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黒曜日のあなたへ

作者: 兎角送火

「痛い痛い痛いッ!」

「チッ、このガキ!」

 髪を引っ掴まれて路地裏に放り出され、脇腹に蹴りを貰って向かいの壁際に倒れ込む。

 ゴミ箱が引っくり返って中身が散乱し、私はそれを頭から被る羽目になった。

 唾を吐きかけてくる小太りの男の足に、それでも必死に縋り付く。

「ごめんなさい、許して!まだやれます!お願い見捨てないでっ!?」

「おい、もう一辺その面見せてみろ?次は」

「ひっ!?」

 背の高い頬のこけた男がしゃがみ込み、懐からナイフを取り出して頬に這わせてくる。

 薄暗い路地裏で鈍色の刃が妖しく煌めいた。

 男達が扉の向こうに消えるまでの間、私は灯りを浴びながら両目を覆い、ガタガタと震えていた。

 扉が閉まる音が鳴り、路地裏は水を打ったように静まり返る。

 曇天からぽつぽつと降り出した雫は、次第に雨足を強めていった。

 膝を抱えて座り込んだ私は、煤けた恰好で虚ろに空を仰いだ。

「またひとりか……」

 雨が地を打つ音に、声が掻き消された。


         *


 路上を歩くと吊り橋みたいにグラグラ揺れる。

 別に風で揺れている訳じゃない。

 左右に視線を送ればさざ波に宵の街灯りを漂わせた水面が覗えるだろうからだ。

 尤も今の私に脇目を振っている余裕などないけれど。

 すれ違う年配の好々爺然とした老人夫婦が、こちらに気付いて眉を潜めた。

 自然と私は肩を聳やかし、脇に寄って俯きがちにやり過ごす。

 背後から声が聞こえてくる。

「見ろよ、あの角」

「汚らわしい。これだからスラムなんて、さっさと焼き払うべきだと言うのに」

 眇める碧い瞳を外灯が舐めた。

 指をそっと伸ばせば、前髪の中に小さな硬い感触がある。

 額に突き出た双角は、この先一生地獄であるという烙印だ。

 道端に置き捨てられていた空き缶を蹴って水に落とす。

 ぷかぷかと浮き沈みした後で、口から水を呑んで沈んでいくアルミ筒を立ち止まって見つめていると、かぶりを振ってまた歩き出した。

「ぶっ」

「おっと」

 俯きがちに歩いていたせいで、誰かの外套に顔をぶつけてしまったらしい。

 鼻を押さえて後退ると、長身の青年が微笑みを浮かべてこちらを見下ろしていた。

 後ろで束ねられた長い赤毛と、怜悧な面差しが目を惹く。

「大丈夫ですか?お嬢さん」

「……ご、ごめんなさいっ」

 顔を見られたことに気付き、慌てて地べたに額を擦り付ける。

 蹴るか殴るかされると思い、反射的に肩が震えた。

 しかし何も起こらない。恐る恐る面を上げると、彼は跪いてこちらに手を差し伸べている。

「そう畏まらずに。こちらこそ不注意でした。申し訳ない」

 引っ張り立たされ呆けている間に、男は「では」と短く言葉を残して歩き去っていった。

 その背をぼんやり見送っていると、後ろから今度こそ罵声が響く。

「おい、突っ立ってんなよ!!」

 押しのけられた拍子に水に落ち、泡を引き連れながら沈んだ。

 籠って聴こえる音にパニックを起こし、もがきながらやっと浮上する。

「ぶはっ」

 途端、耳に入ってくるのは複数人のさざめくような嘲笑だった。

 それを聞いて顔を伏せ、人気を避けて路上に登ってから、早足に帰途を急ぐ。

 周囲の視線はあまりに多く、一度振り返ろうとしたが、止めた。


         *


 張り倒されて転がった先に机の脚があり、背中を打って呻き声が漏れた。

「ったくこんだけかよ」

 ガタイのある大男が、太い指で紙幣を数えながら舌打ちする。

 それから屈んで私の髪を掴み上げ、恐ろしい剣幕を寄せた。

「次は倍持って来い、いいな」

「……いえ、あの……もう、仕事が……」

「ぁあ?」

 パンッ。

 一瞬前と視界が移り変わっていて混乱する。頬を叩かれたと気付くのに、三秒掛かった。

「お前の親父がこさえた借金が幾ら残ってるか、分かってんだろうな?」

「……分かり、ました」

 髪を放されてこめかみが板床を弾む。

 のろのろ立ち上がって戸のない出入口から外に出ると、交代するように私より身なりの良い年少の少年が、私に弓なりに反らした横目を向けながらすれ違った。

 大男の機嫌良さげな称賛と、少年の気取った高い声が聴こえてくる。

 服の袖をぎゅうっと握り込むと、布の解れ目から生白い肌が覗いた。

 列を為す少年達の横を俯きがちにすり抜ける。

 つま先が何かに引っ掛かって、前のめりに転んだ。

 幾つもの幼い笑い声が、雨に混ざって降り注いできた。


         *


 外壁に蔦の茂った電車の廃車両で、私は座席に登って毛布に包まっている。

 夜も更けだが、厚い雲が空を覆っているせいで星明りもなく、足下に置いた壊れかけの非常灯だけが頼りだった。

 それも壊れかけていて、心許なく点滅を繰り返している。

「……お父さん」

 口に出すと胸が早鐘を打ち、強い耳鳴りと共に全身から脂汗が吹き出した。

 荒い息を吐きながら胸ぐらを掴み、体を丸めてやり過ごす。

 落ち着いてくると、泥のように不快な睡魔がやってくる。

 うとうとと瞼を開け閉じしていると、断続的に今日の思い出が蘇ってくる。

 罵声、唾吐き、蹴り足、拳、平手。

 咄嗟に目をかっ開いた。

 弾かれたように身を起こす。

 何か変だ。

 車窓から赤々とした光が差し込んでいる。

 明け方?

 いや、色が違う気がする。

 それに、心無しか焦げ臭い。

 リュックサックに、非常灯と残りの電池と、水筒と腕時計と毛布とを詰め、ジッパーを音を立てないように下げる。

「ひっ!?」

 車窓が割れて拳大の石が座席に跳ね返った。

 外から幼い笑い声が響いてくる。

 反対側の扉をそっと開けて、走って逃げる。

 廃駅のホームに、ランタンを提げた子供達の姿が見えた。


         *


 建物の屋上に昇ると星がよく見える。

 じっと三角座りで膝に額を埋めていたから、寒風に体が強張っていた。

 一望できる灯景を横目にしていると、自分がこの街の一員であるという実感が湧かない。

「おや、先客ですか?」

 ハッチの開く音がして、振り返ると赤毛を後ろで束ねた青年が目を丸くしていた。

「君は……また会いましたね、お嬢さん」

「っ、すぐ出ていきますっ」

 慌てて立ち上がると、体がふらつく。

 足に力が入らない。

 膝を着き、顔をやっと上げれば彼は面貌に微笑みを貼り付けていた。

 血の色をした瞳に悪寒を覚える。

「そう慌てずとも、追い出したりはしませんよ。今宵は星が走っています。もう少し眺めていかれては?」

 青年は隣に腰を下ろし、胡坐にしては背筋を真っ直ぐ伸ばして天を仰いだ。

「僕はジークと言います。そちらは?」

「……ピッケと呼ばれています」

「鶴嘴、ですか?女性に付ける名前にしては少々……」

「そ、育ての父が付けてくれました。ごみ溜めに埋もれていた所を見つけてくれて、お前は掘り返すのに丁度良いからと」

 金の髪を掻き分けて右側の角に指で触れると、ジークは目を細める。

「……なるほど。ですが、詩的な響きがあって、僕は好きですよ」

 四つん這いになって赤毛の青年をジッと見つめていると、彼は不意に立ち上がった。

「ところで、ピッケさん。つかぬ事を伺いますが、その額」

 その手が角に触れる。

「良ければ私が、買い取りましょうか」

 黒髪がさらりと降りて、ジークの指先に掛かる。

 今思い出しても、後悔ばかり。

 もしあの時振り払っていたら私は、憐れで惨めな一匹の鬼のまま短い生涯を終えられた。

 あれほど多くの命を、手に掛けることも無いまま。

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