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死にたい中年と少女の話

掲載日:2026/10/04

宮本は、死ぬつもりだった。


夜十一時を過ぎた、海沿いの歩道橋。


宮本は柵に手をかけた。


四十八歳。


会社では仕事を減らされた。

妻とは離婚した。

娘とは一年近く会っていない。


それだけなら、たぶん死ななかった。


宮本は柵の向こうを見た。


車のライトが流れている。


「……もう、いいか」


そのとき、少し離れたところで金属音がした。


制服姿の少女が、柵に足をかけていた。


「おい!」


少女が振り返る。


「何やってんだ!」


少女は宮本を見たあと、その手元を見た。


「そっちこそ」


宮本も柵を握っている。


「俺はいいんだよ」


「なんで」


「お前には関係ない」


「じゃあ私にも関係ないでしょ」


宮本は黙った。


少女がまた柵へ体を向ける。


「待て」


「何」


「……やめろ」


「だから、なんで」


分からなかった。


宮本自身、死のうとしている。


それなのに、この少女が落ちるところだけは見たくなかった。


「面倒くせえな」


「話しかけたのそっちでしょ」


「そうだな」


風が吹いた。


しばらくして宮本が言った。


「順番決めるか」


「は?」


「二人いっぺんだとややこしい」


少女が露骨に顔をしかめた。


「頭おかしいんですか」


「お前に言われたくない」


少女はしばらく宮本を見ていた。


やがて、柵から足を下ろした。


「……喉乾いた」


「俺も」


二人で自販機まで歩いた。


宮本は缶コーヒー。

少女はココア。


歩道橋の端に座る。


「名前」


「美月」


「宮本」


それだけ交換した。


美月がココアを開ける。


「なんで死のうとしたんですか」


「そっちから言えよ」


「学校」


「そうか」


「聞かないんですか」


「言いたきゃ言うだろ」


美月は少し黙った。


「私が話すと、みんな一瞬黙るんです」


宮本は缶コーヒーを飲んだ。


「LINEも、私だけ返事こなかったり」


「うん」


「私がいない方が、みんな楽しそう」


「うん」


「大したことないですよね」


「知らん」


美月が宮本を見る。


「そこ、大丈夫とか言うところじゃないですか」


「大丈夫なのか?」


「大丈夫じゃない」


「じゃあ言えない」


美月はココアに口をつけた。


「宮本さんは?」


「仕事」


「それだけ?」


宮本は少し間を置いた。


「……まあ」


美月はそれ以上聞かなかった。


その夜、二人は連絡先を交換した。


「また死にたくなったら連絡する」


「宮本さんも?」


「俺も」


「頑張れとか言わないでくださいね」


「言わん」


「生きろも」


「言わん」


美月は宮本の連絡先を登録した。


《歩道橋》


「なんだそれ」


「分かりやすいから」


翌朝、美月からメッセージが来た。


《生きてる?》


宮本は返した。


《腹減った》


《私も》


《飯食え》


《説教禁止》


《説教じゃない》


それから、ときどき連絡が来るようになった。


《数学12点》


《すごいな》


《何が》


《逆に難しい》


《うざ》


宮本から送ることもあった。


《会議で一言も喋らなかった》


《すごい》


《何が》


《出席する意味ある?》


《うざ》


ある夜。


美月から電話が来た。


宮本は画面を見たまま固まった。


着信音。


昔も、同じような時間に電話が鳴った。


部下の新田だった。


宮本は出なかった。


翌朝、新田は会社に来なかった。


その日の午後、死んだと聞いた。


宮本は、美月からの電話に出た。


「もしもし」


『宮本さん』


「どうした」


『別に』


「別にで電話するな」


少し沈黙。


『……ちょっと話したくて』


宮本の指に力が入った。


昔の留守電が蘇る。


『宮本さん、ちょっとだけ話せませんか』


「話せ」


『え?』


「何でもいい」


『別に大した話じゃないですよ』


「いいから」


美月はしばらく黙っていた。


それから数学教師の悪口を始めた。


宮本は最後まで聞いた。


電話を切ったあと、机の引き出しを開けた。


古いスマートフォンが入っている。


そこには、まだ新田の声が残っていた。


宮本は電源を入れなかった。


数週間後。


美月から連絡が来なくなった。


一日。


二日。


三日。


《生きてる?》


返事なし。


四日目の夜、宮本は歩道橋へ向かった。


美月はいた。


柵の向こう側に立っていた。


「美月」


「来ないで」


宮本は止まった。


「分かった」


その場に座る。


「何があった」


「全部」


美月は泣いていた。


「もう無理」


宮本は何も言わなかった。


「なんで来たの」


「連絡なかったから」


「なんでそんなに気にするの」


宮本は答えなかった。


「娘さんの代わり?」


「違う」


「じゃあ何」


宮本はしばらく黙っていた。


「前に」


美月を見る。


「電話に出なかったことがある」


「誰の?」


「部下」


「……」


「次の日、死んだ」


美月は宮本を見た。


宮本は続ける。


「仕事で追い詰めてた」


「宮本さんが?」


「そうだと思う」


「思うって何」


「誰も俺のせいだとは言わなかった」


「……」


「俺はそう思ってる」


風が吹く。


美月の髪が揺れた。


「だから私を助けたの?」


宮本はすぐには答えなかった。


「最初は、そうかもしれない」


美月の表情が変わる。


「私、その人じゃない」


「分かってる」


「分かってない」


「そうだな」


「最低」


「そうだな」


美月は泣いていた。


「私を助けたら、その人助けたことになると思ってる?」


「ならない」


「じゃあなんで来たの」


宮本は美月を見る。


「今は、お前だから」


「何それ」


「知らん」


「またそれ」


「お前がいなくなるのが嫌なんだよ」


美月は黙った。


宮本も黙った。


しばらくして。


「明日」


宮本が言った。


「何」


「どっか行くか」


「どこ」


「まだ決めてない」


「意味分かんない」


「水族館」


「普通」


「映画」


「普通」


「ハローワーク」


「嫌」


美月が少し笑った。


そのあと、ゆっくり柵をまたいだ。


宮本の隣に座る。


「宮本さん」


「何」


「その人の電話、まだ残ってる?」


宮本は答えなかった。


美月も、それ以上聞かなかった。


春。


二人はまた同じ歩道橋にいた。


美月が海を見る。


「私、まだたまに死にたくなります」


「俺も」


「普通、否定するところじゃないですか」


「嘘になる」


美月は笑った。


「でも今日はいいです」


「俺も」


「明日は?」


「明日決める」


宮本のスマートフォンが震えた。


娘からだった。


《今度、ご飯行かない?》


宮本は画面を見た。


少しだけ迷って、


《行こう》


と返した。


「早」


美月が言う。


「返事は早い方がいい」


「急に学びましたね」


宮本はスマートフォンをポケットに入れた。


何も解決してはいなかった。


過去も消えない。


明日になれば、学校も会社も待っている。


それでも今日は、


二人とも、


柵のこちら側にいた。

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