式典
雨の日特有のムッとした空気。元の世界にいた頃とそう変わらない。嗅ぎ慣れない町の匂いもわずかに混ざっている。その中に、まだ少しだけ覚えのある匂いが残っていた。
氷の魔女。こんな雨の中でどこに行くのだろうか。俺がこうやって眺めていることにも気づかないのだろう。その背中はどんどん小さくなっていく。
やがて、雨に紛れて見えなくなってしまった。思えばあいつを町中で見かけたのはこれが初めてかもしれない。いつもは町に着けばすぐに分かれてしまうし、普段あいつは他人に化けているからなかなかお目にかかることはできない。
ふと、民家の軒先を伝っている少女が目に留まった。既に濡れかけたローブを羽織った小柄な少女。
少女と目が合う。嫌な予感がした。
雨に濡れることも気にせず、少女は俺に狙いを定めたように一直線に向かってくる。
「あなたは大使の方ですか?」
「いや、違うけど」
「昨日、あなたが壁の外からやってくるのを見かけました。他所の国からやって来た人なんでしょう?」
見られていたのか。さて、なんて言い訳しようか。
「渡してほしいものがあるんです」
少女はローブの内側に手を差し込み、白い封筒を取り出した。 封筒を握る手が寒さのせいで小刻みに震えている。
「これを壁の外の茶色い屋根の家まで持って行って欲しいんです」
「自分で持っていけばいい」
「……お願いします。私達じゃ通れないんです。」
礼をするわけでもなく、少女は封筒を見つめている。
「持って行ってもいいけど、何が書いてあるか読んでもいいか?」
「駄目です」
周りを見回し、人がいないのを確認して封筒を受け取った。
雨の音が遠くなったように聞こえる。足元に水滴が落ち、平らな石畳にシミができる。渇いた地面をカツカツと鳴らしながら、薄暗い空洞の中をローブの男が歩いてきた。
「どうした?」
「ちょっと忘れ物をしてしまった。ここを通してほしい」
「ここがどこの国か知っていて言っているのか? 本来なら住民たちでさえ自由に行き来できないものを、大使だから特別に通してやっただけだ。うろちょろするな。めざわりだ」
「大事なものなんだよ。あれがなくなると困るんだ」
「そんなに大事なものなら大切に持っておけばよかっただろう」
「指輪なんだ。昨日落としてしまったみたいでどこを探しても見当たらない」
「そこまで言うなら通っても構わんが、二度と戻って来れなくなるぞ。いいのか?」
「……わかった。やめておこう」
夜の間に雨は止んでいた。式典当日、町は静かだった。ある種のお祭り騒ぎにでもなるんじゃないかと密かに期待していたんだが、別段そんなことはなかった。支度をして宿の外に出るとアナスタシアが待っている。それくらい普通の朝なのだ。
城に向かって歩いていた俺達に門兵が気づいた。
「城に入りたいのか?」
アナスタシアが頷く。
「残念ながらそれは無理だ。今日の式典は中止になった。お前たちのことではないのだが、どうやらこの国にスパイが紛れ込んでいるらしい。念には念を入れての決定だ」
「そう」
沈黙が流れる。あまりに自然すぎて違和感が遅れて出てきてしまった。アナスタシアは身を翻し、城から遠ざかっていく。
「昨日から中止になるという噂は流れていたが、まさか本当になるとはな」
「そのスパイってのは誰なんだ?」
「わからん。だが、誰だろうと恐れるには足りない。私たちもこの決定には疑問を持っているのだ」
どこか力のない歩き。そう見えたのは気のせいだろうか。
城壁の前で追いついた。
「もう出ていくのか?」
「ええ。これ以上ここにいる意味はないわ」
それはそうなんだろうが、今となってはなんでもっと暴れなかったのか。こいつのことだから何かを隠していてもおかしくはない。
空洞の中を進んでいく。門兵が俺達を見とがめるが、それ以上のことは何もしてこなかった。
城壁を抜けると寂れた町並みが広がっていた。それでも朝の光で幾分かマシに見える。
ふと横に目をやると、茶色の衣服と茶色の帽子に身を包んだ男が壁にもたれかかっていた。
「まだこっちの町を探索していなかったわね」
「ん、ああ」
「少し時間を頂戴。出発は半日後にしましょう」
半日後か……また随分と長いな。それまで俺は何をしてればいいんだ。
「次はどこへ行くんだ?」
「……東へ」
そう言って長い指先を伸ばして見せた。
「わかった」
手を下ろし、じゃあとだけ言って彼女は背中を見せた。
そして俺も歩き始めた。別段、ここに用がないわけではなかった。もう二日も前のことになるが、この町にエリシアと村長が来ていたらしい。あの時はすっかり忘れていたが、ひょっとしたらまだこの町に残っているかもしれない。……いや、それはないか。いくらなんでもあの二人がレム達を寒空の下に二日間も放置しておくとは考えにくい。
茶色い屋根の家。通りに誰もいないことを確認し、ドアノブに手をかけようとすると、ドアノブが勝手に動き、扉が開いた。
「あらあら。どなたかしら?」
中から餅のような体型の女性が出てきた。
「俺は……」
大使だと言っていいのだろうか。手紙を届けろとは言われたものの、目の前の女を信じられるわけじゃなかった。どんな国ともわからないのだ。下手なことを言おうものならまた牢獄にぶち込まれる羽目になるかもしれない。
そう考えると、自分の正体を明かすことはできなかった。ズボンのポケットから手紙を取り出し、ふくよかな女の手に握らせる。そしてすぐさま逃げ出した。
逃げ込んだ先は酒場だった。朝だというのに陽の光は入って来ない。ランプの淡いオレンジ色だけでもっている空間。テーブルを挟んで二人、カウンターに一人座っている。
「いらっしゃい」
一応未成年ではあるのだが、ここにいることを許されたらしい。遠慮がちにカウンターに座る。
店内にほとんど音らしき音はなく、皆、自分の世界に浸っているようだった。
「兄ちゃん、あんたこの国の者じゃないだろ?」
隣の男から発せられた声だった。
「俺のお気に入りの酒が切れちまったんだがよ……取って来てくれないか?」
まるで意味がわからなかった。酒に酔った男の世迷言と思って聞き流してしまっていいのだろうか。
「自分で取って来い」
後ろのテーブルから投げるような声が聞こえた。
「俺はなあこの町を気に入ってんだよ。あんまり出たくないんだ。しみったれたこの町にしかないもんだってある。なあ、ここからずうっと東に行って酒を取って来てくれないか?」
「は、はあ……」
「やめとけやめとけ。そいつの話を聞いたっていいことなんてないぞ」
一旦雰囲気が落ち着いたように見えた。沈黙が流れる。
「昔はこうじゃなかったんだがな。魔法使い達に追い出された時はもっと活気があった」
「あったな。いい意味でも悪い意味でも」
「何を思ったか城壁の前で市場を開き始めたんだよな」
その場にいた俺以外の全員が笑い出した。
「そいつの言ってる珍しい酒だってその頃なら手に入った。今は無理だがな」
「あの頃の活気が八だとすれば今は三だな。いや二か。一か。何にせよ今は何も起こりゃしねえ。でかい岩をぶつけりゃ枝はへし折れるが石ころをいくらぶつけたってなんともならんだろう」
「まあ、そんなわけで昔を懐かしんでるやつもいるってこった」
外に出るとアナスタシアが立っていた。
「半日じゃなかったのか?」
「いいのよ」
彼女の表情は読み取れなかった。
「そうか。じゃあ行くか」
「ええ」




