02
ニシキに危害を加え、血塗れにした元凶である黒炎は再び移動を開始した。教室の出入り口へと向かっている。逃げた女子達を追いかけるつもりのようであった。
(させん!)
ニシキは黒炎に組み付いた。
(!? なんだこの抱き心地)
すると意外にも心地好い感触がした。
黒炎はニシキを振り解こうと暴れ、彼の体を壁に激突させた。
深い傷を負い、出血が酷く、その上尋常でない膂力で叩き付けられ、ニシキの命は非常な危険に晒された。だが彼は黒炎から離れなかった。女子達を守るため、ニシキは捨て身で黒炎を足留めしたのである。
我が身を顧みず、ニシキがここまで命懸けになれてしまう理由、それは彼が『優しさ至上主義』だからであった。彼は以下のような考えを持っている。
人間は高い知能を有する生命体である。では人間は、何のために高度な知能を持つに至ったのか。それは他者の痛みを理解するためである。他者の痛みを理解する、これすなわち優しさのためである。
つまり人間は優しさのための生き物である。
優しさあらずんば人間にあらず、である。
優しさないという事は、他者の痛みがわからないという事である。他者の痛みがわからないという事は、理解力が乏しいという事である。理解力が乏しいという事は、馬鹿という事である。すなわち優しさない人間は、人間でなくなり、単なる馬鹿と成り果てるのである。
人間が人間であるために優しさは必須である。ゆえに人間にとって優しさは命を賭する価値がある。よってニシキは女子を守るという優しさために捨て身となれるのであった。
(放すものかよ)
ニシキは何度も意識が飛びかけたが、気力を振り絞って黒炎に組み付き続けた。
しばらくの間揉み合っていると、唐突に黒炎が脱力した。そして床に倒れてうずくまり、動かなくなる。その体表から放たれていた赤光も弱まっている。
(急にどうしたんだろう)
ニシキは黒炎の様子を窺った。
途端に黒炎が残像を残すほどのスピードで飛び掛かってきた。
大ダメージを負い弱っているニシキは黒炎をかわす事が出来ず、押し倒されてしまう。
教室の床に仰臥するニシキの上に黒炎が馬乗り状態になっている。
黒炎の目と思しき2つの光点がニシキの眼前にゆっくりと下りてきた。
光点の奥底には荒れる海流のような何かが渦巻いている。
ニシキは2つの光点から視線を外せなくなり、思わず見入ってしまった。次の瞬間、彼の視界は真っ白になった。眼前でカメラの連続フラッシュを浴びせられているようであった。白く染まったのは彼の視覚だけではなかった。ニシキの頭の中も、白で侵食されていった。思考は強制的に停止し、現実感が失われ、ニシキは朦朧状態に陥ってしまう。意識が混濁しているニシキの視野は狭く、そしておぼろげとなった。そんな彼の視野に映っているのは、いつの間にか殺風景な教室の天井のみとなっていた。自分に馬乗りとなっていた黒炎の姿は見当たらなくなっている。
(どこへ……いった)
ニシキは黒炎を探そうとしたが、体は全く言う事を聞いてくれず、彼はただぼんやりと教室の天井を見続けている事しかできなかった。声さえ出ない。ニシキの体は、傷と出血と打撲と謎のフラッシュによって衰弱し切ってしまっていた。
(クラスの女子達は無事に逃げただろうか)
時間の経過により体が回復する事をニシキは期待した。しかし傷口からの出血が続いているためか、時間が経てば経つほどニシキの状態は悪化し、彼の意識はさらに遠退いていった。
(これは……死ぬな)
上手く回らない頭で、ニシキは思った。
(俺は『挑目者』になる事なく終わるのか。甚だ残念だ)
挑目者とは、ニシキオリジナルの造語である
『生きる目的を持ち、実際にその目的へ挑んでいる者』の事を、ニシキは『挑目者』と形容しているのであった。
ニシキは、自身が挑目者となる事を渇望していた。しかし、彼はこれまで『生きる目的』をどうしても見出す事ができなかった。
生きる目的無しでは挑目者にはなれない。
ゆえにニシキは、ずっと挑目者を夢見ながらも、なる事ができないでいたのであった。
(女子達を最後まで守り切ったのかも確認できず、挑目者になる事も叶わず俺は死ぬのか。いろいろと無念だ)
そんな事を考えていると、天井しか見えていないニシキの視界に新たなものが映った。
それは女性の顔であった。
黒髪ストレートのロングヘアで切れ長の瞳をした美少女である。凛としている。面識は全くない。歳の頃はニシキと同等ぐらいであった。
ニシキは、その少女を目にした途端、はっとした。彼が驚いたのは、少女の見目が麗しかったからという訳ではなかった。
少女が『輝いている』からニシキは目を見張ったのである。
輝いている、とはニシキが他者と接した時に感受する、彼独自のフィーリングであった。
具体的にどのように感じ取れるのかというと、その言葉通りニシキには相手が特殊効果でも施したようにキラキラと光って見えるのであった。
この輝くというフィーリングがどういった相手から感じられるのか、ニシキは自分なりに解明させていた。
それは挑目者であった。
ニシキは先にも触れたように挑目者となる事を狂おしいまでに熱望している。その強い想いが彼の第六感に作用し、人を目にすると、相手が挑目者かどうか自動的に看破して、輝きという形で認識できるのだ、とニシキは己の特殊なフィーリングを結論していた。
(俺の人生の中で輝いている人間に出会ったのは、これで4人目だ)
ニシキは輝く少女に見惚れた。
少女は、てきぱきとニシキの傷の応急処置を開始した。
処置を受けているニシキは、少女に対して違和感を覚えた。
(なんだか、とても事務的な感じがする……)
大怪我を負っているニシキを見る少女の目には、憐憫や同情といったものが一切無かった。
唯々無感情である。
その無感情さは手当ての挙動にも表れており、的確かつ迅速であったが、労りが感じられず、たんたんとしていた。
「もう少し頑張ってください。間もなく救急車が到着します」
励ましの言葉を少女は口にしたが、その言葉にも心はこもっておらず空ろな印象を受けた。そしてそれ以上、少女は話しかけてこなかった。
必要な処置を終えると、少女はニシキの事を顧みなくなってしまった。彼女の視線は、じっとニシキの傍らにある何かに注がれていた。
少女が何を見ているのかニシキは知りたかったが、首を傾ける事すらままならなかったため、確認できなかった。
少女はゆっくりとした動作で、凝視していた何かの側に跪いた。彼女は両腕で、その何かをかかえ上げ、そして力強く抱いた。
その動作はニシキに対応していた時と打って変わり、一挙手一投足に万感の感情がこもっていた。
(今、この少女が抱いている何かは、彼女にとってよほど大切なものなのだろう)
ニシキは自身の感覚が薄れていくのを感じていた。意識を保っているのが限界を迎えたのである。
少女は何かに向かって語りかけている。
その口調はとても晴れやかであったが、途切れようとしているニシキの視界の端に映る少女の姿は、どうしようもないほどに空虚であった。
そうした少女の様相に、胸が締め付けられる感覚を味わいながら、ニシキは気を失っていった。