日常編1
いつもと違っていたのはその日からだった。
予鈴の鳴る二十分前。俺はいつも通り、一年二組の教室に到着した。
教室内には既に生徒が数名いてくっちゃべっている。しかも、誰一人勉強せずに。
教室に足を踏み入れると、視線が俺に集まった気がした。しかし、俺は気のせいだと頭から一蹴してそのまま歩き出してしまった。
まずは、我物顔で陣取る教卓を最小限の動きでかわす。普段ならここでつまづいたり、鞄の遠心力に負けて大幅にタイムロスをしてしまうのだが、それもない。
一気に加速した体をできる限り自然に減速させ、初めからそこにいたかのように、すっぽりと椅子にはまった。
記録は四秒。調子がいいことが証明された。勝因は体調が優れていたことと、最前列に誰も座っていなかったこと。
淡い優越感に浸りながら、姉堂マコトは窓の外を眺め、UFOの考察を始めることにした。
小学生の頃から学年が変わる度に、俺の席は窓際最前列から始まることが決まっていた。姉堂マコトなんていう名前を授かったその日から、それは運命だったのかもしれない。春のこの時期に限っては、俺の目の前に人がいるなんてことは転校生でも来ない限りあり得ないことだった。
そしていつからか、俺は教室に入ってから着席するまでの完全なる独りよがり――タイムアタック――に挑戦するようになっていた。
……それにしても、周りが変に騒がしくて思考に集中できない。
単なる思い違いならいいんだが、話し声の中によく「姉堂君」と言う単語が使われている気がしてならない。
何を話しているんだろうか。非常に気になる。まさか、タイムアタックの件だろうか? 極力目立たないようにやっていたつもりだったが、ついに詰問される時がきたのだろうか……?
しかし、タイムアタックの件にしろそうでないにしろ、悪口の可能性を意識してしまうと恐ろしくて振り向くことができない。
やがて、背後に人の気配がした。
「姉堂くん、そこ、姉堂くんの席じゃないよ」
「え……?」
半ば金縛り状態の俺に声をかけてくれたのは、後ろの席の井守香住だった。おかっぱ頭に人畜無害なきょとんとした目。そして、癒しのソプラノボイス。どちらかというと家庭を守ってくれそうだ。
教室は静まり返り、俺に視線が集まっていることに気付いた。
罠なのか? ドッキリなのか? そのソプラノボイスで俺をはめようとしているのか? いや、井守は間違ってもそんな罰ゲームじみたことに乗る女の子じゃない。じゃあどういうことなんだ……。
後ろの席の女子生徒の思わぬ行動に、かえって金縛りが強固なものになってしまった。
周りにも笑いを堪えようとしている奴はいない。この様子からすると、俺が騙されているとかいう話でもなさそうだ。
声の主もどう返答すればいいか迷っているようだった。
嘘だろ? と聞き返したかったが、口に出すことはできなかった。
「おはよう」
静寂を打ち破り、突如、別の方向から解が飛んできた。
金色ブロンドのロングヘアーに、整いすぎた顔立ち。明らかに制服が似合ってない。
紛うことなき美少女なのだが……こんな奴、学校にいたか?
「えっと……誰?」
そう言うと、目の前の美少女は一瞬だけきょとんとした表情を見せたが、すぐに戻った。
「アナスタシア・エリカよ。そこは私の席。姉堂君でいいのよね? あなたの席は私の後ろ」
ありがとう。丁寧な対応だ。おかげでほとんど思考停止状態で席から立ってしまった。
「ありがとう」
彼女はどこかぶっきらぼうな声でそう言い放ち、見とれるような動きで、俺が座るはずだった椅子に座って行った。
……ふんわりと甘い匂いが漂う。
転校生なのだろうか。
俺も席に着くと、教室の雰囲気が戻り始めた。
何だったのだろう。何時から彼女は『俺の席』にいた?
どことなく素っ気ない「ありがとう」が俺の中で永遠に木霊する。
金髪美少女の背中は何も語り掛けてこなかった。