旅立ち
橙色に染まりかけた空、可もなく不可もない陽の光が野原に注ぎ、前を行く美少女の髪は柔らかにそれを受け止めていた。
彼女の名前はアナスタシア。おそらく偽名だ。出会った頃から俺はそう呼び続けているが、特に改名しなければいけない理由もないだろう。
聞くところによれば氷の魔女とかいう物騒な通り名を持っているらしいのだが、再会してまだ間もなく、氷の魔法を使っているのは一度も見たことがない。催眠術のようなものに苦しめられたことはあったけどな。万物を一瞬にして凍り付かせる瞬間を見たくないこともないのだが、そんな犯罪まがいのファンタジーが使われる機会なんてやはり犯罪まがいの危機に陥った時くらいだろう。それなら無理に拝むことなんてないさ。
思考を延々と繰り返している内、座るのにちょうどよさそうな岩が二つ、進行方向から遠く離れた位置にポツンと浮かんでいるのが見えた。
このまま真っ直ぐ歩いているだけでは草食動物でもなければまず気づかないだろう。気づいていたとしても、この女に人の心はあるのか、休憩という概念はあるのかという速度で歩き続けている。
歩き始めてからずっとこの調子で、碌に言葉も交わしていない。そろそろ歩き疲れてきたし、休憩してもいいんじゃないかと口に出そうか迷っていると、糸が切れたように目の前の少女は立ち止まった。
「ここで少し休憩しましょう」
どうやら彼女にも人造人間並みに思慮はあったらしい。
岩に触れそうなほどに長く垂れ下がった金髪が沿うように揺れ始めた。ローブは遠目からでもわかるほどにボロボロで、形見なのだとか言われなければ俺の学ランと交換してもいいとさえ思えた。
だが実際にはそう簡単には切り出せない。彼女の座る岩までは如何せん距離があり、俺がちょっと声を出したところで、運悪く風にさらわれていったらそれこそ砂になって絶望の声を垂れ流しながら風にさらわれてしまうだろう。
そこへ偶然、旅人が通りかかって「お知り合いですか」なんて聞かれても「他人です」としらを切り通せるくらいには離れているのだ。
……いや、やめよう。貴重な休憩をこんな実行し得るはずのない作戦に割くのはもったいない。
学ランのポケットから、草に包まれた堅い餅のような携帯食料――昨夜の内にリカードからもらったものだ――を取り出し。ゆっくりと紐解いて行く。四つ持ってきたうちの一つだ。水分がないことを置いて、これだけあれば流石に次の町までは持ってくれるだろう。
かじってみる。ああ、期待通りの不味さだ。保存されていた場所がまずかったのだろう。他の食料の濃厚な臭みと酸っぱさが染みついている。こんな物を食べた後で女の子と話すのは可哀想じゃないか。男ならいいのかという問題でもないのだが。俺も命が懸かっているのだ。我慢してくれアナスタシアよ。
そんな混沌に犯されていく思いで食料を飲み込むと、アナスタシアが立ち上がり、振り向いた。
「行きましょう」
「あ、ああ」
先程から全く物騒な会話しかしていない。お前はどうか知らないが、俺は機械じみた受け答えマシンの役を好きこのんやってるわけじゃないんだ。何なら彼女の方から俺に切り出してくれても全然問題はないのだが。
さて、考えてみれば食事も碌に取っていないはずの少女が何時間も前から同じペースで歩き続けているというのは奇妙で、実は食事をしていたのだろうか。彼女の動きを監視し続けていたわけではないが、何かを食べるような素振りを見せたことはなかった。昨夜から何一つ口にしていないはずだ。俺の見ていないところで十秒チャージでもしているのか?
魔女だから食べなくても平気なのかもしれないという思考を受け付けられない俺をよそに、草原に見受けられるようになってきたのは野菜を忘れているぞと言わんばかりの木々だった。木、木、木、林。段々と緑が視界を占めるようになってくる。
「そろそろよ」
何がだ?
森の入り口。そういっても過言ではない。明らかにそこを境に木が密集し、先が見通せなくなっている何かが見えてきた。
アナスタシアはそこに向かって迷いなく進んでいく。おい、わざわざこんな気味の悪い所を通り抜けるのか?
森の中に入って景色はすっかり変わってしまった。てっきり薄暗い緑がはびこっているのかと思っていたが、辺りには異常成長したかのようなひまわりに似た植物達が群生している。ひまわりってのは太陽に向かって育つんじゃなかったか? この植物たちはシャワーヘッドみたいに下を向いた残念な形に育っている。
一つだけ喜んでいいことがあるとすれば、この花に異世界特有のセンサーなんかが付いていて、俺たちに種やらなにやら飛ばしてくれる恐怖がないということだ。
森の中に、聞いたこともないような動物達の低い唸り声が木霊し始めた。自然と噛みしめる歯に力がこもる。
肝心のアナスタシアは疲れなど微塵も感じさせないような速度で歩いていく。茎が細いおかげで見失うことはない。
だがどうやら俺の体にも限界が来ているようだった。走ろうとしても足が上がらない。重い。目の前の華奢な少女が軽々と茎を掻き分けていくのが嘘みたいだ。飯も碌に食ってないのにどこからそんなエネルギーが出てくるんだ?
陽の在り処はひまわりに隠れてわからない。隙間から見えるわずかにオレンジがかった空が音もなく夜に侵蝕されていく。アナスタシアはこれを恐れていたのかもしれない。
「痛え!」
何かが顔に当たった。と思ったら虫だった。
恐る恐る周りを見回しても動物の気配がない。声だけが聞こえる、というのも逆に奇妙だ。
ふと、金髪の美少女は立ち止まった。遠くからこちらを見ている。毒とも薬とも取れない視線。俺の身を案じてくれたのか?
「ハァ……ハァ……」
走ってもいないのに肩で息をしながら追いつくと、無造作に彼女は言い放った。
「ここよ」
緑のカーテンを彼女が掻き分けると、夕闇の中に町が見えた。




