死にたい中年と少女の話
宮本は、死ぬつもりだった。
夜十一時を過ぎた、海沿いの歩道橋。
宮本は柵に手をかけた。
四十八歳。
会社では仕事を減らされた。
妻とは離婚した。
娘とは一年近く会っていない。
それだけなら、たぶん死ななかった。
宮本は柵の向こうを見た。
車のライトが流れている。
「……もう、いいか」
そのとき、少し離れたところで金属音がした。
制服姿の少女が、柵に足をかけていた。
「おい!」
少女が振り返る。
「何やってんだ!」
少女は宮本を見たあと、その手元を見た。
「そっちこそ」
宮本も柵を握っている。
「俺はいいんだよ」
「なんで」
「お前には関係ない」
「じゃあ私にも関係ないでしょ」
宮本は黙った。
少女がまた柵へ体を向ける。
「待て」
「何」
「……やめろ」
「だから、なんで」
分からなかった。
宮本自身、死のうとしている。
それなのに、この少女が落ちるところだけは見たくなかった。
「面倒くせえな」
「話しかけたのそっちでしょ」
「そうだな」
風が吹いた。
しばらくして宮本が言った。
「順番決めるか」
「は?」
「二人いっぺんだとややこしい」
少女が露骨に顔をしかめた。
「頭おかしいんですか」
「お前に言われたくない」
少女はしばらく宮本を見ていた。
やがて、柵から足を下ろした。
「……喉乾いた」
「俺も」
二人で自販機まで歩いた。
宮本は缶コーヒー。
少女はココア。
歩道橋の端に座る。
「名前」
「美月」
「宮本」
それだけ交換した。
美月がココアを開ける。
「なんで死のうとしたんですか」
「そっちから言えよ」
「学校」
「そうか」
「聞かないんですか」
「言いたきゃ言うだろ」
美月は少し黙った。
「私が話すと、みんな一瞬黙るんです」
宮本は缶コーヒーを飲んだ。
「LINEも、私だけ返事こなかったり」
「うん」
「私がいない方が、みんな楽しそう」
「うん」
「大したことないですよね」
「知らん」
美月が宮本を見る。
「そこ、大丈夫とか言うところじゃないですか」
「大丈夫なのか?」
「大丈夫じゃない」
「じゃあ言えない」
美月はココアに口をつけた。
「宮本さんは?」
「仕事」
「それだけ?」
宮本は少し間を置いた。
「……まあ」
美月はそれ以上聞かなかった。
その夜、二人は連絡先を交換した。
「また死にたくなったら連絡する」
「宮本さんも?」
「俺も」
「頑張れとか言わないでくださいね」
「言わん」
「生きろも」
「言わん」
美月は宮本の連絡先を登録した。
《歩道橋》
「なんだそれ」
「分かりやすいから」
翌朝、美月からメッセージが来た。
《生きてる?》
宮本は返した。
《腹減った》
《私も》
《飯食え》
《説教禁止》
《説教じゃない》
それから、ときどき連絡が来るようになった。
《数学12点》
《すごいな》
《何が》
《逆に難しい》
《うざ》
宮本から送ることもあった。
《会議で一言も喋らなかった》
《すごい》
《何が》
《出席する意味ある?》
《うざ》
ある夜。
美月から電話が来た。
宮本は画面を見たまま固まった。
着信音。
昔も、同じような時間に電話が鳴った。
部下の新田だった。
宮本は出なかった。
翌朝、新田は会社に来なかった。
その日の午後、死んだと聞いた。
宮本は、美月からの電話に出た。
「もしもし」
『宮本さん』
「どうした」
『別に』
「別にで電話するな」
少し沈黙。
『……ちょっと話したくて』
宮本の指に力が入った。
昔の留守電が蘇る。
『宮本さん、ちょっとだけ話せませんか』
「話せ」
『え?』
「何でもいい」
『別に大した話じゃないですよ』
「いいから」
美月はしばらく黙っていた。
それから数学教師の悪口を始めた。
宮本は最後まで聞いた。
電話を切ったあと、机の引き出しを開けた。
古いスマートフォンが入っている。
そこには、まだ新田の声が残っていた。
宮本は電源を入れなかった。
数週間後。
美月から連絡が来なくなった。
一日。
二日。
三日。
《生きてる?》
返事なし。
四日目の夜、宮本は歩道橋へ向かった。
美月はいた。
柵の向こう側に立っていた。
「美月」
「来ないで」
宮本は止まった。
「分かった」
その場に座る。
「何があった」
「全部」
美月は泣いていた。
「もう無理」
宮本は何も言わなかった。
「なんで来たの」
「連絡なかったから」
「なんでそんなに気にするの」
宮本は答えなかった。
「娘さんの代わり?」
「違う」
「じゃあ何」
宮本はしばらく黙っていた。
「前に」
美月を見る。
「電話に出なかったことがある」
「誰の?」
「部下」
「……」
「次の日、死んだ」
美月は宮本を見た。
宮本は続ける。
「仕事で追い詰めてた」
「宮本さんが?」
「そうだと思う」
「思うって何」
「誰も俺のせいだとは言わなかった」
「……」
「俺はそう思ってる」
風が吹く。
美月の髪が揺れた。
「だから私を助けたの?」
宮本はすぐには答えなかった。
「最初は、そうかもしれない」
美月の表情が変わる。
「私、その人じゃない」
「分かってる」
「分かってない」
「そうだな」
「最低」
「そうだな」
美月は泣いていた。
「私を助けたら、その人助けたことになると思ってる?」
「ならない」
「じゃあなんで来たの」
宮本は美月を見る。
「今は、お前だから」
「何それ」
「知らん」
「またそれ」
「お前がいなくなるのが嫌なんだよ」
美月は黙った。
宮本も黙った。
しばらくして。
「明日」
宮本が言った。
「何」
「どっか行くか」
「どこ」
「まだ決めてない」
「意味分かんない」
「水族館」
「普通」
「映画」
「普通」
「ハローワーク」
「嫌」
美月が少し笑った。
そのあと、ゆっくり柵をまたいだ。
宮本の隣に座る。
「宮本さん」
「何」
「その人の電話、まだ残ってる?」
宮本は答えなかった。
美月も、それ以上聞かなかった。
春。
二人はまた同じ歩道橋にいた。
美月が海を見る。
「私、まだたまに死にたくなります」
「俺も」
「普通、否定するところじゃないですか」
「嘘になる」
美月は笑った。
「でも今日はいいです」
「俺も」
「明日は?」
「明日決める」
宮本のスマートフォンが震えた。
娘からだった。
《今度、ご飯行かない?》
宮本は画面を見た。
少しだけ迷って、
《行こう》
と返した。
「早」
美月が言う。
「返事は早い方がいい」
「急に学びましたね」
宮本はスマートフォンをポケットに入れた。
何も解決してはいなかった。
過去も消えない。
明日になれば、学校も会社も待っている。
それでも今日は、
二人とも、
柵のこちら側にいた。




