終端の瞳
ぼんやりと光る残り火とワインボトルから微かに臭う酒の臭いだけが残っている。空を見るに、今は深夜といったところだろうか。夜が明けるまではもう少し時間がかかる。
「誰も来ないな」
この国に入ってからまだ他の人間と会っていないのは、幸運なのだろうか。盗賊のような輩であればアナスタシアに氷漬けにされた魔物のような運命を辿ってしまうのだろう。
ずっと歩いていると脚が疲れてきた。この悪路のせいで普段使わない土踏まずの部分が痛い。まるで天然のツボ押し健康具の上で踊り続けているみたいだ。誰が頼んだわけでもないというのに。
そうやってとりとめもないことを考えていると、開けた場所に出た。人がくつろぐには十分な大きめのテントが四つたたずんでいる。その内の一つだけ明かりが漏れている。
先ほどまで迷いなく進んでいたアナスタシアも足を止め、特に動き出すわけでもないテントを眺めている。彼女にとっても初めての光景なのかもしれない。人もほとんど通らないこんな場所だ。どんな危険が待っているともわからない。
その時、明かりの漏れたテントの中から人影が現れた。
「誰ですか?」
「旅の者よ」
アナスタシアが間髪入れずに答えた。そして、大所帯ではないことを悟ったのか「よかったら休んでいってください」と言ってテントの中に消えてしまった。
テントの中に入ると、一対の椅子が添えられた、足の長いテーブルの上にランプが一つ置かれている。片隅には一人分の寝床。
テントの主は、成人しているかも見分けがつかない白髪の女性だった。
「不用心ね」
「ちょうど暇していたんです」
夜分遅くにしては血色のいい顔で答えた。
「こんな時間まで大変ですね。どこまで行かれる予定だったんですか?」
「レコまでね」
「ああ、レコ。いいところですよね」
「そうかしら? そうは思わないけど」
「まあ、人それぞれですよ」
二人が話すのを聞いている内に、俺は意識が途絶えた。そして、そのまま地面に倒れ込んだ。
「大丈夫ですか?」
慌てふためいた様子もなく、少女はアナスタシアに問いかけた。
「ただ歩き疲れただけね。そのままにしておきなさい」
二人は座ったまま。目だけを俺に向けて話している。
「あなたたちはここで何をしているの?」
「見張りです。巨大樹の」
「ふうん」
アナスタシアはまるで興味がないような目で会話から遠ざかった。
「四人で見張りをしているんですが、今日は私が起きている番なんです」
「私たちが怖くないの?」
「怖くないです。無防備に突っ立っている方々は珍しいくらいですよ」
「…………」
「今は『終端の瞳』の繁殖期なので訪ねてくる人も多いんです」
「もうそんな時期かしら」
アナスタシアは溜息をついた。
「起きなさい」
「ん……」
少し眠っていたようだ。眠りに落ちる前の記憶がある。テーブルに置かれたランプの明かりは消えていて、外は少しだけ明るくなりつつある。朝か。
顔が一人増えている。まだあどけなさを残した、白髪の少女。彼女は俺を見て微笑んだ。
「行ってらっしゃい」
この少女のことをなかなか思い出せないが、屈託のない笑みは、俺達に敵意があるわけではないのだろう。
「出発するわよ」
「? ああ……」
荒野には朝らしい湿った空気が満ちている。
少し眠ったおかげで体が軽くなった。陽も出てきたことで変な物につまづくこともなくなった。もうこれで道中いきなり倒れる心配もないだろう。
気になるのはアナスタシアだが……。こいつが一度でも宿屋で寝ているところを見たことがない。女性の寝姿を見るっていうのも不自然だが、寝ているのだろうか。まさか睡眠をとらなくても日常生活に影響のない種族なのか?
「なあ、寝なくても大丈夫なのか?」
「まだ大丈夫よ」
少し人間らしい回答だ。安心したよ。
「あれを見なさい」
唐突に彼女が指さした先には、森林が広がっている。その中に一本だけ巨大な樹木。それをちょうど見下ろす形だ。
「?」
「『終端の瞳』よ」
なるほど。そういうことか。距離にしてみればここから一キロメートルくらいだろう。辺り一面を覆う森林が緑の絨毯に思えてしまう。葉に覆われているのは巨大樹の上部だけで、幹の中部からは専用の枝が生えそろい、先端に黒い実を宿している。なんともきっかいなオブジェだな。
「で、どうしてこんなところに来たんだ?」
「指輪を出しなさい」
言われたままポケットから指輪を取り出す。
「あれが今、繁殖期だそうよ」
あれと言うのは『終端の瞳』を指しているのだろう。だが、いまいち意味がわからない。
「言っている意味がわからない。すまん。寝起きで頭が回ってないんだ」
「巨大樹から魔力を奪い取りなさい。上手くいけば、相当な魔力を得られるはずよ」
「なるほどな」
とは言ったものの、絶対に無理だろう。上手くいくイメージすらできない。
とにかく、形だけでもやってみないことには始まらないか。目を瞑って十秒間。やはり何も起こらなかった。
「無理だな」
「そう。それなら近くにいくしかないわね」
そう言ってアナスタシアは坂道を下り始めた。無理に行かなくてもいいんだが……。
「ここでやってみて」
森の手前。先ほどの場所から百メートルも歩いていない。
「遠すぎるから無理だ。もうちょっと近づいてもいいんじゃないか?」
「そう簡単に近づけたら苦労しないわ」
アナスタシアにここまで言わせる何かがあるのか。森の入り口は何の変哲もないようだが……。
再度、目を閉じ、深呼吸する。パンドラの箱から魔力を吸いつくした時と同じようにやればいいんだ。一キロ先の巨大樹を枯らしつくすほどに。
虫の静かな鳴き声だけが聞こえる。
「……難しいな」
無意識のうちに肩に力が入っていたのかもしれない。溜息をつき、森林を見る。すると、虫の飛ぶような音が聞こえてきた。気のせいかとも思ったが、虫の羽音よりもさらに低く、その音は見る間に大きくなっていく。だが、その正体は見えない。
「何だ?」
「来たようね」
やがてそれは爆音と呼ぶに大差ないほどに達したかと思えたが、またすぐに音は小さくなっていった。
その刹那、前方から凄まじい速度で何かが俺の頬をかすめた。
「あ?」
傷口から血が滲み始める。
「一匹しとめ損ねたわ」
平然と言ってのけた。まさか、大量の虫を撃ち落としたのか? 体中から嫌な汗が噴き出た。
「行くわよ」
そう言って彼女は歩き出した。
どうして付いて来てしまったのだろうか。逃げ出したいのが本心なのだが、体が勝手に動いてしまったとしかいいようがない。これもアナスタシアの魔法のせいなのかもしれない。それでも、俺は彼女の後ろ三メートルの距離を付かず離れず歩いている。これが絶対防衛ラインだ。見たくもないが、地面には大量の虫の死骸やら狼のような動物の氷塊が転がっている。氷の欠片もそこら中に散らばっていて、空気もひんやりとして幻想的だな。違う。そんなことを考えている場合じゃない。
「次が来たけれども、気にしないで集中しなさい」
狼のような動物に加え、大小様々な動物が視界に飛び込んでくる。そして、瞬く間に氷漬けになっていく。
こんな状態で集中できるはずがないだろう!……仕方がない、聞きたくはなかったが、聞くしかないのか。
「頼む、教えてくれ。どうすれば上手くイメージできる?」
「より集中できる方法でイメージしなさい。巨大樹までの糸を思い浮かべるのよ」
糸。それなら何とかイメージできそうだな。俺は静かに瞼を閉じて、脳裏に、巨大樹へたどり着く糸を思い浮かべた。その意図に一本の芯を走らせ、より強固なものにしていく。
だが、その時だった。急に前方から冷たい風が吹き、皮膚が痛み出した。アナスタシアを見ると、凍ったように固まり、長い髪だけが泳いでいる。
「どうした?」
「魔法使いがいるとは思わなかったわ」
確かに早朝から魔法使いがこんなところをウロウロしているのも奇妙かもしれないが、そこまで真剣な目になるほどのことだろうか?
「手練れの魔法使いね。喧嘩を買ってあげてもいいのだけれど、姿を見られるわけにはいかない。ここは一旦引くわ」
「お、おい!」
巨大樹のことも忘れてしまったように放り出し、アナスタシアは背を向けて走り出した。




