしら?」
初めてはっきりと笑みを見せた。だがそれは笑いというよりも、何かを企む邪悪な微笑みに見えた。
何の事情も知りえなかったら、金髪の転校生にここまで狂気を感じることもなかっただろう。
「面白いわね。私のペットくらいにならしてあげてもいいわよ」
その台詞は、十年後の俺が聞けば喜び舞い上がっていたかもしれない。だがその時の俺は、脳に電極を刺されたかのように即答してしまった。
「誰がペットになんてなるかよ!」
脳に電極を刺されたまま動く言いなり人形など思い浮かべる余地もなく、目の前の少女には反感しか抱けなかった。
「そう、どちらでもいいわ。強引にでも連れていくから」
おもむろにアナスタシアが近づいてきた。
思わず身構えるが、彼女は歩みを止めない。
それ以上近づくと男女の関係になるんじゃないのか、と言うところで立ち止まった。
目はずっと下を向いている。髪から発せられる蠱惑の香りが鼻腔をくすぐる。何となく、ペットとして飼われるのもいいんじゃないかという思考が割り入ってくる。
「始めるわ」
「え?」
次の瞬間、地面が赤く光り出した。張り巡らされた黒の間から淡い赤色光が湧きだしている。
照らされたアナスタシアの顔はうつむいたままで、反応がない。
やがて光は徐々に弱まっていき、消えてしまった。。
しばらく茫然と立ち尽くすが、何も起こらない。少しだけ覗くことができたアナスタシアの顔は、動揺しているように見えた。
一体何が起こっているのかわからない。そろそろ説明してほしい。
「おい……」
その時、地面の曲線が再び光り出した。
「!!!!!」
光が急激に強くなる。黒い曲線は赤に変わり、脈打つように動き出す。
まるで血管のようなグロテスクさに、吐き気がこみ上げる。
辺りは完全に紅に染まり、何も見えなくなった。
……光りが収まると、、そこには一人の少年が立っていた。
普通に学生生活を送っているだけでは付くはずのない筋肉量と、少年の携える重量感のある剣が非日常を物語っている。
身に着けている服はあまりにも汚かった。囚人でさえもう少しまともな服を着ているだろうと思えるほどに黒ずんだ布の生地。
そして背中には、何とも不釣り合いな、全く汚れのない分厚いマントを背負っている。少年の双ぼうは鋭く、その矛先はアナスタシアを見据えている。
沈黙が場を支配した。
何が起こっているのか全く分からない。少なくとも数日前まで、UFOが現れたらなんて呑気なことを考えていた俺にとっては刺激が強すぎる。
「逃げなさい」
その言葉を聞いた途端、何か魔法でもかけられたかのように俺の体が階段に向かって動き出した。
半開きになっているドアを強引に開け、一目散に階段を駆け降りる。早く逃げなければ、できる限り早く!
あの二人が何をしているかなんて考えも浮かばなかった。巻き添えになんかなりたくなかった。
地面の感触が柔らかい。気が付けば内履きのままグラウンドに出ていた。まぶしい陽光が照る中で、心臓の音だけがいやに聞こえる。
咄嗟に逃げてきたが、あの2人はどうなったのだろう。屋上を見上げるが、物影一つ動く気配はない。
そのまま、昼休みが終わるまで俺は立ち尽くしていた。




